平安時代には全国に展開した最澄の教え・天台宗の多様な表現
立石寺は、本堂に当たる建物が「根本中堂」と呼ばれることからも、天台宗でも重要な寺院のひとつだ。山形市郊外の切り立った険しい岩の山岳地にあり、「山寺」という通称で親しまれ、松尾芭蕉の『奥の細道』の「静けさや 岩に染み入る 蝉の声」という句で有名な観光地だが、平安時代初期に遡る古刹で、最澄の直弟子で最澄から数えて三代目の天台座主にもなった円仁(慈覚大師)が、唐に9年間も留学して密教を修めて帰国後に、清和天皇の勅許で開山している。
記録では、円仁は第三世の天台座主として比叡山で没したはずだ。のちの「山門派」の祖ともなっているが、立石寺の寺伝では東北での布教に尽くした最晩年にここで入定し(つまり亡くなっていて)、その入定の場とされる洞窟からは学術調査で人骨と、円仁像と思われる木像の頭部が発掘された。
円仁が修行したと伝わる巌窟の遺跡も含め、山上にはあちこちに巌窟の修行場があるこの山岳寺院は、比叡山や京都の中央・畿内から遠く離れた東北における、天台宗の重要な修行道場で中心的な学問寺となった。
根本中堂は芭蕉が詠んだ険しい岩山の麓にある(南北朝時代の再建、江戸時代初期に正面に向拝が追加された)。比叡山を最澄が開山した時に灯して以来、ずっと消えることなく守られて来た「不滅の法灯」もここに分灯され、織田信長に襲撃されて根本中堂が焼け落ちた後には、立石寺に分けられていた「不滅の法灯」から改めて火を採り、比叡山に運んで再建された根本中堂内陣の中央厨子前に灯し、現代に至っている。
円仁の入定窟の伝承の真偽はともかく、ひとつ確かなことはある。
最澄が興した日本の天台宗と、最澄とその弟子たちへの信仰は、最澄自身と弟子たちが精力的に旅と布教を続けたこともあって、平安時代にはすでに全国に広まって東北地方にも到達していて、その後の長い歴史を通じて信仰を集め、社会のあらゆる階層に浸透して行っている。円仁に倣って立石寺の山中で何世紀にも渡って厳しい修行に明け暮れた僧侶は数えきれず、その厳しい修行の道場となった洞窟や磨崖仏(岩に仏の姿を彫ったもの)が、今でも無数に残っている。
円仁が開山したり再興した寺院は伝承も含めると東北で331以上、関東も合わせれば500を超える。たとえば東京・浅草の浅草寺も推古天皇の時代の創建ながら再興したのは円仁で、以降江戸時代の終わりまでは天台宗の寺院だった。円仁の足跡は、さすがにこれは神話に近い伝承だろうが、なんと北海道にまで慈覚大師開山と伝わる寺がある。
最澄が創始した信仰は、最初は朝廷・貴族の中央・畿内から始まってまもなく地方に、そして庶民にも広まり、近現代にはむしろ民衆信仰として人々の生活に深く浸透して今でも脈々と生き続けている。たとえば立石寺では奥の院などいくつかの堂に、新郎新婦や若い恋人どうしの姿を描いた比較的新しい絵馬が無数に奉納されている。幼くして亡くなった子供を、その子が成長した姿を描くことで供養する風習があって、今も続いているのだ。
比叡山、あるいは延暦寺というと、平安時代後期には院政を始め絶大な権力を振るった白河法皇が、自らの手に負えないもののひとつとして加茂川の氾濫とサイコロの目と並んで叡山の僧兵を挙げたとか、室町時代には将軍の足利義教と対立し、室町後期のいわゆる戦国時代には織田信長に敵視されて比叡山焼き討ちの虐殺に至ったことなど、政治にも深く関与し、しばしば自らが強大な政治権力として血みどろの政治史の一部にもなって来たイメージも強い。
比叡山がそうした攻撃対象にされる度に言い訳のように繰り返された中傷が、叡山の僧侶たちが戒律を破って性欲(「女犯」)・肉食・飲酒に走り、権力欲と金銭欲に溺れて横暴に走った、という糾弾だった。どこまで本当かはともかく、権力と金銭に関しては、比叡山が朝廷の庇護と崇敬を受けて広大な荘園を寺領として支配して来たのは事実だ。また比叡山の山門派(円仁派)と園城寺(三井寺)の寺門派(第五世天台座主・円珍の系譜)の激しい抗争と長く続いた対立関係もあったし、白河法皇の愚痴というか嘆きの、思い通りにならないものとして叡山の僧兵が挙げられているのは、鎮守の山王権現(現在の日吉大社)の神輿を擁した叡山の僧兵が朝廷や院に政治的圧力をかけることがしばしばあったからだし、その僧兵団は中世には、武家の大名や室町将軍に対抗するほどの軍事力を持つに至る。
