今も日本列島は「出雲と大和」の痕跡に溢れている

「出雲」とは、現代の島根県の旧国名だ。だが日本人の文化と歴史の中で、その響きは単なる地名に留まらないミステリアスな何かを帯びて、謎めいたこだまのように時空を超えて広がっている。例えば太陰暦(日本の「旧暦」)の10月は「神無月」と呼ばれたが、これはこのひと月、全国の「八百万」のカミガミが出雲に集まるので、その間は各地の地元のカミ様が留守になるから、である。

画像: 島根県・出雲大社の境内から出土した「心御柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財 かつての巨大本殿の中心柱。後ろに見えるのはかつてのその巨大本殿の1/10縮尺の推定模型

島根県・出雲大社の境内から出土した「心御柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財
かつての巨大本殿の中心柱。後ろに見えるのはかつてのその巨大本殿の1/10縮尺の推定模型

「出雲の阿国」が京都・四条河原で始めた「かぶき踊り」が歌舞伎の始まりといわれている。阿国は出雲大社の巫女を名乗っていたが、本当に出雲出身だったのかは不明だ。それでも「出雲」ブランドの神秘性がその評判と人気に深く関わっていたのは確かだろう。桃山時代のことである。近世演劇史の研究で指摘されるのは、この新しい芸能が、凄惨な戦国時代の終わりに豊臣秀吉の朝鮮出兵と同時代に生まれていて、あまりに陰惨な戦い(秀吉は「ことごとく撫で斬り」つまりジェノサイドを命じていた)のトラウマを抱えて帰国した若者たちにとって、阿国の踊りが大きな慰めになったのではないか、という可能性だ。「歌舞伎」というのは当て字だが、「伎」という文字を当てたのは、死者を極楽浄土に誘うために来迎する阿弥陀如来に付き添う二十五菩薩が楽器を持ち音楽を奏でていることに由来する、ともいう。「出雲」という響きには、死後の世界や死者の霊魂や怨霊を鎮め慰めることに関わる神秘性があると、信じられて来たのかも知れない。

島根県から遠く離れているはずの東京の、歴史的に最も重要な神社のひとつのカミである神田明神(徳川幕府が定めた「江戸総鎮守」)とは、大己貴命と少彦名命、そして平将門のことだ。大己貴(オオナムチ)は出雲大社の祭神・大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)の別名である。少彦名(スクナヒコナ)はその国造りを助けたとされる、やはり出雲のカミだ。ちなみに今の神田明神の境内は、江戸城からみて鬼門封じの方角に置かれている。

画像: 銅戈・勾玉 島根県出雲市 真名遺跡出土 弥生時代 紀元前2〜紀元前1世紀 島根・出雲大社 重要文化財

銅戈・勾玉 島根県出雲市 真名遺跡出土 弥生時代 紀元前2〜紀元前1世紀 島根・出雲大社 重要文化財

東京都と埼玉県は歴史的な国名では「武蔵国」で、その一ノ宮の大國魂神社(府中市)に祀られているのも大國魂大神、オオクニヌシの別名だ。江戸時代・徳川綱吉の建てた豪華な社殿が重要文化財になっている根津神社の祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)、オオクニヌシの7ないし8代遡る先祖で、出雲系のカミガミの祖とされる。

埼玉県の大宮市に総本社がある(「大宮」という地名の由来である)氷川神社は祭神がやはりスサノオと稲田姫命(イナダヒメノミコト)、そしてスクナヒコナだ。イナダヒメはスサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)から救いその妻となった櫛名田比売(クシナダヒメ)の別名で、氷川神社は全国に280もあるそうだが、その圧倒多数はなぜか、出雲から遠く離れた関東地方に分布している。

全国にある諏訪神社の総本社は長野県の、御柱祭で有名な諏訪大社だが、ここの夫婦のカミの夫は「古事記」と社伝によればオオクニヌシの息子の建御名方神(ケンミナカタノカミ)、妻が諏訪湖の地元神・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)だ。

画像: 出雲地方は4世紀頃から日本最大の宝飾品の玉の産地、その製品は大和地方でも発見されている 玉 島根県松江市・金崎一号墳出土品 古墳時代6世紀 島根大学法文学部考古学研究室、島根・松江市

出雲地方は4世紀頃から日本最大の宝飾品の玉の産地、その製品は大和地方でも発見されている
玉 島根県松江市・金崎一号墳出土品 古墳時代6世紀 島根大学法文学部考古学研究室、島根・松江市

画像: 大和で出土した出雲製の玉 右)勾玉 奈良県橿原市 新沢千塚500号墳出土 古墳時代 4世紀 左)勾玉・管玉・算盤玉 新沢千塚323号墳出土 古墳時代 5世紀 共に奈良県立橿原考古学研究所付属博物館

大和で出土した出雲製の玉
右)勾玉 奈良県橿原市 新沢千塚500号墳出土 古墳時代 4世紀 左)勾玉・管玉・算盤玉 新沢千塚323号墳出土 古墳時代 5世紀 共に奈良県立橿原考古学研究所付属博物館

日本は「八百万の神々」の国だとよく言われる。

確かに社や祠の類はそこら中にあり、地域コミュニティがそうした神社の「氏子」として組織化されて来た歴史もある。だが少なくとも今残っている神社でいえば、その多くで祀られているカミは地理的にかけ離れたルーツを持っていて、しかもかなりの割合で天皇家の流れである大和系のカミガミですらなく、縁もゆかりもなさそうに思える出雲のカミガミなのだ。

これは一体、どう言うことなのだろう?

