力強い目と、その視線と同方向に突き出されるかのような腕の迫力。リアリズムすら通り越した強烈な描写は、現代のマンガや劇画にさえ通じる。
三白眼の凄まじい目力は「玉眼」、目にガラスや水晶の玉を嵌め込む技法で表現されている。
こうして目をリアルに見せること、彫りが深くひだがうねるように誇張された衣の表現などは、鎌倉時代の彫刻の特徴だ。今日でもあまりに有名な運慶・快慶らの「慶派」を筆頭に、このようなリアリズムや躍動する身体性の表現が探求されたのが平安時代の末から鎌倉時代、12世紀末から13世紀以降なのだが、その鎌倉時代末か南北朝時代のこの像には、そんなリアリズムの迫真性の探求をも突き抜けた凄みがある。
考えてみたらヨーロッパの彫刻でリアリズムと人間の肉体美の理想化が探求されるようになったのはミケランジェロらのルネサンスの時代で、15〜16世紀だ。常々思うことだが、日本の彫刻の鎌倉時代のリアリズム革命が200年以上も先行していたことは、もっと注目されていいのではないか?
この像も、その西洋美術のルネサンス革命より100年ほど前に作られたものだ。法蓮上人という、飛鳥時代から奈良時代にかけての高僧を表していることが、同様のポーズを取った絵画から特定されている。突き出した右上から袖を広げているのは、天から降って来た宝珠を受け止めるためだという。
鎌倉時代のリアリズム、そのリアリズムを突き詰めた先のマニエリズム的とさえ言えそうなこの「法蓮上人坐像」がいかに革新的だったのかは、それ以前の日本の彫刻と比較するとよりはっきりする。
写真は大倉集古館の所蔵品の中でも至宝の中の至宝、国宝にも指定されている普賢菩薩の像で、日本の仏像の古典的な表現が確立された平安時代の中後期の中でも、屈指の美しさの傑作だ。
左右対称を基調とした落ち着いた、端正な造形だ。衣のひだも深くは彫り込まず、その線も適度に整理されていて、心安らぐような、静かな印象を覚える。900年近く経って彩色はかなり褪色しているが、金箔を細く切って貼り付けた精細な装飾(截金)などはよく残っている。とても華やかだが、繊細な美意識が行き届いていて、造られた当時の鮮やかな色彩でもそう「派手」には見えなかったのではないだろうか?
あらゆる面で、ほぼ200年後に造られた法蓮上人の坐像と対照的だとも言える。
もちろんその200年のあいだには源平争乱があり、鎌倉幕府が成立し、承久の乱で日本の政治権力の主体が貴族から武士に移る政治体制の激変があり、朝廷と貴族が主な担い手だった仏教は、禅宗が中国からもたらされ、浄土宗や浄土真宗、日蓮宗などの新しい宗派も生まれ、既存の宗派も庶民を含むより広い階層への布教に積極的になり、信仰の担い手は武士階級だけではなく一般大衆へと広がっていた。
法蓮上人坐像の造形の強烈な迫力は、そうした仏教の大衆化に伴ったある種の「わかりやすさ」にも通じ、またその力強さは、より「頼り甲斐」があるというか、確かな救済や魔除け、厄除け、不幸を取り除いてくれそうな信頼感も、与えてくれるものだったのかも知れない。
法蓮は、現代の大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮の僧侶だった。奈良時代にここの祭神・八幡神が仏教に帰依して平城京の東大寺に迎えられてその鎮守神とされた(手向山八幡宮)。日本古来のカミガミへの信仰と、元は外来宗教であったものが朝廷に受け入れられて国家宗教となった仏教が融合して行った、いわゆる「神仏習合」の成立における大きなきっかけになる出来事だ。
元は宇佐地方の土着の農耕神だったと考えられる八幡神は、「八幡大菩薩」と呼ばれるようになる。「菩薩」とは、悟りを開いてブッダ(如来)となる前段階を指す仏教用語で、日本古来のカミが仏に仕えて自らも悟りを目指して修行中の身である、という理解が成立したわけである。だから菩薩でもある八幡神を祀る宇佐神宮に、法蓮のような仏僧がいたことにも、なんの不思議もなかった。