聖地 南山城の起源を探る-恭仁京遷都と山城国分寺、山上の霊場・笠置寺
南山城地方が重要視されたことが歴史的に分かる最初の記録が、聖武天皇の時代だ。中腹に海住山寺が建つ山の麓、木津川のほとりに広がる加茂地区には、山城国の国分寺の旧跡があるが、ここにはその前に一度、短期間とはいえ首都が置かれている。
聖武天皇の治世の初期には、天平7年(735年)から同9年(737年)にかけての天然痘パンデミックで人口の1/3が亡くなったとも言われるが、その4年後の天平13年(741年)に、巨大な災厄に傷ついた国を建て直すためか、あるいは「厄払い」的な意味もあったのだろうか、聖武天皇は平城京からこの地の恭仁京に都を移した。
この翌年に、天皇は仏教の力で国家鎮護を祈ると同時に、仏教国家としての新しい日本の方針を全国に示すため、国分寺建立の詔を出している。首都の方は恭仁京から今の大阪市、大阪城の南の上町台地上の難波宮、そこから滋賀県甲賀市の紫香楽宮へと遷都を繰り返し、結局は平城京に戻り、恭仁京の大極殿跡は天平18年(746年)に山城国分寺(山背国分寺)になった。
現代の我々はその後1000年以上天皇の都となった京都を中心に考えてしまいがちだが、よく考えれば山城は元の表記は山背、「城」は平安遷都後の表記で、つまり元の意味は日本の国家が草創され首都の平城京もあった大和国(奈良県)から山を越えたその「背」で、「山」つまり境界地域が南山城に当たる。
山城国分寺の立地は近くに木津川が流れていて水運の交通の便もよく、奈良盆地や京都盆地に比べれば手狭とはいえ、首都を置くにも、また詔ではその国の中で最上の地に建てるようにと命じられた国分寺の立地にもふさわしい、山城(山背)国の中心が、ここだったのだ。
またこの一帯が霊的・宗教的にもそれ以前から重要性を帯びた土地だったことも、重要だったのかも知れない。南山城地方には古墳が800基以上も確認されていて、つまり仏教伝来の以前から霊的な意味があった土地だったのかも知れない。
そして加茂からJRで一駅先の笠置町には、高さ15mの巨石の磨崖仏を本尊として信仰を集めた笠置山・笠置寺がある。山頂の巨岩群は、すでに弥生時代から神が降臨する「磐座」として信仰対象になっていたとも言われる。
また笠置寺は1260年間1年も欠かさず今日まで、東大寺二月堂で毎年行われ続けている「お水取り」、修二会の発祥の地でもある。東大寺の僧・実忠が笠置山で修行中に龍が出入りする洞窟の龍穴を見つけ、そこを通って天上の兜率天に至った。
そこで天人たちが「観音悔過」の行法を行っているのを見て、これをぜひ地上でも行いたいと発願し、学んで持ち帰ったのが修二会の始まりで、最初は笠置寺の磨崖仏正面の正月堂で行われたともされる。
この時点ですでに弥勒磨崖仏も正月堂もあった(実忠が訪れた兜率天は、弥勒菩薩が釈迦の入滅の7億8千万年後に弥勒如来となって地上に降臨するまでの修行の場だ)ことからも分かるように、笠置寺の創建はさらに時代を遡る。
伝承では天智天皇(ないしその息子の大友皇子)が鹿狩りで山中に入ったところで遭難してしまい、巨岩の上で仏(ないし山の神々)に祈ったところ助けられ、そのお礼にと巨岩に磨崖仏を刻むことを発願する。戻って来るための目印として岩の上に笠を置いて(「笠置」の知名の由来)無事に帰り、磨崖仏建立のため目印の笠のところに戻って祈りを捧げると、今度は天人たちが現れて弥勒仏の姿を刻んだのだという。
山中・山上の霊場として、笠置寺は平安時代に真言宗の寺院になり、巨大な弥勒磨崖仏からさらに先に進んだ斜面に彫られた、虚空蔵菩薩と伝わる磨崖仏は、空海の手になると伝承されている。実際にも奈良時代の末期か平安時代初期、つまり空海の時代に重なる制作年代とも推定されるようだ。
花崗岩の巨岩・奇巌に覆われた山頂付近はまさに大自然の威容と驚異を体感できるこの場所は、軍事的には難攻不落の要害でもあった。南北朝時代には一時期、京を追われた後醍醐天皇の御在所が置かれ、楠木正成によって城塞に改造されたこともある。
幕府軍が攻め込んだ笠置山の戦いで全山が焼き討ちされ、天智天皇ゆかりの弥勒磨崖仏も罹災して花崗岩の表面が剥離、光背の形だけが残って現代に至る。