東京国立博物館がある上野公園の西端に、五条天神と言う神社がある。「天神」で学問、特に医学薬学の神様になったのは後代に菅原道真が合祀されたからで、主祭神はオオナムチつまりオオクニヌシとスクナヒコナ、しかも社伝によれば創建は遥か神代に遡り、なんと日本武尊(ヤマトタケルノミコト)つまり大和王権の王子だった武将が戦勝祈願で建てたという。江戸時代の元禄年間までは公園のもっと中心近くにある擂鉢山の頂上に鎮座していたのだが、この小山がなんと70m級の前方後円墳、考古学で大和王権の象徴と考えられているものだ。

画像: 出雲の埴輪 手前)飾り馬 奥)見返りの鹿 平所遺跡出土品 島根県松江市 古墳時代5〜6世紀 島根県教育委員会

出雲の埴輪 手前)飾り馬 奥)見返りの鹿
平所遺跡出土品 島根県松江市 古墳時代5〜6世紀 島根県教育委員会

「出雲と大和」というテーマは「日本人とは何者なのか」「この民族とその文化はどこから来たのか」を考える重要な鍵となる、とても刺激的なものなのだ。そして東京国立博物館が力を込めたこの展覧会は、そういう当然の事前の期待を遥かに上回る濃厚な情報量と、それを裏打ちする展示品の圧倒的な迫力の、目からウロコ体験の連続に、見終わった時には強い感銘と同時に頭を抱えて放心状態にもなりそうな、まるで歴史観・民族観の強烈なブレインストーミングになっている。

なにしろ「神社」の源流を探るのだろうというくらいに思い込んでいると、カミマツリの過去に遡って弥生時代の青銅製の祭器が出て来るのは分かるが、行き着く先がなんと仏像なのだから、最初は面食らう。

画像: 唐招提寺金堂の四天王のうち 広目天立像(左)、多聞天立像(右・共に国宝) 、奥に金剛山寺(左・重要文化財)と世尊寺(右)の十一面観音菩薩立像 いずれも奈良時代 8世紀 基本的に一本の大木から彫り出した像で、一部におがくずを混ぜた漆(木屎漆)で成形した木心乾漆の技法が使われている

唐招提寺金堂の四天王のうち 広目天立像(左)、多聞天立像(右・共に国宝) 、奥に金剛山寺(左・重要文化財)と世尊寺(右)の十一面観音菩薩立像 いずれも奈良時代 8世紀 基本的に一本の大木から彫り出した像で、一部におがくずを混ぜた漆(木屎漆)で成形した木心乾漆の技法が使われている

だが一方で、学校教育などで刷り込まれた既存の古代史の先入観をいったん棄てて見ると、実にすっきりと一貫性のあるコンセプトが隠されている。

画像: 国宝・多聞天立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺

国宝・多聞天立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺

いったん弥生時代と古墳時代、飛鳥時代や奈良時代と言った区分や、「万世一系の天皇」「邪馬台国は大和か九州か」論争であるとかの、中途半端だったり興味本位な知識を忘れて、あえて単純かつ即物的に見た方がいいのかもしれない。

東京国立博物館の品川欣也考古室長のアドバイスは、目に入るモノの大きさや数、量の膨大さ、使われている素材に注目すること、だという。

画像: 出雲から出土した大量の青銅器:銅矛 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝 同遺跡からは358本もの大量の銅剣がまとめて見つかった

出雲から出土した大量の青銅器:銅矛 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝 同遺跡からは358本もの大量の銅剣がまとめて見つかった

確かに素材と量と大きさの変遷を見て行くだけでも、見えて来るものが違って来る。

さらに地理的な背景情報、どこで作られたモノで原材料はどこ産で、技法やデザインの源流はどこにあるのかを考え始めると、複数の異なった時代区分に分けた学校の教科書で理解した気になっていた日本の古代が、一貫してつながっていたことに気づかされる(というか、連続性があって当然なのに、なぜかそんなことにも気づかないのが、暗記中心教育の先入観の怖さだろう)。

画像: 黒塚古墳出土品のうち三角縁神獣鏡(33枚)奈良県天理市 黒塚古墳出土 古墳時代3世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管)重要文化財