最澄自身が、唐に留学したのは朝廷の命を受けた公式の学僧としてであり、その生涯は朝廷との結びつきも強い。帰国後に勅許を受け開かれた天台宗には、最澄の亡くなる前日に、長年の最澄からの働きかけに天皇が応じ、それまで奈良の東大寺・唐招提寺などの戒壇にのみ許されていた国家公認の僧侶の資格になる授戒を、比叡山東塔でも行えるようにする権限も与えられた。
この結果、奈良の大寺院の地位は低下し、比叡山こそが多くの僧侶が修行する日本の仏教の中心となる。天台宗だけでなくのちに浄土宗を興す法然、浄土真宗の開祖・親鸞、中国から禅の臨済宗を日本に導入した栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗を創始した日蓮らがいずれも比叡山で学びその戒壇院で授戒を受けているのは、そこがいわば「仏教の総合大学」、当時の最高学府になっていたからだ。天台宗の歴史はつまり、単にこの一宗派のそれに留まらず平安時代以降の日本の宗教と文化の歴史、そして中世以降の日本人の精神史の原点になった。
ちなみに比叡山の戒壇院はこの秋、特別公開中 https://1200irori.jp/saicho_hieizan/
延暦寺が平安朝の公式仏教の地位を占めて栄えたことには、御所の鬼門封じで平安京の守護の意味もある。やがて多くの天台宗の寺院が天皇位の継承権を持つ親王が住職の門跡寺院になり、天台座主も親王が務めるようになる。こうして仏門に入った親王は「法親王」と呼ばれた。そうした特権的な権威から、のちには浄土宗のような新興仏教の排斥・弾圧に関わったこともあった。
比叡山は平安時代にも、承平5(935)年に大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失って荒廃したことがある。そこからの復興を成功させて比叡山と天台宗の中興と称えられる第18世天台座主・良源(慈恵大師)は、再建資金の確保にあたって宮中・貴族社会の最高実力者・藤原氏との関係を強めることで、比叡山の財政基盤を確かなものにした。
この特別展に出品されている宝物の多くを見ても、たとえば金銀をふんだんにあしらった『法華経』の写経(装飾法華経)や仏画に、天台宗が平安時代の貴族社会、つまり支配階級とその政治との結びつきが強かったことが実感される。
だが一方で、最澄が法華経を最重要視したのは、誰もが悟りに到達して解脱できる(救済される)可能性が書かれているからだったし、朝廷が仏教に帰依することは仏法に基づく道徳的な安定統治を自らに課すことも意味していた。近代の政教分離原則がなかった時代、宗教には権力行使の抑制装置としての重要な機能もあり、またそうした宗教に基づく倫理が権力の抑止力となることが、統治される側の信頼と安心を担保もしていた面も否定できない。これを宗教の側からみれば、朝廷のために病の退散や敵の調伏、五穀豊穣などを祈ることは、その統治の下にある万民の生活の安定と豊さや現世での救済に直接つながる、とも考えられたはずだ。
平安時代にまず朝廷と貴族階級の信仰だったものがやがて庶民の信仰としても広まり、幅広く日本人の歴史の精神的な基盤ともなっていった歴史の中で、天海が徳川幕府初期のブレーンとして活躍し、その助言を受けて幕府が戦国時代に破壊された比叡山や荒廃していた日光山の復興や、寛永寺の造営に力を注いだのも、平安朝以来の「公式仏教」としての天台宗による政権の権威づけというだけでなく、最澄の流れを組む教えと信仰が庶民も含めて広く行き渡っていたからこそ、広汎に民衆に安心と安全をもたらすため、という面があったのではないか?
