医学が未発達だった時代に、病からの救済のための切実な「現世利益」を祈った秘仏の薬師如来

岐阜県可児郡の「蟹薬師」こと願興寺も、最澄が自ら彫った薬師如来像を安置して開山した寺だ。可児は古代より交通が活発な東山道(のちの中山道)の要衝で、最澄は東に布教に向かう旅でこの地に立ち寄った。また古墳時代には陶器作りが始まっていて、美濃焼の発祥の地でもある。

画像1: 重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・12世紀 岐阜・願興寺(蟹薬師)蔵

重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・12世紀 岐阜・願興寺(蟹薬師)蔵

本堂は天仁元年(1108年)に戦乱に巻き込まれて焼失しており、この本尊像は様式・構造からしてその再建・復興時に作られたものだろう。いわゆる「定朝様」の寄木造りで、宇治・平等院の阿弥陀如来坐像や先述の法界寺の阿弥陀如来坐像が典型的な、平安時代中後期に流行して日本の仏像のいわばスタンダードになった様式だ(なお平等院の阿弥陀如来坐像が仏師・定朝の真作と確認されている)。

しかし蟹薬師の本尊のどっしりした存在感は、定朝様といっても平等院や法界寺阿弥陀堂の阿弥陀如来坐像のような平安朝の貴族的な優雅さというよりも、庶民的ですらある。圧巻の迫力は、寛永寺の秘仏本尊の削ぎ落としたような簡潔な美しさとも、法界寺の秘仏本尊のかわいらしささえ感じる繊細で貴族的な優美さとも対照的だ。

重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・12世紀 岐阜・願興寺(蟹薬師)蔵

彩色や漆と金箔を施さない木の素地を活かした質感で、大ぶりで引き締まった顔に墨で描かれた髭と特に目の力強さ、全体も実際の大きさよりもさらに大きく見え、癒しの仏の包容力と威圧的でさえある厳かさが同時に凝縮している傑作だ。寄木造りで漆と金箔や彩色も施さず、木の素地が露出しているのに、つなぎ目がどこか分からないのは仏師の高い技術があって、また保存状態が極めていいからだろう。

この堂々たる秘仏が本来安置されている願興寺の本堂は、その後今度は戦国時代に武田信玄に焼き払われて再建されたものだ。現在、建てられて以来400年以上ぶりに初めてすべてをいったん解体し、傷んだ材木を補修して組み直す大修理が行われているが、解体過程の調査で意外なことが判明しつつある。とても巨大な建物なのだが、どうもどこかの武家・大名の寄進ではなく、近隣の町や村々の庶民が力を合わせて建立したようなのだ。使われた材木もバラバラだったり、柱に長さが足りない木も使われ、上部の屋根裏に隠れる部分が枝分かれしている柱も見つかった。完成までには年数かかったらしく、ここが東山道の要衝であるため未完成の本堂に宿を取った旅人が遺した落書きが、完成後は羽目板で隠れていた壁から発見された。

つまりこの堂々たる秘仏の癒しの仏は、可児が交通の要衝だったからこそ時には激しく荒れ狂った歴史の荒波と、その中で有名無名のさまざまな人々がしばしば命懸けで行き交った何百年にわたる営みを、じっと見守り続け、静かに癒し続けて来たのだ。

画像3: 重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・12世紀 岐阜・願興寺(蟹薬師)蔵

重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・12世紀 岐阜・願興寺(蟹薬師)蔵

薬師如来は本来は人々の病を癒やし苦しみを取り除くことで心を安らかにさせて悟りへと導くとされるが、病を癒す現世利益の、直接に今生きている存在を救済する仏として信仰されて来た。現代人には「現世利益」というとなんだか俗っぽく思えてしまうが、現代医学なぞなかった時代に、国が発展すればするほど海外との交流が活発になり、平城京や平安京といった首都の都市化も進めば進むほど、社会は疫病のリスクに晒されることにもなる。そんな時代に病気の治癒という「現世利益」は、今では想像がつかないほど切実なものだったはずだ。

比叡山の根本中堂の絶対秘仏本尊もそうだが、最澄が自ら彫ったと伝わる仏像や、蟹薬師のように最澄自身が開きそこに自刻の像を安置したと伝わる寺の本尊に薬師如来が多いことは、最澄の仏教思想とその信仰のひとつの特色、ひいては最澄がどういう人物で、なにを目指した人なのかの一端を、示してはいないだろうか?

画像: 重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵 立体の仏像としての最澄の姿として現存最古。本来は彩色が施されていたと思われるが、それが剥落し年輪も露わになった木の質感がとても荘厳。

重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵
立体の仏像としての最澄の姿として現存最古。本来は彩色が施されていたと思われるが、それが剥落し年輪も露わになった木の質感がとても荘厳。

疫病も多く、有効な治療法もないままに病に苦しむことが絶えなかった当時の人々の切実な願いに出会ったからこそ、最澄は自らの手で薬師如来像を彫り、薬師如来に個々人の病だけでなく国の病の回復を祈る寺を、盛んに各地に開いたのではないか? 

最先端の科学がウィルスの遺伝子構造まで精確に把握できるようになった現代ですら、治療法やワクチンが開発されるまで、現代人も漠然とした恐怖にさいなまれた。他者とのつながりを断たれた不安から、一部では悪意やデマの嵐が吹き荒れたことも、我々は目の当たりにしている。奈良時代や平安時代にも、人との接触を減らしたり生活上の衛生管理を強めようとして、たとえば料理を大皿から取り分けるのを改め個別に配膳するなど、現代にも通じる感染対策が行われていたことも考古学的に判明している。それでも水道や石鹸もない平安時代に、天然痘のような強烈なパンデミックに晒された人々が、先進文明国の唐から最澄が持ち帰った最新の仏教に懸命に救いを求めたであろうことは、想像に難くない。

重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・12世紀 岐阜・願興寺(蟹薬師)蔵

最澄以前でも、法隆寺は聖徳太子が斑鳩寺として創建した時の本尊がやはり薬師如来、白鳳時代の藤原京に天武天皇と持統天皇が創建し、平城遷都で奈良の西の京に移った薬師寺も、本尊はもちろん薬師如来だった。

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