聖徳太子。天皇として即位していないのにこのような諡号で呼ばれるのは、古代の日本では他に例がないだろう。 だが昨今の学校教科書では、この奈良時代に成立した漢風の呼び名ではなく、『古事記』『日本書紀』にある「上宮之厩戸豊聡耳」「厩戸豊聡耳」に基づく「厩戸王」の表記が一般的だ。
「厩戸王」という、太子自身の息子・山背大兄王、のちに天智天皇として即位する中大兄王、同時代のやはり有力な皇族・軽王(のちに孝徳天皇として即位後、中大兄と対立)、奈良時代の長屋王など、古代の他の重要な皇族と統一性のある表記法にすることに一定の合理性があるのは、この時代に本当に「太子」という地位、つまり天皇の後継者をその在位中に決めておく「皇太子」の制度があったのか、定かではないことがある。
皇位継承をめぐる内乱続きの古代日本に現れた「和を以て貴し」の聖人
太子の父・用明天皇が亡くなると、蘇我氏と物部氏の激しい内戦が起こる。17歳だった太子は蘇我氏側で四天王に戦勝を祈願し、戦勝後に感謝の印として四天王寺を建立したことが、政治の表舞台に登場する最初の機会になった。
この戦いは用明天皇の父・欽明天皇の代に伝わった仏教を日本が受け入れて信じるのか(崇仏)、古来のカミ信仰を優先して排除するのか(排仏)の争いだったと同時に、次の天皇を誰にするのか、その天皇を支援するどの豪族が実権を掌握するのかをめぐる権力抗争でもあった。
当時は天皇が亡くなった時点で次の天皇を誰にするかは決まっておらず(つまり「皇太子」を定める習慣がなく)、亡くなった天皇の最も優れた遺族を次期天皇にしようと、有力な候補者にそれぞれ有力豪族がつき、武力衝突になることも珍しくなかったのだ。
蘇我氏が物部氏を滅ぼした後でも、今度は次の崇峻天皇が暗殺されるなど、皇位の継承をめぐる不安定な政情は続く。
そこで『日本書紀』によれば、今度は初の女性天皇として即位した推古帝が聖徳太子を「皇太子」つまり後継者と定めたように読める。次の皇位継承者を予め決めておけば、天皇の死去で代替わりになっても血みどろの内乱に陥ることもなく、臣下が揃って新しい君主の即位を受け入れられるはずだ。つまり「皇太子」制度の確立には内乱の防止、天皇家が親族どうしで血みどろの殺し合いに陥り、諸豪族が敵味方に分かれて戦うことを避けるという重要な機能があった。
ところが実際には、太子が推古天皇の在位中に亡くなっても、新しい皇太子を立てた記録がない。そして太子に代わる皇位の後継者が決まらないまま推古帝も崩御すると、太子の長男・山背大兄王が皇位継承争いに巻き込まれてしまう。
山背大兄王の母は、蘇我馬子の娘の刀自古郎女と言われる。聖徳太子も母方の外祖父は馬子の父・蘇我稲目だ。つまり蘇我馬子の孫・入鹿と山背大兄王は従兄弟であると同時に再従兄弟でもあるという、極めて密接な血縁関係にあった。
それでも蘇我入鹿は有力な天皇候補で人望もあった山背大兄王を攻め、王は一族と共に斑鳩寺(のちの法隆寺)で自害に追い込まれてしまう。
太子の直系の血統は、この時に途絶えている。
山背大兄王を滅ぼした蘇我入鹿と父・蝦夷を乙巳の変で滅ぼしたのが中大兄王だが、「大化の改新」を敢行して実権を握る「皇太子」になったのかと思えば、母の皇極天皇が退位すると軽王が孝徳天皇として即位している。天皇は難波宮への遷都をめぐって中大兄と対立、中大兄は天皇を残して朝廷を難波宮から引き払ってしまう。孝徳帝が失意と孤独のうちに病没すると、今度は皇極天皇が斉明天皇として重祚(同じ人物が複数回即位すること)し、中大兄自身がようやく天智天皇として即位したのはかなり晩年のことだ。つまり果たして中大兄王が「皇太子」だったのかといえば、恐らく違うだろう。
その中大兄王・天智天皇の没後には、またもや皇位継承をめぐる内戦・壬申の乱が起こる。西暦で672年、太子の崩御からわずか50年後のことだ。
天智天皇の弟・大海人王が兄の亡き天皇の息子・大友王を滅ぼし、天武天皇となるが、その妻・鸕野讚良、のちの持統天皇は天智天皇の娘だ。つまり大友王とは兄妹の関係で、天武帝も大友王の伯父にあたる。有力な皇族がいわば実力主義で、支援する豪族の力を借りて次期天皇になるという皇位継承のあり方は、この時もまたもや深刻な家族分断の悲劇に至ってしまっている。
骨肉の争いを征してなんとか国をまとめなおした天武・持統夫妻にとって、天皇位の安定継承を担保して今後は次期天皇をめぐる内乱を起こさない制度の確立は、急務の重要課題だったことだろう。現に夫妻がその成立に尽力した律令では、血統主義に基づく厳格な皇位継承ルールも定められている。このルールは明治時代の皇室典範の制定まで1100年以上有効だった。
天武・持統朝で律令制の確立と並ぶ重要国家事業、国家の根幹として推進された国史編纂の成果が『日本書紀』だ。逆に言うならその『日本書紀』から読み取れるように、本当に推古天皇の時点で実際に「皇太子」制度が確立していて「聖徳太子」ないし「厩戸王」がその「皇太子」だったとはおよそ考えにくいし、やはり『日本書紀』によれば太子が定めた「十七条憲法」の第一条「和を以って貴しとなす」の精神も、その没後に守られて来たとも、およそ言い難い。
いや逆に、天武・持統とその後の朝廷の立場で考えてみよう。皇位の継承を初めて厳格にルール化するに当たって、生前の人望がほとんど神話的に語り継がれ、その創建した四天王寺と法隆寺が仏教の重要な拠点ともなっていた「厩戸豊聡耳」と呼ばれる皇子をクロースアップして、推古天皇の「摂政」として理想的な統治の礎を築いた人物が「皇太子」でもあったとすることには、新たに制度化された皇位継承ルールの正当化という、十分すぎる動機があったのではないか?
太子が自らの住居だった斑鳩宮(『古事記』における太子の呼び名の「上宮」とはこのこと)のすぐそばに建立した斑鳩寺(のちの法隆寺)は、『日本書紀』によれば天智天皇9年(西暦670年)に落雷で焼失している。
つまり現在の法隆寺は再建で、焼失が壬申の乱の2年前のことであるからには、天武天皇か持統天皇の時代のものと考えてまず間違いはあるまい。
今日「世界最古の木造建築」としても知られる西院伽藍の規模と建築技術の高度さ、使用された木材の質の高さ、そしてこの記事でも紹介する法隆寺に伝来する白鳳時代以降の文物の豊富さをみても、『日本書紀』が完成される少し前の時代に、ここまで多大な財力と労力を注ぎ込んで法隆寺が再建されたからには、聖徳太子の記憶と遺鉢を保つことが当時の朝廷にとっていかに重要であったのか、容易に想像がつく。