比叡山の絶対秘仏本尊・最澄自刻の薬師如来立像への憧憬

琵琶湖の南東、現在の湖南市にある善水寺も薬師如来を本尊とし、この寺で最澄が桓武天皇の病気平癒を祈ると霊水が湧き出て、その水を飲んだ天皇がめでたく快癒したという伝承がある。

画像: 国宝 善水寺本堂 南北朝時代・貞治3(1364)年ないし5(1366)年再建

国宝 善水寺本堂 南北朝時代・貞治3(1364)年ないし5(1366)年再建

ここの本尊も秘仏(開帳は不定期)で、さすがに今回出品されてはいないが、その秘仏本尊を取り巻く像と、近隣にあって同時代に同じ仏師によって作られたとみられる像、さらにかつて善水寺にあって他の寺院に移された像をまとめた仏像群の展示が、東京国立博物館での展覧会の後半のクライマックスのひとつになっている。

画像: 重要文化財 梵天・帝釈天立像 梵天 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵 善水寺の秘仏本尊・薬師如来坐像の厨子の左右を守護する一対の像の左側。梵天はインド神話のブラフマン、帝釈天はインディラ神が仏教に取り込まれたもの。

重要文化財 梵天・帝釈天立像 梵天 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵
善水寺の秘仏本尊・薬師如来坐像の厨子の左右を守護する一対の像の左側。梵天はインド神話のブラフマン、帝釈天はインディラ神が仏教に取り込まれたもの。

画像: 重要文化財 梵天・帝釈天立像 帝釈天 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵 善水寺の秘仏本尊・薬師如来坐像の厨子の左右を守護する一対の像の右側。甲冑を身につけたのが帝釈天とみなされて来たが、近年の研究では元は逆だったとの説も。斜めに処理された衣の裾などが、下の写真の地蔵菩薩立像に酷似している。

重要文化財 梵天・帝釈天立像 帝釈天 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵
善水寺の秘仏本尊・薬師如来坐像の厨子の左右を守護する一対の像の右側。甲冑を身につけたのが帝釈天とみなされて来たが、近年の研究では元は逆だったとの説も。斜めに処理された衣の裾などが、下の写真の地蔵菩薩立像に酷似している。

画像: 重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・10世紀 滋賀・永昌寺蔵 近隣にある善水寺の帝釈天立像と衣の表現などが酷似していることから、同一の作者の作と推測される。製作年代も善水寺の本尊とほぼ同時期の正暦4(993)年前後とみられ、本来は善水寺にあって秘仏本尊を取り囲む群像の一体で、最澄が比叡山に勧請した大物主大神(大比叡)の僧形像として作られたようだ。

重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・10世紀 滋賀・永昌寺蔵
近隣にある善水寺の帝釈天立像と衣の表現などが酷似していることから、同一の作者の作と推測される。製作年代も善水寺の本尊とほぼ同時期の正暦4(993)年前後とみられ、本来は善水寺にあって秘仏本尊を取り囲む群像の一体で、最澄が比叡山に勧請した大物主大神(大比叡)の僧形像として作られたようだ。

画像: 重要文化財 十一面観音菩薩立像 平安時代・10世紀 兵庫・能福寺蔵 神戸大空襲で焼失した光背の銘文によると、元は善水寺から和田神社に迎えられたとあり、明治の神仏分離令で近隣の能福寺に移された。善水寺の梵天・帝釈天立像や永昌寺の地蔵菩薩立像と顔などの表現に共通点が見られ、ほぼ同時に作られ、やはり秘仏本尊の厨子の周りに置かれていた可能性がある。 能福寺は最澄が中国から帰国した時にこの地に立ち寄って、薬師如来像を安置したのが始まりと伝わる古刹。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 平安時代・10世紀 兵庫・能福寺蔵
神戸大空襲で焼失した光背の銘文によると、元は善水寺から和田神社に迎えられたとあり、明治の神仏分離令で近隣の能福寺に移された。善水寺の梵天・帝釈天立像や永昌寺の地蔵菩薩立像と顔などの表現に共通点が見られ、ほぼ同時に作られ、やはり秘仏本尊の厨子の周りに置かれていた可能性がある。
能福寺は最澄が中国から帰国した時にこの地に立ち寄って、薬師如来像を安置したのが始まりと伝わる古刹。

善水寺の秘仏本尊は平安時代・正暦4(993)年頃の作とみられ、梵天・帝釈天立像、聖僧文殊菩薩坐像と、近隣の永昌寺の地蔵菩薩立像、神戸市の能福寺にあるが元は善水寺から迎えられたとの記録があった十一面観音菩薩立像は、いずれもその同時期に作られたと考えられている。地蔵菩薩立像は手に持物などを持っていないので元は僧形の神像だったかも知れず、最澄が比叡山の開山にあたって奈良の三輪山から勧請した大物主大神(山王神道では出雲が起源の大己貴命と同体とみなされる)の像だった可能性もある。