寛永寺が祈りと信仰の場であると同時に、畿内の名所を模した豪華なお堂が立ち並び、春には花見の名所にもなるという、いわば新興都市・江戸の人々が文化的なエンタテインメントに触れられる場としてもデザインされていたことにも、そういう理由もあったように思えてならない。
平安時代に話を戻そう。その後期には山形からさらに北の岩手に、奥州藤原氏が浄土信仰に基づく理想都市・平泉を建設している(世界文化遺産)。この中心寺院の毛越寺と中尊寺も、開山は円仁だ。また仙台郊外の名勝・松島を臨む瑞巌寺も、のちに臨済宗に改宗しているが元は延福寺という天台宗の寺院で、創建したのはやはり円仁だった。
平泉と同じく岩手県にある黒石寺は、奈良時代の創建ながら9世紀の半ばに円仁が再興し、以降は天台宗の名刹になった。今日では「はだか祭り」の奇祭として知られる「蘇民祭」でも有名だ。写真を掲載した円仁像として信仰されている僧形坐像の他にも、本尊は今回の出品作ではないが、円仁の晩年にあたる貞観4(862)年の年号が墨書銘で確認される薬師如来の坐像だ(共に重要文化財)。
円仁の生年は延暦13(794)年、亡くなったのは 貞観6(864)年だった。平安初期の東北地方に非常に大きな布教と信仰の足跡を残しているのは、同じ東北でほんの半世紀も経たない前に征夷大将軍・坂上田村麻呂が異民族の蝦夷を相手に「日本」つまり朝廷の支配地域を広げる最前線の激しい戦いがあったばかりだった歴史を考えると、かなり驚くべきことにも思える。
あるいは逆に、まだ戦乱に傷が癒えず紛争が絶えない土地だったからこそ、積極的な布教が必要だったのだろうか?
平安時代における天台宗の広まりは、むろん東北に限ったことではない。東北に至るにあたって円仁が当然通過した関東にもその足跡は大きく、たとえば東京の浅草寺も円仁が中興となっているのはすでに述べた通りだ。
最澄の出身地・近江(滋賀県)と首都の平安京から始まって、平安時代の始まりからまもなく全国に及んでいたことが、今年が最澄が亡くなってから1200年めの大遠忌に当たるのを期に全国から仏像・仏画・経典や文献が集まったこの特別展で強く実感される。
先にも触れた東京・浅草の浅草寺は、創建がなんと推古朝、つまり聖徳太子の時代で、地元の漁師兄弟が魚の中から小さな黄金の観音像を見つけ、領主の豪族が自身の館を寺としてそこに祀ったという有名な伝承がある(なおこの3人が祭神になっているのが浅草の「三社権現」、今の浅草神社で、「三社祭り」はこの社の祭礼)。今では単一の独立宗派だが、円仁が中興して以来ずっと天台宗の寺院だった。
江戸城の鬼門の方角にあるために徳川幕府が家康の江戸開府以降庇護し、こと孫の家光が巨大な本堂や五重塔、三社権現の社殿(家光の再建伽藍のうちこの社殿のみ東京大空襲を焼け残り現存・重要文化財)を再建して以降はとりわけ江戸の民に親しまれ、門前町の賑わいもあって下町の庶民信仰のイメージが強いが、門跡寺院となった寛永寺の住職を務めた法親王はしばしば、引退後はここの伝法院を隠居所として余生を送ったという。庶民信仰と庶民文化の浅草は、実は「皇室ゆかりの地」でもあったわけだ。
ここには平安時代の金をふんだんに散りばめた、華麗な貴族的美学の結晶した『法華経』の写経、装飾法華経の傑作「浅草寺経」が伝来している。
東京国立博物館ではちょうどこの特別展と並行して、浅草寺の仏像の特集展示が行われている(「浅草寺のみほとけ」本館14室 9月28日(火) ~ 2021年12月19日(日)、詳しくはこちら )。
