意外と知られていないことだが、東京国立博物館の敷地と上野公園の全体、さらに東京芸大のキャンパスから上野駅、南は上野広小路の一部から北は鶯谷駅と山手線までを含む地域が、明治維新以前には広大な寺院の境内だった。博物館は本坊の跡地で、その正面、大噴水の位置に建っていた巨大な根本中堂(江戸で最大の建造物だった)に安置されていた秘仏の本尊が、タイトル画像の薬師如来立像だ。
伝教大師最澄 (神護景雲元<767>年 〜 弘仁13<822>年)が自ら彫ったとされ、それも最澄がのちに天台宗の信仰の中核・比叡山延暦寺の前身、一乗止観院を故郷の坂本に近い比叡山中に開いた際に自ら彫り、延暦寺の絶対秘仏の本尊となった薬師如来立像と同じ木だったとも伝わる。
徳川三代将軍・家光が、祖父家康以来のブレーンで幕府の平和統治の理念的・精神的な礎を築いた天台宗の名僧・天海(慈眼大師)の進言で、江戸城の北東の上野台地に東叡山寛永寺を創建した際、近江(滋賀県)の石津寺から迎えられた本尊像だ。
京都の東北にある比叡山にちなみ、江戸城の鬼門封じに当たる方角に創建された「東の比叡山」、家光の治世の寛永年間だったので、最澄が比叡山に一乗止観院を開いたのが平安時代の延暦4(西暦785)年だったことから「延暦寺」と呼ばれているのに倣って「寛永寺」である。
この絵図は現在の上野恩賜公園のほぼ全体にあたる俯瞰だ。右下の高台に赤い神社が見えるのが今は西郷隆盛像と彰義隊の供養墓がある山王台で、ここには比叡山延暦寺の鎮守である山王権現の日吉大社にちなんだ山王権現社(日吉神社)があった。左に曲がって上に伸びているのが現在の「さくら通り」で寛永寺の参道、惣門の黒門を入ってすぐの右手の崖に、桜に囲まれて懸け造りの舞台がある清水観音堂が描かれている。
比叡山の東塔の楼門「文殊楼」にちなんで「文殊楼」と呼ばれた巨大な二層の楼門を経て参道を上り切った先、台地の最も高い場所になる広場に入ると、まず西塔の渡り廊下で連結された常行堂と法華堂の二つのお堂を模した「にない堂」が目に入ったはずだ。その渡り廊下の下をくぐった先にあったのが、この薬師如来立像が安置されていた根本中堂だ。
左側の画面外になるが、琵琶湖のほとりにある比叡山にちなんで上野台地の西の低湿地帯が整備されて不忍池が造成され、その中之島には辨天堂(弁天堂)が置かれて琵琶湖に浮かぶ弁財天信仰の聖地・竹生島から平安時代の作の八臂大辨財天坐像が本尊として迎えられた(年一回9月の巳の日に開帳の秘仏・巳の日は弁財天と同体とされる宇賀神の縁日)。不忍池に面した崖に建つ清水観音堂は京都の清水寺を模したもので、その本尊(毎年旧暦・初午の日のみ開帳の秘仏)も平安時代の千手観音菩薩坐像が、清水寺から勧請された。この清水観音堂と、あとはいくつかの門と手水舎だけが、現存するかつての寛永寺の伽藍だ。
注)他に上野動物園の中に立つ五重塔が「旧寛永寺五重塔」と長らく呼ばれて来たが、本来は上野東照宮の仏塔。明治維新後に神仏分離令に基づく破壊を逃れるために所管が寛永寺に移され、その後東京都に寄贈された。
天海は上方・畿内の聖地と同時に観光名所(比叡山、清水寺、琵琶湖の竹生島)を模したお堂を設置しただけでなく、広大な境内に奈良の修験道の聖地で都人にとっての桜の名所・吉野山から運ばせた桜を植え、将軍の墓所・霊廟もある将軍家の菩提寺の寛永寺は同時に花見の名所となり、江戸時代を通じて庶民の憩いの場として賑わった。
天海は家光を動かして、織田信長の焼き討ちで焼失していた比叡山の根本中堂(現在は2026年に完成予定の10年がかりの大修理中、内部の拝観・参拝は可能)も再建させた。
また家光が日光で祖父の初代将軍・家康が祀られた東照宮を絢爛豪華に建て替えたのと併せて、天台宗とその系統の修験道の一大道場だった日光山を復興、没後は二人ともその日光山輪王寺に葬られた(天海は慈眼堂、家光は大猷院殿霊廟)。
徳川家自体は浄土宗の檀家で、家康は江戸においては芝に移転した増上寺と、京都の総本山・知恩院を菩提寺と定めた。自身は少年時代には臨済宗の禅僧・太原雪斎(今川義元の軍師でもあった)を師として学び、同じく臨済宗の以心崇伝を外交や法制度整備のブレーンとして重用している。大坂の陣の口実となった「国家安康」の鐘の銘も以心崇伝の策略だったと言われる。
だが新しい体制の精神的な支柱を構築していく上でのブレーンは、天台宗の天海だった。なぜなのだろう?
