多様性に満ちた天台宗の魅力の原点には、人並外れた共感能力に溢れた「謙虚なカリスマ」がいた
それにしても、この特別展で天台宗の歴史を俯瞰するに、その思想と信仰も、その思想を反映して産まれた表現も、あまりに幅が広く懐が深いことに驚く。
最澄が自分が唐では学べなかった密教を、現世利益の救済のためにも空海から学んで導入しようとし、その遺志が円仁や円珍の唐への留学に引き継がれて「台密」が一時は真言宗をしのぐほどに盛んになり、朝廷と貴族社会に重用された一方で、対照的にその現世を厭い死後の世界の救済をひたすら願う浄土教も、決して鎌倉新仏教の法然や親鸞が浄土宗・浄土真宗で初めて創始したものではない。
慈恵大師良源の弟子・恵心僧都源信が『往生要集』を著したのをきっかけに、天台宗が平安時代中後期にすでに広めていた信仰だった。
最澄は法華経に基づき前世や輪廻転生の因縁に関係なく誰もが現世で悟りに到達できると考え、円仁・円珍以降の天台密教が現世での国家鎮護や疫病の退散、病の治癒や戦勝と敵の調伏を祈願する一方で、その現世・人間の世は虚しく厭わしいもので真の救済は六道輪廻の宿命から阿弥陀如来の慈悲によって救い出されることしかない、という浄土教もまた天台宗の教えになっているのは、現代人にはいささか矛盾しているようにも思えてしまうが、源信から始まった信仰は、本記事の前半で触れた立石寺に見られるような、現代でも東北各地の天台宗の古刹・霊山に息づく死後の世界への信仰と、死者のための祈りにもつながっている。
源信は貴族社会との接触が苦手だったらしく、貴族や朝廷の依頼で修法を行うことを避けて比叡山・横川の恵心院に隠遁し、死と死後の世界に関する経典を研究、その成果をまとめたのが全3巻からなる『往生要集』だ。
仏教では、あらゆる生命は生まれ変わりを続け(転生輪廻)、前世の行い(業、カルマ)に応じてその生まれ変わる先が決まるとされる。その生命の世界は六つに分けられ(六道)、神々の世界で人と比べれば途方もない長寿ではあるが永遠の生命が与えられるわけではない天道、人として生きる人道、果てしなく争いお互いに殺し合いを続ける阿修羅道、動物に生まれ変わる畜生道、なにを食べてなにを飲もうが決して満たされない飢えと渇きに苛まれる餓鬼道、そして地獄道がある。
『往生要集』では生前にどのような行いをすればどんな世界に生まれ変われるかを解説する。特に地獄の描写は詳細で迫真性に満ち、現代でも日本人がイメージする「地獄」はほぼ源信が書いたことを踏襲している。我々は死して仮に地獄にまでは落ちなくとも、六道のどの世界に生まれ変わろうが、運良く人道に生まれ変わっても出産には母の激痛が伴い、病に苦しみ、いずれは肉体が衰え、死を迎え、亡骸が朽ちていき、魂は別の生命に再び生まれ変わり、同じ苦しみを繰り返すだろう。
六道輪廻のサイクルから逃れるには(解脱)、悟りを開くことでの解脱ができないのなら、救済の仏である阿弥陀如来にすがり、その名を唱え(念仏)、遥か西の彼方にある阿弥陀浄土に迎えられる解脱(極楽往生)しかないと説く『往生要集』は、もともと貴族と付き合いたくなかった源信が世捨て人のように山に篭った研究のはずで、死の不安に苛まれていた自分の母の心を安らかにさせたかった、とも言われる。
ところがそんなパーソナルだったはずの研究成果は貴族社会で大人気になり、この世の人生を虚しく悲しみに満ちたものと捉えて阿弥陀如来による救済にすがる仏教が、貴族たちのあいだで爆発的に流行することになる。晩年の藤原道長は一心に「南無阿弥陀仏」と日々何万回も、臨終の間際まで唱え続けた。その息子・藤原頼通が父の宇治の別邸の敷地に建てた平等院や、先にも秘仏本尊の薬師如来立像の紹介で触れた法界寺の阿弥陀堂、地方でも奥州藤原氏の毛越寺などなど、阿弥陀浄土を再現した寺院が無数に建立された。つまり現代の日本庭園にもつながる浄土式庭園も天台宗から生まれた文化だし、現代のたとえば漫画の地獄の姿も遡れば『往生要集』が起源の、つまりは天台宗が広めたものが原点なのだ。
最澄がもっとも重んじてその思想の核となった『法華経』が、長大かつ複雑な思想体系が書かれ、奥が深く難解ですらある経典なので、天台宗がこれだけ幅広い仏教についての考え方を取り込んで発展して来たのも、当然と言えば当然なのかも知れない。
とは言うものの、『法華経』では前世から抱えた業・カルマに関わらず、誰もが悟りに到達できる可能性があるとされ、だからこそ最澄は『法華経』を最も重視し、とりわけ菩薩行、つまり現世で他者に尽くす利他行こそが悟りに到達できる道だとみなす大乗仏教を説いたはずだ。だが浄土教思想では、その悟りを目指す努力すら虚しく、ひたすら阿弥陀如来にすがればいい、と言う話にもなりかねない。
