山々と密教と神仏習合
飛鳥時代、奈良時代には、大きな寺院といえば平らな土地に幾何学的に整然とした伽藍が建てられた。仏教はただ信仰対象であるだけでなく、寺院は最先端文明の先進国・中国大陸からもたらされた新しい文化、最新の文明を象徴する華麗な人工空間でもあり、山に死後の世界や人間を越えた異世界を感じ、大木や巨岩に神を見て来た古来の日本人の信仰の感覚とは対照的な、エキゾチックな世界でもあったのだろう。
だが平安時代の新しい仏教の担い手の、最澄や空海は、その先端文明の地・唐で学びながらも、最澄は比叡山、空海は高野山と、修行の場として自然豊かな日本の山に籠ることを好んだ。その意味で、南山城に多く見られる平安時代初期の木の仏像は、元はインドで生まれた仏教の、いわば本格的な日本化のプロセスで生まれたものなのかも知れない。
また古来の山岳信仰と仏教、特に密教を融合させた修験道もこの頃に誕生したこともあり、新都・平安京と南都の奈良を結ぶ山がちの地形の南山城は、交通の要衝であると同時に密教の修行の地としても重要度を増して行ったのだろう。
現に南山城の仏像には、密教色の強い、あるいは密教独自の尊格も多く見られる。
密教の世界観では、世界の中心にいる仏が大日如来であり、全ての仏と仏教の守護神たちは大日如来の化身や、そのさらに化身として体系化され、世界は大日如来の慈愛に満ちていて世界そのものが大日如来でもある。この化身・分身の体系の世界観が大日如来を中心に視覚化・図式化されて描かれるのが曼荼羅(空間的な宇宙の構造を表す胎蔵界と、めぐる時間の経過と循環を図式化した金剛界の二つの曼荼羅で世界全体が表現されるのが両界曼荼羅)で、こと胎蔵界曼荼羅の体系を応用すると、日本の神々もまた大日如来の何代か下った化身や化身の化身、仏が姿を変えて日本人に理解できる姿で顕れたのが日本の神々、と考えられる。これを本地垂迹説といい、神の本来の姿は仏(本地仏)と見做される様になった。
古来からの日本の神々への信仰は奈良時代に、九州・宇佐の八幡神が東大寺の大仏を守護したいと訴えて東大寺に遷座した(手向山八幡宮)のを始まりに、仏に仕え自らも悟りを目指して修行している仏弟子となった神々、という理屈ですでに仏教に取り込まれる理論が一応は成立していたが、密教と曼荼羅的な世界観の導入による本地垂迹説の成立で、仏教とカミ信仰が一体化した神仏習合の信仰が本格化する。以降、日本人は明治維新まで「神仏」を合わせて、ことさら分け隔てすることなく信仰してきたのだが、南山城の山々は、仏教・密教の修行の山となると同時に、山が古来から神のいる場所であり山そのものが神でもあることから、神仏習合の信仰がより深く根付く素地もあったのだろう。
日本の神々は本来なら姿が見えない存在で、巨木や岩の自然物、あるいは鏡であるとかの抽象的な事物に神の霊魂が宿って御神体として崇拝されたのが、この時代には神像も作られるようになる。