多様性に満ちた天台宗の魅力の原点には、人並外れた共感能力に溢れた「謙虚なカリスマ」がいた

それにしても、この特別展で天台宗の歴史を俯瞰するに、その思想と信仰も、その思想を反映して産まれた表現も、あまりに幅が広く懐が深いことに驚く。

画像: 国宝 六道絵 十五幅のうち 人道苦相 I 幅 鎌倉時代・13世紀 滋賀・聖衆来迎寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】 「六道」とは仏教の転生輪廻思想における六つの生まれ変わりの形、天道、人道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のこと。この六道絵は全部で十五幅からなる。 この絵は「人道」つまり人の一生のさまざまな苦しみと悲しみを描き、画面の下部では屋敷の中で臨月の女性が陣痛に苦しみ、中ほど右では壮年の病人が家族に囲まれて苦しんでいる。最上部で右斜め上方向に進んでいるのは葬列。

国宝 六道絵 十五幅のうち 人道苦相 I 幅 鎌倉時代・13世紀 滋賀・聖衆来迎寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】
「六道」とは仏教の転生輪廻思想における六つの生まれ変わりの形、天道、人道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のこと。この六道絵は全部で十五幅からなる。
この絵は「人道」つまり人の一生のさまざまな苦しみと悲しみを描き、画面の下部では屋敷の中で臨月の女性が陣痛に苦しみ、中ほど右では壮年の病人が家族に囲まれて苦しんでいる。最上部で右斜め上方向に進んでいるのは葬列。

最澄が自分が唐では学べなかった密教を、現世利益の救済のためにも空海から学んで導入しようとし、その遺志が円仁や円珍の唐への留学に引き継がれて「台密」が一時は真言宗をしのぐほどに盛んになり、朝廷と貴族社会に重用された一方で、対照的にその現世を厭い死後の世界の救済をひたすら願う浄土教も、決して鎌倉新仏教の法然や親鸞が浄土宗・浄土真宗で初めて創始したものではない。

慈恵大師良源の弟子・恵心僧都源信が『往生要集』を著したのをきっかけに、天台宗が平安時代中後期にすでに広めていた信仰だった。

画像: 国宝 六道絵 十五幅のうち 人道苦相 II幅 鎌倉時代・13世紀 滋賀・聖衆来迎寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】 人道、つまり人として生まれ変わった生の虚しさと苦しみや悲しみ、ここでは特に戦乱などを描く。この六道絵は元々は比叡山の横川の霊山院にあり、信長の焼き討ちの前に麓の琵琶湖湖畔の聖衆来迎寺に移されていたため難を逃れた。

国宝 六道絵 十五幅のうち 人道苦相 II幅 鎌倉時代・13世紀 滋賀・聖衆来迎寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】
人道、つまり人として生まれ変わった生の虚しさと苦しみや悲しみ、ここでは特に戦乱などを描く。この六道絵は元々は比叡山の横川の霊山院にあり、信長の焼き討ちの前に麓の琵琶湖湖畔の聖衆来迎寺に移されていたため難を逃れた。

最澄は法華経に基づき前世や輪廻転生の因縁に関係なく誰もが現世で悟りに到達できると考え、円仁・円珍以降の天台密教が現世での国家鎮護や疫病の退散、病の治癒や戦勝と敵の調伏を祈願する一方で、その現世・人間の世は虚しく厭わしいもので真の救済は六道輪廻の宿命から阿弥陀如来の慈悲によって救い出されることしかない、という浄土教もまた天台宗の教えになっているのは、現代人にはいささか矛盾しているようにも思えてしまうが、源信から始まった信仰は、本記事の前半で触れた立石寺に見られるような、現代でも東北各地の天台宗の古刹・霊山に息づく死後の世界への信仰と、死者のための祈りにもつながっている。

画像: 恵心僧都(源信)像 南北朝時代・14世紀 滋賀・聖衆来迎寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】 11月2日以降はほぼ同じ絵柄の滋賀・延暦寺蔵の恵心僧都像を展示、室町時代・15世紀

恵心僧都(源信)像 南北朝時代・14世紀 滋賀・聖衆来迎寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】
11月2日以降はほぼ同じ絵柄の滋賀・延暦寺蔵の恵心僧都像を展示、室町時代・15世紀

源信は貴族社会との接触が苦手だったらしく、貴族や朝廷の依頼で修法を行うことを避けて比叡山・横川の恵心院に隠遁し、死と死後の世界に関する経典を研究、その成果をまとめたのが全3巻からなる『往生要集』だ。