しかしそれを言うなら、浄土教の流行以前には『法華経』をしきりと写経して救済を願った平安貴族も、その内容をどこまで読み込んで理解しながら書写していたのだろう? あるいは長大な経文を一字一字丁寧に、時には墨ではなく高価な金泥・銀泥まで使って書き写す行為に忍耐と努力、そして財力を注ぐことそのものに強い信仰を込めて、その報いとしての現世の安寧や死後の極楽往生を期待し、功徳になると考えたのかも知れない。それはそれで確かに、真摯な信仰の実践のかたちだ。
仏教の目的を悟りへの到達、宗教を真理の探求の哲学とみなすなら、豪華な装飾法華経のような努力は浪費にも見え、どうなんだろうかと思ってしまいもするかも知れない。平安貴族たちがそうした豪華に飾り立てた信仰行為に費やした経済力を、たとえば少しでも貧民の救済に向けたり、身分の低い者たちを慮っていれば(利他行)、武家勢力が台頭して政治の実権を奪われることもなかったのでは、などとも現代人なら考えてしまうが、そうしたすべてを許容し、時にはその結果の政治的な誤りの渦中に巻き込まれてすらあっても…いや歴史の過ちに苦しむことも度々だったからこそ脈々と、日本の精神文化の基盤であり続けて来たのが天台宗の歴史でもある。
そうした貴族社会と朝廷、天皇に関わる洗練されて豪華絢爛な、いわば「権威・権力側」の価値観の美の世界から、庶民の心に響く素朴で力強く、さまざまな苦しみと不安に日々晒されるからこそ時に粗野で荒々しいまでの信仰の表現までをも取り込んでその血肉とし、極彩色と金と漆で飾られた華やかな仏像から、露出した木そのものの質感から大自然の摂理に思いを馳させる仏像までが幅広く含まれるのが、最澄が創始した天台宗の世界なのだと、この特別展ではつくづく実感させられる。
逆にいうと、教義的にも薬師如来に病から守られることと病からの回復を祈ることから、密教の複雑で体系的な宇宙観と仏の力そのものを使いこなす「修法」による救済、その一方でひたすら阿弥陀如来による死後の救済にすがる浄土信仰までも内包した比叡山と天台宗は、仏教の研究において「総合大学」的であるだけでなく、人々の求める様々な救いに対応して来たその歴史は「信仰の総合商社」あるいは「仏教のデパート」と言ってしまいたくなるほどで、その幅の広さには捉えどころのなさすら感じてしまう。
あえて比較するなら、これが最澄と同時代に並び立つ空海、天台宗と並んで平安仏教の双璧を成す真言宗なら、宇宙のすべてが大日如来に帰結して、生まれ変わりと化身、変化の体系であらゆる神仏、ひいては世界のすべての事象が曼荼羅の理論でつながっている、という非常に明快な世界観が素人目にもすぐに見えて来るのとは対照的だ。しかもその真言密教は今でもすべてが弘法大師空海という文字通りの「最強のカリスマ」に集約されるが、比較するに天台宗では最澄の後にも円仁、円珍、相応、良源、そして近世の天海に至るまで、いわば「新たなカリスマ」が次々と現れ、最澄の信仰と教えを更新し続けて来た。たとえば中世、とくに近世以降では、良源の「厄除け元三大師」像の方が最澄の像よりも遥かに多いように思える。
伝教大師最澄は奈良時代の末に、のちに比叡山の門前町として栄えることになる近江・琵琶湖畔の坂本に生まれた(生地には生源寺という寺が立つ)。俗名は三津首広野、近江に赴任した中級貴族の官吏の息子だった。当時の首都はまだ平城京で、近江はそこまで都に近接した土地ではなかった。
宝亀11(780)年、15歳で得度して仏門に入り「最澄」を名乗る。長身で色白の美少年だったと言われ、記録には左腕にホクロがあったとある。利発で頭脳明晰、かつ生真面目な性格で将来も期待されたらしく3年後の延暦2(783)年には正式な僧侶になる許可が出て、翌々年の延暦4(785)年に東大寺戒壇院で授戒、国家公認の僧侶のエリートコースに入った。
ところが授戒してまもなく、最澄はそんな奈良の大寺院での地位と将来を捨てて故郷の間近にそびえる比叡山にこもってしまう。山中に簡素な庵を結び、ささやかな御堂を建て、出世に背を向けて祈りと修行と学究の生活に入ったその場所が一乗止観院、比叡山延暦寺の礎となる。
比叡山中で最澄は智顗(天台大師)の法華経の解釈書『法華玄義』『法華文句』や『摩訶止観』などの著作を読んで感銘を受ける。そしてその研究をさらに深めるために遣唐使に随行する留学僧として入唐、智顗がそこにこもって著作をまとめた天台山に学んだ。
帰国して勅許を得て、日本の天台宗を興して以降、最澄は生涯に渡って既存の南都仏教(奈良)の大寺院の授ける戒に代わる、利他行の菩薩行に基づく「大乗戒」の戒壇の設立を朝廷に願い出続けた。これが結果として比叡山が奈良の大寺院に代わって僧侶の公認権を握ることに繋がり、天台宗の隆盛の決定的な理由になる。