最澄がもっとも重んじた『法華経』は、平安時代には有力貴族が盛んに写経し、しばしば豪華な特別の紙が使われ、金銀もふんだんに用いて最高級の美意識で装飾された。浅草寺がある江戸は徳川家康の大規模開発以前は大部分が湿地帯で農業にも適さず、人口もまばらだったはずで、そこに平安時代の華麗な装飾経が伝わっていたことも驚きだが、そうやって中央の華麗な文化が地方の隅々まで広まっていく上でも、天台宗は大きな役割を果たしたのだろう。
先述の奥州藤原氏の本拠・平泉の中尊寺にも紺地に金を散りばめた豪華な装飾の「中尊寺一切経」(国宝・中尊寺大長寿院蔵)が伝来している(九州国立博物館と京都国立博物館での巡回展に出品予定)。
浅草寺と同じく武蔵の国(現在の東京都と埼玉県)の、名水が湧き出る泉に深沙大王を祀って奈良時代に創建された深大寺(東京都調布市)も、平安時代・9世紀半ばに武蔵の国司・蔵宗の反乱の調伏のために比叡山の僧侶・恵亮和尚が勅命でこの寺に入って以来、宝冠阿弥陀如来を本尊とする天台宗の寺院になった。
宝冠阿弥陀如来は比叡山・西塔の、二つの堂を渡り廊下でつないだ「にない堂」の一方、常行堂(常行念仏堂)の本尊で、「常行念仏」と言って僧侶が不眠不休で何日間も阿弥陀如来の名を唱えながらお堂の中を僧侶がひたすらぐるぐる歩き続ける厳しい修行(「堂々巡り」の語源)が行われることで知られる。寛永寺にもかつてはにない堂があり、立石寺にも宝冠阿弥陀を本尊とする常行念仏堂(阿弥陀堂)がある。
深大寺には奈良時代の創建よりさらに時代を遡った、飛鳥時代後期の銅造の釈迦如来倚像(通称・深大寺の「白鳳仏」として有名)が伝来している。この像に関する記録は最も古いものでも江戸時代までしかなく、本堂で本尊の脇仏として安置されていたとあるだけで由来はまったく不明だ。2017年に国宝に指定されたこの像も、今回展示されている。
日本の仏像は平安時代以降、木像が中心になったこともあり、銅像が盛んに作られた飛鳥時代の後期はその鋳造技術がもっとも高まった時代だ。代表的な例には奈良・薬師寺の聖観音菩薩立像と薬師三尊像、法隆寺の「夢違観音」と「伝橘夫人念持仏厨子」に納入された阿弥陀三尊像などがあるが、深大寺の国宝 釈迦如来倚像もこの時代ならではの優れた技術を活かした造形がみられる。中央から遥か離れ朝廷の権威がどこまで及んでいたかも分からず、少し時代が下った『古事記』『日本書紀』にも記述があまりない関東に、このような高度な技術と表現の銅像の傑作があるのも驚きであり、ミステリアスでもある。施無畏印の右手の指先が破損し、胸などに火災で高熱に晒された痕跡があるが、どこで作られて元はどこに安置されていて、なにがあったのだろう?
むろん最澄の時代と日本の天台宗の成立よりも100年以上前のものだが、だからといって無関係とは言えまい。比叡山は平安時代に既存の奈良の大寺院に対抗し、やがてそこを凌駕する立場になり、東大寺や唐招提寺が独占していた国家公認の正式の僧侶になる授戒が比叡山東塔の戒壇院でも行われるようになったことで、南都(奈良)仏教から天台宗への権勢の移行が決定的になったのも確かだ。
だが一方で、この釈迦如来倚像が深大寺の本堂に安置されていたことや、古代からの山岳信仰の霊場だった比叡山や立石寺、行基が奈良時代に創建したと伝わる黒石寺、推古朝の創建の浅草寺が好例で、最澄自身も比叡山に入った時に地主神・大山咋神と三輪山の大物主大神を祀っているように、最澄の教えは既存の仏教とその遺産、さらには仏教伝来以前からあった山岳信仰などの土着の信仰をも柔軟に取り込み、その影響も受けながら発展し、定着して行ったものでもある。
その柔軟さと許容力、幅の広さと懐の深さが、最澄の教えが日本の仏教の本流となって、最澄の没後1200年になろうとしている今にまで続いている秘密の一端にあるのかも知れない。ではそれは、どこから来たものなのだろうか?