画像: 重要文化財  往生要集 3帖のうち1帖 上巻 平安時代・承安元(1171)年 京都・青蓮院蔵 現存する『往生要集』の最古の写本

重要文化財  往生要集 3帖のうち1帖 上巻 平安時代・承安元(1171)年 京都・青蓮院蔵
現存する『往生要集』の最古の写本

仏教では、あらゆる生命は生まれ変わりを続け(転生輪廻)、前世の行い(業、カルマ)に応じてその生まれ変わる先が決まるとされる。その生命の世界は六つに分けられ(六道)、神々の世界で人と比べれば途方もない長寿ではあるが永遠の生命が与えられるわけではない天道、人として生きる人道、果てしなく争いお互いに殺し合いを続ける阿修羅道、動物に生まれ変わる畜生道、なにを食べてなにを飲もうが決して満たされない飢えと渇きに苛まれる餓鬼道、そして地獄道がある。

『往生要集』では生前にどのような行いをすればどんな世界に生まれ変われるかを解説する。特に地獄の描写は詳細で迫真性に満ち、現代でも日本人がイメージする「地獄」はほぼ源信が書いたことを踏襲している。我々は死して仮に地獄にまでは落ちなくとも、六道のどの世界に生まれ変わろうが、運良く人道に生まれ変わっても出産には母の激痛が伴い、病に苦しみ、いずれは肉体が衰え、死を迎え、亡骸が朽ちていき、魂は別の生命に再び生まれ変わり、同じ苦しみを繰り返すだろう。

画像: 国宝 六道絵 十五幅のうち 人道不浄相幅 鎌倉時代・13世紀 滋賀・聖衆来迎寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】 上部の四角い色紙型には、「往生要集」の引用文が書かれている。以上の人間界の悲しみと苦しみを描いた三幅は10月31日までの展示。11月2日以降は「等活地獄幅」「餓鬼道幅」の、前世の重罪の報いで生まれ変わるとりわけ過酷な世界が描かれた二幅と、輪廻転生の宿命から解脱するために念仏を唱えることを推奨する「譬喩経所説念仏功徳幅」「優婆塞戒経所説念仏功徳幅」の二通りの「念仏功徳幅」の、計四幅を展示。

国宝 六道絵 十五幅のうち 人道不浄相幅 鎌倉時代・13世紀 滋賀・聖衆来迎寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】
上部の四角い色紙型には、「往生要集」の引用文が書かれている。以上の人間界の悲しみと苦しみを描いた三幅は10月31日までの展示。11月2日以降は「等活地獄幅」「餓鬼道幅」の、前世の重罪の報いで生まれ変わるとりわけ過酷な世界が描かれた二幅と、輪廻転生の宿命から解脱するために念仏を唱えることを推奨する「譬喩経所説念仏功徳幅」「優婆塞戒経所説念仏功徳幅」の二通りの「念仏功徳幅」の、計四幅を展示。

六道輪廻のサイクルから逃れるには(解脱)、悟りを開くことでの解脱ができないのなら、救済の仏である阿弥陀如来にすがり、その名を唱え(念仏)、遥か西の彼方にある阿弥陀浄土に迎えられる解脱(極楽往生)しかないと説く『往生要集』は、もともと貴族と付き合いたくなかった源信が世捨て人のように山に篭った研究のはずで、死の不安に苛まれていた自分の母の心を安らかにさせたかった、とも言われる。

ところがそんなパーソナルだったはずの研究成果は貴族社会で大人気になり、この世の人生を虚しく悲しみに満ちたものと捉えて阿弥陀如来による救済にすがる仏教が、貴族たちのあいだで爆発的に流行することになる。晩年の藤原道長は一心に「南無阿弥陀仏」と日々何万回も、臨終の間際まで唱え続けた。その息子・藤原頼通が父の宇治の別邸の敷地に建てた平等院や、先にも秘仏本尊の薬師如来立像の紹介で触れた法界寺の阿弥陀堂、地方でも奥州藤原氏の毛越寺などなど、阿弥陀浄土を再現した寺院が無数に建立された。つまり現代の日本庭園にもつながる浄土式庭園も天台宗から生まれた文化だし、現代のたとえば漫画の地獄の姿も遡れば『往生要集』が起源の、つまりは天台宗が広めたものが原点なのだ。