黒塚古墳出土品のうち三角縁神獣鏡(33枚)奈良県天理市 黒塚古墳出土 古墳時代3世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管)重要文化財

こうした実感にはなんと言っても、まず展覧会で実際のモノを、ありのままの質感や迫力、美しさと、この展覧会の場合は特に「物量」で見られる意義がとても大きい。

画像: 出雲の加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸のうち一点 写真では分かりにくいが表面の流水文は、河内平野(現在の大阪府)で生産されたものと考えられる 加茂岩倉遺跡出土品 銅鐸 紀元前2〜1世紀 国宝

出雲の加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸のうち一点 写真では分かりにくいが表面の流水文は、河内平野(現在の大阪府)で生産されたものと考えられる
加茂岩倉遺跡出土品 銅鐸 紀元前2〜1世紀 国宝

しかも展示品の順番と並べ方の工夫が巧妙で、いろいろな気づきを喚起させてくれるよう整理されているだけでない。写真で紹介するなら後半の仏像展示が特に分かり易いと思うが、照明など展示環境も繊細に工夫されて展示品の魅力を引き出した、とても美しい展覧会でもある。

画像: 十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財 日本では産出しない希少な香木である白檀製。遣唐使によって日本にもたらされ、藤原鎌足を祀る奈良県桜井市の談山神社に伝来した

十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財
日本では産出しない希少な香木である白檀製。遣唐使によって日本にもたらされ、藤原鎌足を祀る奈良県桜井市の談山神社に伝来した

例えばこの十一面観音の檀像(堅い香木の白檀や黒檀の一木から彫り出された小型の仏像のことで、日本では産出しないので桜やカヤなどの堅い樹木が代用された)は、東京国立博物館の所蔵する仏像の中でも屈指の名品で、筆者も平常展示(総合文化展)で何度か見て来た。

それが今回の照明の下では見違えるほどに、一際美しい。

これまで黒い像だとばかり思っていたが(黒檀でなく白檀なのだからそんなはずはないのに)、実は表面が赤い染料で染められていたそうで、その赤味を引き出すように光の工夫を重ねたのだという。背景は、本展では出雲系の展示品をライトブルーで、大和系をライトグリーンで色分けして分かり易くしているのでこの色になっているが、緑は赤の補色なのでより一層、像の赤さが感じられる効果もありそうだ。

画像: 十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

中国・唐時代に作られた像で、藤原不比等の息子が遣唐使として唐から持ち帰ったという伝承もあり、かつてはその不比等の父で藤原氏の祖・鎌足を主祭神とする奈良(つまり大和)の談山神社に伝来したものだ。

「日本」の国の起源を探る展覧会なのに唐で作られた仏像、といきなり言うとますますわけが分からないと思われそうだし、しかもこの像自体にインド・グプタ朝の様式の影響が見られるのだが、この展覧会で出雲大社の歴史から弥生時代に遡り、古墳時代の文化の変遷をみて来た文脈で、最後に飛鳥・奈良時代の仏教の隆盛に到達したときには、この仏像がここで登場するのも自然な流れだと納得できてしまう。

画像: 古代日本の仏教美術の成立に大きな影響を与えた仏像スタイル 2例 左)法隆寺に伝来した金銅の如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物) 重要文化財 右)白檀の一木から彫り出された十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

古代日本の仏教美術の成立に大きな影響を与えた仏像スタイル 2例
左)法隆寺に伝来した金銅の如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物) 重要文化財
右)白檀の一木から彫り出された十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

その理由はおいおい述べるとして、今はとりあえずこの像がいわば手本となって、奈良・平安時代以降の日本の彫刻に大きな影響を与えたことだけは言及しておく。

画像: 十一面観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・世尊寺 頭部が後世に補われている他はヒノキ材の一木造り

十一面観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・世尊寺 頭部が後世に補われている他はヒノキ材の一木造り

出雲大社や、太陰暦の10月の「神無月」が出雲では「神有月」となるなど、カミガミの大地の印象がある出雲だが、名刹の寺院や優れた仏像も少なくない。出雲大社からそう遠くない、基本的に同じ山にあると言っていい鰐淵寺はかつては修験道の名刹で、武蔵坊弁慶が修行したという伝説もある。

画像: 出雲・「大寺薬師」の四天王 増長天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺 手先と持物は後補 重要文化財

出雲・「大寺薬師」の四天王 増長天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺 手先と持物は後補 重要文化財

展示の終盤に登場するのが出雲にかつてあった「大寺薬師」の、この持国天を含む四天王立像4体だが、それぞれほぼ全体を一本の巨木から彫り出していることの持つスピリチュアルな意味も、この展覧会の文脈の終盤にこの四体の像に取り囲まれると、すんなりと体に染み込んでくる。そしてそこから、この日本列島で人々がなにを畏れ、なにに神聖さを感じてなにを信じ、どのような民族的になって来たのかが、浮かび上がって来る。

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