とはいえ、最澄自身は奈良の旧仏教から日本の仏教界の主導権を奪うような野心で比叡山を授戒の道場にしようと志したのではないだろう。僧侶になるための心構えそのものが、自分にとっては既存の南都仏教のそれとはなにか違うと、最澄は東大寺で授戒を受けた時に強く実感したのかも知れない。
最澄は、現代の心理学用語で言えば「共感能力」、エンパシーが人並外れて強い人だったのではないだろうか? だからこそ、自らが生きる社会と人々の切実なニーズを感じ、自らにそこに応える義務と責任を課し続けたことが、この「謙虚なカリスマ」の並外れた宗教的情熱と努力の原点にあったようにも思える。
最澄が東大寺での授戒で約束された地位をいったんは捨てて、比叡山に入った時に記したとされる「願文」には、こうある。
「伏して願わくば、解脱の味、一人飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく、妙味を服せん」
自分が悟りに到達できて解脱できたとしても、その感動を自分ひとりのものとはしたくない。自分の解脱は「法界の衆生」、仏法の下のあらゆる人々、ひいてはあらゆる生命と分ちあい、自分だけではなく皆が解脱するのであって欲しいと願う。
そこに最澄のその後の生涯と、日本の天台宗が進んでいく歴史のすべてが凝縮され、予見もされていたのかも知れない。
伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」
特別展「最澄と天台宗のすべて」は東京国立博物館のあと、九州国立博物館、京都国立博物館に巡回。総計230件を超える展示作品は会場ごとに異なるため、詳しくは(展覧会公式サイトhttps://saicho2021-2022.jp/)掲載の3会場出品目録を参照してください。
九州展 2022年2月8日(火)~3月21日(月・祝) 九州国立博物館
京都展 2022年4月12日(火)~5月22日(日) 京都国立博物館
東京展 開催概要
会期 | 2021年10月12日(火)~11月21日(日) 会期中、一部作品の展示替えを行います |
会場 | 東京国立博物館平成館 東京都台東区上野公園13-9 |
開館時間 | 午前9時30分~午後5時 |
休館日 | 月曜日 |
主催 | 東京国立博物館、天台宗、比叡山延暦寺、読売新聞社、文化庁 |
特別協賛 | キャノン、JR東日本、日本たばこ産業、三井不動産、三菱地所、明治ホールディングス |
協賛 | 清水建設、髙島屋、竹中工務店、三井住友銀行、三菱商事 |
特別協力 | 園城寺(三井寺)、西教寺、四天王寺、浅草寺、日吉大社 |
協力 | NISSHA |
お問合せ | 050-5541-8600(ハローダイヤル)(午前9時~午後8時/年中無休) |
- JR上野駅公園口・鶯谷駅南口より徒歩10分
- 東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅、千代田線根津駅、京成電鉄京成上野駅より徒歩15分
- 展示作品、会期、展示期間、開館日、開館時間、観覧料、販売方法等については、今後の諸事情により変更する場合があります。最新情報は展覧会公式サイト等でご確認ください。
展覧会公式サイト https://saicho2021-2022.jp/
観覧料(税込)
前売日時指定券 | 当日券 | |
一般 | 2,100円 | 2,200円 |
大学生 | 1,300円 | 1,400円 |
高校生 | 900円 | 1,000円 |
※本展は混雑緩和のため、事前予約制(日時指定券)を導入しています。入場にあたって、すべてのお客様は日時指定券の予約が必要です。「前売日時指定券」、「当日券」の詳細は展覧会公式サイトで要確認。
※予約不要の「当日券」も会場に若干数用意あり。ただし来館時には販売終了している可能性があります。
※中学生以下、障がい者とその介護者1名は無料。ただし「日時指定券」の予約が必要。入館の際に学生証、障がい者手帳等を提示してください。
※今後の諸事情により本展について予告なく変更する場合があります。最新情報は、展覧会公式サイト、および展覧会公式twitter(@saicho2021_2022)をご覧ください。
【取り扱いプレイガイド】
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※入場時間枠には限りがあります。各枠とも、完売しない場合に限り、「美術展ナビチケットアプリ」では入場時間枠開始時刻の12時間前まで、「アソビュー!」「ローチケ」では入場前日の23:59まで購入可。