画像: 重要文化財 阿弥陀聖衆来迎図 平安時代・12世紀 滋賀・浄厳院蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】 天上の音楽を奏でる菩薩たちを伴って、死に行く者の魂を迎えに来る阿弥陀如来

重要文化財 阿弥陀聖衆来迎図 平安時代・12世紀 滋賀・浄厳院蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】
天上の音楽を奏でる菩薩たちを伴って、死に行く者の魂を迎えに来る阿弥陀如来

最澄がもっとも重んじてその思想の核となった『法華経』が、長大かつ複雑な思想体系が書かれ、奥が深く難解ですらある経典なので、天台宗がこれだけ幅広い仏教についての考え方を取り込んで発展して来たのも、当然と言えば当然なのかも知れない。

とは言うものの、『法華経』では前世から抱えた業・カルマに関わらず、誰もが悟りに到達できる可能性があるとされ、だからこそ最澄は『法華経』を最も重視し、とりわけ菩薩行、つまり現世で他者に尽くす利他行こそが悟りに到達できる道だとみなす大乗仏教を説いたはずだ。だが浄土教思想では、その悟りを目指す努力すら虚しく、ひたすら阿弥陀如来にすがればいい、と言う話にもなりかねない。

しかしそれを言うなら、浄土教の流行以前には『法華経』をしきりと写経して救済を願った平安貴族も、その内容をどこまで読み込んで理解しながら書写していたのだろう? あるいは長大な経文を一字一字丁寧に、時には墨ではなく高価な金泥・銀泥まで使って書き写す行為に忍耐と努力、そして財力を注ぐことそのものに強い信仰を込めて、その報いとしての現世の安寧や死後の極楽往生を期待し、功徳になると考えたのかも知れない。それはそれで確かに、真摯な信仰の実践のかたちだ。

画像: 重要文化財 紺紙金銀交書法華経 八巻のうち巻第七(部分) 平安時代・11世紀 滋賀・延暦寺蔵 藍の防虫防菌効果から転じて神聖視された紺紙に、一行ごとに金泥と銀泥を交互に使い分けて『法華経』を書写している。銀は日本の湿気が多い環境下では酸化しやすいのでこの図版では薄くなっているが、原品は今でもかなり鮮明なのでぜひ見て頂きたい。見返しの絵は釈迦が菩薩の頭を撫でる図。

重要文化財 紺紙金銀交書法華経 八巻のうち巻第七(部分) 平安時代・11世紀 滋賀・延暦寺蔵
藍の防虫防菌効果から転じて神聖視された紺紙に、一行ごとに金泥と銀泥を交互に使い分けて『法華経』を書写している。銀は日本の湿気が多い環境下では酸化しやすいのでこの図版では薄くなっているが、原品は今でもかなり鮮明なのでぜひ見て頂きたい。見返しの絵は釈迦が菩薩の頭を撫でる図。

仏教の目的を悟りへの到達、宗教を真理の探求の哲学とみなすなら、豪華な装飾法華経のような努力は浪費にも見え、どうなんだろうかと思ってしまいもするかも知れない。平安貴族たちがそうした豪華に飾り立てた信仰行為に費やした経済力を、たとえば少しでも貧民の救済に向けたり、身分の低い者たちを慮っていれば(利他行)、武家勢力が台頭して政治の実権を奪われることもなかったのでは、などとも現代人なら考えてしまうが、そうしたすべてを許容し、時にはその結果の政治的な誤りの渦中に巻き込まれてすらあっても…いや歴史の過ちに苦しむことも度々だったからこそ脈々と、日本の精神文化の基盤であり続けて来たのが天台宗の歴史でもある。

そうした貴族社会と朝廷、天皇に関わる洗練されて豪華絢爛な、いわば「権威・権力側」の価値観の美の世界から、庶民の心に響く素朴で力強く、さまざまな苦しみと不安に日々晒されるからこそ時に粗野で荒々しいまでの信仰の表現までをも取り込んでその血肉とし、極彩色と金と漆で飾られた華やかな仏像から、露出した木そのものの質感から大自然の摂理に思いを馳させる仏像までが幅広く含まれるのが、最澄が創始した天台宗の世界なのだと、この特別展ではつくづく実感させられる。

画像1: 重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵

重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵

逆にいうと、教義的にも薬師如来に病から守られることと病からの回復を祈ることから、密教の複雑で体系的な宇宙観と仏の力そのものを使いこなす「修法」による救済、その一方でひたすら阿弥陀如来による死後の救済にすがる浄土信仰までも内包した比叡山と天台宗は、仏教の研究において「総合大学」的であるだけでなく、人々の求める様々な救いに対応して来たその歴史は「信仰の総合商社」あるいは「仏教のデパート」と言ってしまいたくなるほどで、その幅の広さには捉えどころのなさすら感じてしまう。

