仏教の庶民化と鎌倉時代の南山城
日本社会の中世における大転換は、朝廷と貴族階級に代わって武士が政治権力を掌握したこと…ではない。
武士階級の勃興と権力掌握は、もっと大きな社会変革の当然の結果に過ぎず、決して中世の日本が武士の暴力こそが権力基盤、軍事力こそが権力の正当化とみなされる時代に突入したわけではない。
鉄の農具の普及などの農業技術の発達で、農民が貴族や荘園領主から自立して自作農となり、農村共同体が成立したことだ。仏教の担い手も平安時代までの天皇の朝廷と貴族階級から、中世には新興政治権力者の武士と、農業生産性が飛躍的に向上して余剰生産物を商品として売買するようになった農民・庶民階級に移る。
こと奈良を中心に、奈良時代に唐から来日した鑑真がもたらした仏教の原点である戒律の教えの復興の機運が高まる。この新たな戒律の教えの指導者たちは、庶民階級にも積極的に布教し、庶民の方でも自立的な経済的な力はつけたものの、あまりに戦乱が相次ぎ社会が不安定化していた中で、彼らもまた仏教に救いを求めるとともに、戒律の教えを自分たちを律する道徳・価値観の規範ともしたのだろう。
南山城地方では興福寺出身の僧・解脱上人貞慶が、笠置寺、そして海住山寺へと拠点を移しながら、精力的に戒律の復興の布教を進めて行った。
先にも触れた海住山寺の国宝・五重塔も、解脱上人による復興の流れで建立されたものであり、だから険しい坂道の上の境内にこの五重塔をはじめとする伽藍を復興させた原動力には、庶民に広まった信仰の情熱もあったことだろう。
鎌倉時代は言うまでもなく、平安時代に完成された仏像のスタイルである定朝様の定型化を打破して、新しい仏像の様式が生まれた時代でもあった。
解脱上人の活躍で仏教が大きな力を持った南山城地方には、鎌倉時代の優れた仏像も残っている。むろん庶民も含めて戒律の教えが布教されていく過程において、仏の姿をリアルに想像できるこうした仏像は、大いに役立ったことだろう。
もちろん木の仏像ではあるが、その表現はかつての奈良時代の乾漆像や塑像が持っていたような身体のリアリティが蘇ったかのような、生身の身体の存在感がある。深い彫りの布地の襞の、うねるように躍動した衣の彫りや、指の一本一本で微妙に曲がり方が異なった手の、軽く力が入ったような繊細な生々しさも、奈良時代の仏像に通じるところがある。
西洋の彫刻で身体表現のリアリティが取り戻されたのはルネサンスの時代だ。鎌倉時代の日本の仏像の誇張された身体的リアリズムはそれを200年、300年先取りしているが、両者の表現の世界で起こったことは基本的に同じか、少なくとも共通している。西洋のルネサンスは古代ギリシャ=ローマの人間性の表現の復興だったが、日本の鎌倉時代の彫刻もまた、奈良時代の仏像表現を古典として参照し、その人間的なあり様の力強さを取り戻すことにインスパイアされたもので、しかもそれを動機づけた宗教的な理由の大きな一部分は、奈良時代に確立した仏教の原点の教え、戒律の復興と、釈迦如来への憧れだったわけでもある。