天海が実は明智光秀だったという俗説はともかく、家康が目指したのは比叡山すら破壊を免れられなかった戦国時代を終わらせ、社会に安定と安心、秩序を取り戻し永続的な平和統治を実現することだった。
そこには徳川がもたらした泰平への民衆からの信頼(単に武力で権力抗争に勝っただけではない、道徳的ななにか)の回復が不可欠だったはずであり、そのためにこそ家康と、孫で幕藩体制を確立した家光にとって、天海と天台宗の協力が不可欠だったのではないか?
平たく言ってしまうなら、比叡山の破壊を皮切りに各地で皆殺しを命じ続けた信長と、その信長の政権を継承し、東北地方の征討や太閤検地でも逆らう者は皆殺しと繰り返し命じ、国内の戦乱がやっと収まったかと思えば朝鮮半島を侵略、文字通り有無を言わさぬ皆殺しの虐殺を派兵した諸公に強要した秀吉の政権は、配下の武将たちにとっても、統治される民衆にも、決して天下が統一されてこれからは、と安心させてくれる支配者ではなかった。
徳川の幕府が豊臣政権を倒して新たな統治者には、そうした暴力と恐怖によるのではない別の、精神的ななにかが必要だった。それが800年も京を霊的に守って来た比叡山で虐殺が起こって破壊されたまま、と言うのでは、神仏の加護を祈ることが「迷信」ではなくリアル、医学もまだまだ未発達で加持祈祷が薬の服用と同レベルの「治療法」だった時代だ。比叡山の再建も、新興都市の江戸に京にとっての比叡山に比肩するような霊的な守りを作ることも、まず「安心」につながる重要政策でもある。
では最澄から始まった日本の天台宗が、そこまで日本人の精神文化に深く根ざしたものになっていたとしたら、それはなぜなのだろう?
この特別展でその歴史を代表する様々な宝物や文物を見ることは、単に平安時代から中世初期にかけて天台宗とその周囲で作られた仏像や仏画、装飾経などが美術・工芸品として質が極端に高く、かつ多様であることに驚嘆するだけでなく、具体的なモノを通してその「なにか」の心というか深層心理の部分、いわば歴史的に形成された日本人の精神的アイデンティティを考える上でも、大きな刺激になる。
東叡山寛永寺は幕府が終焉した明治維新の戊辰戦争の最中、「上野戦争」と呼ばれる江戸(東京)で唯一の大規模戦闘の舞台になり、伽藍のほとんどが一昼夜で焼失した。今年の大河ドラマ『青天を衝け』では、戊辰戦争を幕府側で戦った渋沢栄一の親族たちが埼玉の飯能に転戦した時に、遠方で上野が燃えているのを見るシーンがあったが、これだけの広大な境内に立ち並ぶ堂塔のほとんどが炎上したのであれば、高層ビルなどなかった時代には、標高が高い飯能からはその火も十分に見えたことだろう。
直接的にはまさに渋沢栄一の親族たちのような、新政府に反抗して幕府の復活を唱える旧勢力が立て篭ったから、というのが普通の歴史的な説明にはなるが、だとしてもなぜ、ここまでやる必要があったのか? 立て篭もった彰義隊はそこまでの大人数ではなかったし、昔ながらの武士の戦い方しかできない集団だった。西洋式の最新の軍備と組織を備えた新政府軍が、最新の大砲による砲撃まで容赦なく浴びせかけた無差別攻撃を行い、わざわざ根本中堂まで焼き払ったりしないでも、鎮圧は可能だったはずだ。
さらに言うなら、戦国時代の比叡山延暦寺も、織田信長はなぜ山上にいたすべての人を、麓の坂本などから避難した民衆の女子供に至るまでことごとく虐殺しろ、と命じたのか? しかも『信長公記』を始めとする織田側の記録では、この残虐行為をわざわざ派手に喧伝して全国に知らしめようとする意図すら読み取れる。
つまりどうしても、西郷隆盛らの真意は寛永寺をこそ破壊することで、信長は単に比叡山が浅井・朝倉・将軍義昭側について自分に対抗して朝倉義景をかくまったから攻撃したのではなく、比叡山を破壊したとアピールすることにこそ政治的な意義があったのではないか、と思えてしまう。逆に言えば比叡山や東叡山がそれだけ重要な存在であったこと自体が、彼らにとって脅威だったのではないか?
焼け野原になった寛永寺の広大な境内地は新政府に没収され、一時は軍の病院にする計画もあったが、その病院計画の立案を依頼された御雇い外国人のドイツ人の進言で、日本初の近代都市型公園として整備されることになった。現在の上野恩賜公園である。徳川と天台宗の「聖地」がなぜわざわざ「恩賜」、つまり天皇から国民への「くだされ物」と強調される公園になったのか、と言うのも興味深い問題ではある。