奈良と京都を結ぶ山々の中の聖地
かつて平城京が置かれた奈良市は奈良県、旧国名で「大和の国」の北の方に位置する。その北に隣接する山城の国の南部は、交通の便でもかつての平城京にむしろ直結し、今日でも地理的にも文化的にも京都よりも奈良との関係が深い。例えば鉄道も奈良の方に直接つながっているし、浄瑠璃寺からかつての本山・興福寺と中世に一体化していた春日大社の山に続く遥拝道は、今日でもハイキングコースとして整備されている。
なお奈良国立博物館もかつての春日興福寺の境内にあり、春日大社の東西の塔があった辺りに位置しているので、展覧会を見た後は徒歩で浄瑠璃寺の現地に…とまではさすがにお勧めしないが、近鉄奈良駅に出ればバス一本で浄瑠璃寺と近隣の岩船寺に行ける。
奈良国立博物館で仏教美術の展覧会を見ることの大きなメリットのひとつは、こうして現地に行って展示で見たこと、学んだこと、インスパイアされた思考を確認もできることだ。博物館からバスで浄瑠璃寺か岩船寺に行けば、この両者の間はかつての参道・修行の道をたどって徒歩で小一時間もかからず、比較的穏やかな道で、石仏や磨崖仏(岩の表面に仏の姿を彫ったもの)も見られる。
こうした仏像を産んだか、あるいは仏像がその場所のために作られた風景を肌で感じ、その空気を呼吸する体験でもある。
岩船寺の本尊は主要部分が一本の巨木の大きな像なので、さすがに展覧会などで移動するのは無理だろうが(本堂から出せるかどうかも疑わしく、ムクなのでものすごく重いはず)、この寺からは同じく平安時代初期の名作で重要文化財にも指定されている、普賢菩薩騎象像が出品されている。
普賢菩薩はその名の文字通り、普遍的な賢明さを体現する菩薩で、法華経に詳しく記載されている。法華経は古くは聖徳太子、そして最澄がとりわけ重要視した経典で、長文で難解ながらも、平安貴族の間では自ら写経することも流行した。
古代の仏教の受容では、女性は悟りを開いて解脱・救済される可能性が低いという偏見が根強かった。だが法華経の理論では、誰にでも悟りに至れる仏性が備わっているとし、つまり生まれや性別に基づく差別偏見が否定されるため、普賢菩薩は平安時代に女性の成仏の守り本尊とされ、女性であっても宮中で大きな政治権力を持つ人物もいて、また財産の相続が基本的に母系だった平安時代には、特に人気があった。
我々の世代の学校教育では、桓武天皇が奈良から長岡京、そして平安京(今の京都)に遷都したのは、仏教勢力の影響を嫌ってのことだと教わり、なので平安時代に奈良の仏教は衰退したと思い込まされてきた。これは奈良や南山城に平安時代の仏像の方がむしろ多く残っていることと、どうにも辻褄が合わない。我々の世代までの歴史教育には、どうも仏教の日本史における役割を過小評価するというか、比叡山の僧兵を極端に悪者視するような、仏教を得てして政治の正しい在り方を邪魔する存在のように解釈する傾向があるように思える。
確かに平安時代になると、それまで奈良の東大寺と唐招提寺が独占していた僧侶の公的任命権を担う戒壇の設置権限が、最澄が率いた天台宗の比叡山にも与えられ、その天台宗と空海の真言宗が平安時代の仏教界の主流になってはいる。だがだからと言って奈良(南都)の寺社やその神仏の信仰が廃れたわけでは、決してなさそうだ。むしろ興福寺と春日社はその平安時代中後期にライバルを蹴落としてついに中心権力の完全掌握に成功した藤原氏の氏寺・氏神として、栄華を極めた最高権力者一族の多大な支援で栄えていたし、奈良からさらに先には修験道の霊地で桜の名所でもある吉野山などの、平安貴族が好んで参拝したり遊山に出かけた聖地もある。
南山城は宗教都市・奈良と新しい都の平安京を結ぶ地域として、むしろより重要になったのかも知れない。また実際にも、だからこそこの地域には、平安時代の優れた文化財が数多く残っているのだろう。
浄瑠璃寺の本堂と九体阿弥陀像は平安時代中後期のものだが、奈良時代の創建と伝わる岩船寺は本尊・阿弥陀如来坐像も今回出品されている普賢菩薩も平安時代初期、そして同じ木津川市の、木津川と山城国分寺跡を中心とする加茂地区を北から見下す山の中腹にある海住山寺の十一面観音菩薩立像も、同じ時代の一木造りの、これまたとても個性的な造形を見せる傑作だ。
浄瑠璃寺も岩船寺も山中にあるし、山の中腹にある海住山寺には、電車とバスで行こうとしても最後には急斜面の山道を中腹まで上がらなければならない。そこに立つ五重塔(国宝)は鎌倉時代のものだが、こんなに険しい坂を部材や仏像を運んで上がる労力を考えるだけでも…当時のことだから使える動力はせいぜい牛馬、人力こそがメインだった。つまり、それだけの労苦も厭わない信仰の情熱の強靭さや、海住山寺が創建された奈良時代であれば、政治権力に仏教を重視す強固な意思があったことが、強くうかがえる。
寺伝によれば、海住山寺の建立は聖武天皇の勅願で、開山は東大寺の別当の良弁上人だ。この場所は東大寺から見て鬼門にあたり、その鬼門封じに寺を建てることで大仏建立の無事を祈願したという。
科学も近代医学もない時代である。こうした方位を重んじる思想(現代でいう風水)は中国由来のものだが、仏教を国の根幹において当時の国際水準の文化文明国家を目指した聖武天皇の朝廷は、こうした中国の方位学も積極的に取り込んでいる。大仏建立もその一環の最大の目玉になる重要な事業であり、その無事のために建立された海住山寺の建立も、大仏の建立と同様ただ国家の権力と財力によるだけでなく、信仰心に基づく一般民衆の協力もあったのかも知れない。
と同時に、この海住山寺の由来もまた、奈良の仏教と南山城の深いつながりがよく現れたことでもある。後の江戸時代に東大寺大仏殿が再建された時にも、南山城はその材木の採取や運搬で大きな役割を果たした。