延暦寺の、江戸時代に再建された根本中堂の秘仏本尊の薬師如来の厨子の前にも、梵天と帝釈天が薬師如来を守護するように立っていて、今回の展覧会では「不滅の法灯」の銅燈籠(以前実際に使用されて新品に交換されたもの)も含めて、その厨子の前が再現されている。

画像: 比叡山延暦寺 国宝 根本中堂〈内陣中央の厨子〉の再現 最澄自刻の秘仏・薬師如来立像を納めた厨子の前の「不滅の法灯」の銅灯籠と、江戸時代の梵天立像と十二神将の丑神。

比叡山延暦寺 国宝 根本中堂〈内陣中央の厨子〉の再現
最澄自刻の秘仏・薬師如来立像を納めた厨子の前の「不滅の法灯」の銅灯籠と、江戸時代の梵天立像と十二神将の丑神。

画像: 比叡山延暦寺 国宝 根本中堂〈内陣中央の厨子〉の再現 帝釈天立像、十二神将の子神。手前の銅燈籠は以前に「不滅の法灯」を納めるのに使われていたもの。

比叡山延暦寺 国宝 根本中堂〈内陣中央の厨子〉の再現
帝釈天立像、十二神将の子神。手前の銅燈籠は以前に「不滅の法灯」を納めるのに使われていたもの。

善水寺の本堂の内陣は、この一連の仏像群が完成された10世紀末の正暦年間頃には、比叡山根本中堂と同じ尊像の構成になっていたという。そして今回の特別展では寛永寺の秘仏本尊・薬師如来及び両脇侍立像を取り囲む形で、善水寺の梵天・帝釈天立像と、最澄が修行の場には必ず置くべきだと考えていた高僧の像(聖僧文殊菩薩坐像)、かつて善水寺の本堂にあった可能性が高い地蔵菩薩立像と十一面観音菩薩立像、つまりかつて善水寺本堂で秘仏薬師如来を取り囲んでいたであろう群像が、展示されているわけだ。

画像: 重要文化財 聖僧文殊菩薩坐像 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵 最澄は修行を重ねた高齢の僧の姿が文殊菩薩の化身であるという解釈を踏まえて、寺院には必ず聖僧文殊の像を置くべき、と考えていた。梵天・帝釈天他と同じく、比叡山の根本中堂に倣って秘仏本尊を取り囲んでいた群像のひとつだったと考えられる。

重要文化財 聖僧文殊菩薩坐像 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵
最澄は修行を重ねた高齢の僧の姿が文殊菩薩の化身であるという解釈を踏まえて、寺院には必ず聖僧文殊の像を置くべき、と考えていた。梵天・帝釈天他と同じく、比叡山の根本中堂に倣って秘仏本尊を取り囲んでいた群像のひとつだったと考えられる。

そしてこの善水寺の仏像群に囲まれるようにして展示されている寛永寺の薬師如来立像は、延暦寺の秘仏本尊と同じ材木から作られ、しかも最澄自身が彫ったと伝承されている。

つまりこのコーナーは、延暦寺の至聖域中の至聖域の、平安時代最盛期の仏像の配置を、再現しようとした試みにもなっているのだ。

画像: 右から 薬師如来立像、月光菩薩立像(東京・寛永寺蔵)、梵天立像(滋賀・善水寺蔵)、地蔵菩薩立像(滋賀・永昌寺蔵) いずれも重要文化財

右から 薬師如来立像、月光菩薩立像(東京・寛永寺蔵)、梵天立像(滋賀・善水寺蔵)、地蔵菩薩立像(滋賀・永昌寺蔵) いずれも重要文化財

なるほど、秘仏にはこういう意味もあるのかも知れない。

比叡山の本尊の姿は絶対に見られないと思われているからこそその霊験たるや途方もなく大きいと信じられたであろう薬師如来の姿が、承平5(935)年の比叡山の火災で運び出された際に偶然かいま見られたのかも知れず、その姿を再現する天台様の薬師如来立像が、その後100年ほど盛んに作られた。

そして現代では、必ずしも信仰心に限らずたとえば研究者、それに美術好きや仏像マニアにとっても、できることならその秘仏本尊の姿を一度は見てみたいと思えばこそ、その姿や過去の安置のあり方をなんとか再現することで、見られないものに想像で迫ろうと、懸命に考えさせられてしまう。仏教的に言えばこれもまたひとつの「修行」とまでは言わずとも、「真理」に迫ろうとする精神の鍛錬か、そこまでは行かずとも頭の体操・考えを巡らすきっかけには、確実になっているだろう。

画像: 重要文化財 梵天・帝釈天立像 梵天 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵 梵天はインド古代神話のブラフマンが仏教に取り込まれたもの。インド神話では宇宙の根本となる理論を体現する神で、修行中の釈迦に顕現して悟りに導くヒントを与えたという。

重要文化財 梵天・帝釈天立像 梵天 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵
梵天はインド古代神話のブラフマンが仏教に取り込まれたもの。インド神話では宇宙の根本となる理論を体現する神で、修行中の釈迦に顕現して悟りに導くヒントを与えたという。

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