まったく同じものが並んでいるようで、個性的にそれぞれが異なっていること
浄瑠璃寺の本堂では須弥壇(祭壇)の前面が机状に高くなっていて、台座はその影に隠れてほとんど目に触れることがないが、蓮の花弁の一枚一枚が豪華かつ精緻に作り込まれた蓮台も含めて製作当時のもので、今回の展示ではそこもじっくり見ることができる。
台座も光背も当時のものが残る仏像は、珍しい。火災などがあると真っ先にまず本体を運び出すことになるので、台座などはどうしても失われてしまい、後の時代に補われたり、他の仏像の光背や台座が転用されてサイズ違いになっている例さえあるのだが、浄瑠璃寺の九体阿弥陀は光背も造立当時のもので、本展では全体が見えるように取り外されて別個に展示されている。
この光背がまた、そっくり同じだとばかり思い込んでいたのが、デザインがまるで異なっていたことに驚かされる。
丹念な植物の浮き彫りはとても力強く、花が咲き誇る阿弥陀浄土への想いと、神聖さが自然と結びついた和風の感受性が見て取れる。 ここの寺で安置された状態ではなかなか見えないので、是非ともこの際にその精緻さを堪能しておきたい。
一見、まったく同じものが並んでいるように見える整然とした美しさが、実はそれぞれ異なっていることの持つ、繰り返しとズレの個性ということを、考えさせられる。
これまで見て来た9世紀、10世紀の仏像はそれぞれに表現がとても多様で、個性的な造形が地域ごと、あるいはそれこそ一体一体の仏像ごとに見られる。それが11世紀12世紀と時代が進むにつれて、ある種の統一感が見られるようになるのは、平安朝の宮廷政治の安定が全国的な権威の確立となって広まっていく政治的な過程と、パラレルでもあったのかも知れない。なんといってもこの時代の仏教は朝廷や貴族階級と、つまりは政治と密接に関わっていて、寺社の存在そのものが政治的だったとさえ言える。
そうして平安時代の仏像の完成形である「定朝様」に至る。摂関家・藤原氏が重用した大仏師・定朝が確立したとされるこの様式がいずれ全国を制覇するまでに広まった背景には、一本の木から彫り出す「一木造り」から、複数の部材に分けてバラバラに彫ったパーツを組み上げる「寄木造り」へと仏像造りが変わって行った技術革新もあった。複数の部材をそれぞれに彫って組み合わせるとはつまり、パーツ分けによって工房での分業制による大量生産的な造仏も可能になったことも意味する。手なら手、頭なら頭、あるいは足と、バラバラにそれぞれの部位をそこを得意とする仏師が手掛け、最後に全体を組み立てるのは、多数の仏像をいわば同時並行的に大量生産できる技術であり、定朝のスタイルが全国を席巻できた大きな理由にもなったが(つまり複数の像を同時に作成できるので地方からの多数の発注にも同時に対応でき、また分解した状態なら輸送も楽だ)、逆に言えば同時に多数造立される仏像どうしが極端に似通っていないと、この合理性は成立しない。
だがそうした彫刻史の定番の観点で、あらためて浄瑠璃寺の九体阿弥陀をよく見ると、逆に非常におもしろい話になりそうだ。
一見同じ形の阿弥陀如来坐像が並んでいるように見えるようでありながら、一体一体がその実確かな個性を持って異なっているのは、どういうことなのだろう? つまりは大量生産的なパーツ分けでよく似た部品を複数作るのとは異なった、より手間がかかる凝ったやり方が、明かに意図的に行われていたはずだ。
改めてよく見ると、二体は毛髪の、とぐろ状の「螺髪」の表現も異なっていて、「その1」の方がより一つ一つが大きくて丸っこく、彫り込みが深く明快なのに対し、「その8」はひとつひとつの粒がこじんまりとしていて、整然とした印象になっている。頭の形もずいぶん違う。
これは同じ大きさで同じ定印の阿弥陀像の一体一体を、あえて複数の工房に競って作らせた、というようなことも考えられる。
同じポーズ、同じ大きさの阿弥陀像を8体作るのには一つの工房にまとめて注文して、8つのよく似た(あるいはまったく同じ)手や頭部をそれぞれ分業で量産させることもできたはずだ。だが浄瑠璃寺の場合はそれではつまらない、あるいは見た目の、形だけの九体になってしまうのを避けて、より深い宗教的・哲学的な意味をそこに込めようとしたのだろうか?
形式的な決まり事の「型」を厳格に重んじているようでいて、だからこそ同じ型でも決して同じ表現にはならないことの奥深い個性の表現というのは、のちの時代の伝統芸能でも培われた、日本固有の美意識でもあろう。いうまでもなく、近代に映画でその究極のありようを追求したのが小津安二郎の後期・晩年の作品だ。小津はあえて同じ構図の決め方のルールを貫き、異なった俳優にあえて同じような語調の台詞を、同じような押さえ気味の抑揚で語らせ、その身体の動きも最低限に限定すればするほど、厳然と不動のキャメラのフレームの中に際立つのは、一人一人の俳優に確固たる個性があって、決して同じには見えないし、同じになるはずもない個々人の本質的な多様性だ。
そんな日本的な美意識だけでなく道徳観、世界観そのものを表すとも言えそうな創作の源流が、たとえばこの九体阿弥陀にあるようにも思える。