比叡山の絶対秘仏本尊・最澄自刻の薬師如来立像への憧憬
琵琶湖の南東、現在の湖南市にある善水寺も薬師如来を本尊とし、この寺で最澄が桓武天皇の病気平癒を祈ると霊水が湧き出て、その水を飲んだ天皇がめでたく快癒したという伝承がある。
ここの本尊も秘仏(開帳は不定期)で、さすがに今回出品されてはいないが、その秘仏本尊を取り巻く像と、近隣にあって同時代に同じ仏師によって作られたとみられる像、さらにかつて善水寺にあって他の寺院に移された像をまとめた仏像群の展示が、東京国立博物館での展覧会の後半のクライマックスのひとつになっている。
善水寺の秘仏本尊は平安時代・正暦4(993)年頃の作とみられ、梵天・帝釈天立像、聖僧文殊菩薩坐像と、近隣の永昌寺の地蔵菩薩立像、神戸市の能福寺にあるが元は善水寺から迎えられたとの記録があった十一面観音菩薩立像は、いずれもその同時期に作られたと考えられている。地蔵菩薩立像は手に持物などを持っていないので元は僧形の神像だったかも知れず、最澄が比叡山の開山にあたって奈良の三輪山から勧請した大物主大神(山王神道では出雲が起源の大己貴命と同体とみなされる)の像だった可能性もある。
延暦寺の、江戸時代に再建された根本中堂の秘仏本尊の薬師如来の厨子の前にも、梵天と帝釈天が薬師如来を守護するように立っていて、今回の展覧会では「不滅の法灯」の銅燈籠(以前実際に使用されて新品に交換されたもの)も含めて、その厨子の前が再現されている。
善水寺の本堂の内陣は、この一連の仏像群が完成された10世紀末の正暦年間頃には、比叡山根本中堂と同じ尊像の構成になっていたという。そして今回の特別展では寛永寺の秘仏本尊・薬師如来及び両脇侍立像を取り囲む形で、善水寺の梵天・帝釈天立像と、最澄が修行の場には必ず置くべきだと考えていた高僧の像(聖僧文殊菩薩坐像)、かつて善水寺の本堂にあった可能性が高い地蔵菩薩立像と十一面観音菩薩立像、つまりかつて善水寺本堂で秘仏薬師如来を取り囲んでいたであろう群像が、展示されているわけだ。
そしてこの善水寺の仏像群に囲まれるようにして展示されている寛永寺の薬師如来立像は、延暦寺の秘仏本尊と同じ材木から作られ、しかも最澄自身が彫ったと伝承されている。
つまりこのコーナーは、延暦寺の至聖域中の至聖域の、平安時代最盛期の仏像の配置を、再現しようとした試みにもなっているのだ。
なるほど、秘仏にはこういう意味もあるのかも知れない。
比叡山の本尊の姿は絶対に見られないと思われているからこそその霊験たるや途方もなく大きいと信じられたであろう薬師如来の姿が、承平5(935)年の比叡山の火災で運び出された際に偶然かいま見られたのかも知れず、その姿を再現する天台様の薬師如来立像が、その後100年ほど盛んに作られた。
そして現代では、必ずしも信仰心に限らずたとえば研究者、それに美術好きや仏像マニアにとっても、できることならその秘仏本尊の姿を一度は見てみたいと思えばこそ、その姿や過去の安置のあり方をなんとか再現することで、見られないものに想像で迫ろうと、懸命に考えさせられてしまう。仏教的に言えばこれもまたひとつの「修行」とまでは言わずとも、「真理」に迫ろうとする精神の鍛錬か、そこまでは行かずとも頭の体操・考えを巡らすきっかけには、確実になっているだろう。