あえて比較するなら、これが最澄と同時代に並び立つ空海、天台宗と並んで平安仏教の双璧を成す真言宗なら、宇宙のすべてが大日如来に帰結して、生まれ変わりと化身、変化の体系であらゆる神仏、ひいては世界のすべての事象が曼荼羅の理論でつながっている、という非常に明快な世界観が素人目にもすぐに見えて来るのとは対照的だ。しかもその真言密教は今でもすべてが弘法大師空海という文字通りの「最強のカリスマ」に集約されるが、比較するに天台宗では最澄の後にも円仁、円珍、相応、良源、そして近世の天海に至るまで、いわば「新たなカリスマ」が次々と現れ、最澄の信仰と教えを更新し続けて来た。たとえば中世、とくに近世以降では、良源の「厄除け元三大師」像の方が最澄の像よりも遥かに多いように思える。

画像: 国宝 伝教大師度縁案並僧綱牒 奈良時代・8世紀 京都・来迎院蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】 最澄の得度と授戒に関する記録文書三通をまとめたもの。一通目が15歳の最澄の得度を認めた文書で、俗名や家族のことなどの記録。二通目は18歳の時に発行された僧侶になる許可証で、左肘にホクロがあるなどの身体的特徴が書かれている。三通目はその翌々年、20歳の最澄が東大寺で授戒したことの報告書。

国宝 伝教大師度縁案並僧綱牒 奈良時代・8世紀 京都・来迎院蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】
最澄の得度と授戒に関する記録文書三通をまとめたもの。一通目が15歳の最澄の得度を認めた文書で、俗名や家族のことなどの記録。二通目は18歳の時に発行された僧侶になる許可証で、左肘にホクロがあるなどの身体的特徴が書かれている。三通目はその翌々年、20歳の最澄が東大寺で授戒したことの報告書。

伝教大師最澄は奈良時代の末に、のちに比叡山の門前町として栄えることになる近江・琵琶湖畔の坂本に生まれた(生地には生源寺という寺が立つ)。俗名は三津首広野、近江に赴任した中級貴族の官吏の息子だった。当時の首都はまだ平城京で、近江はそこまで都に近接した土地ではなかった。

宝亀11(780)年、15歳で得度して仏門に入り「最澄」を名乗る。長身で色白の美少年だったと言われ、記録には左腕にホクロがあったとある。利発で頭脳明晰、かつ生真面目な性格で将来も期待されたらしく3年後の延暦2(783)年には正式な僧侶になる許可が出て、翌々年の延暦4(785)年に東大寺戒壇院で授戒、国家公認の僧侶のエリートコースに入った。

ところが授戒してまもなく、最澄はそんな奈良の大寺院での地位と将来を捨てて故郷の間近にそびえる比叡山にこもってしまう。山中に簡素な庵を結び、ささやかな御堂を建て、出世に背を向けて祈りと修行と学究の生活に入ったその場所が一乗止観院、比叡山延暦寺の礎となる。

画像: 天台大師(智顗)像 鎌倉時代・13世紀 滋賀・延暦寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】 中国・南北朝時代から隋時代(大同4<538>年〜 開皇17<598>年)にかけての僧侶で、中国における天台宗の開祖となる。「天台宗」という宗派名は智顗が天台山にこもって自らの研究をまとめたことに由来。最澄は唐に留学するにあたって智顗の思想を学ぼうと志し、天台山で学んだ。

天台大師(智顗)像 鎌倉時代・13世紀 滋賀・延暦寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】
中国・南北朝時代から隋時代(大同4<538>年〜 開皇17<598>年)にかけての僧侶で、中国における天台宗の開祖となる。「天台宗」という宗派名は智顗が天台山にこもって自らの研究をまとめたことに由来。最澄は唐に留学するにあたって智顗の思想を学ぼうと志し、天台山で学んだ。

比叡山中で最澄は智顗(天台大師)の法華経の解釈書『法華玄義』『法華文句』や『摩訶止観』などの著作を読んで感銘を受ける。そしてその研究をさらに深めるために遣唐使に随行する留学僧として入唐、智顗がそこにこもって著作をまとめた天台山に学んだ。

帰国して勅許を得て、日本の天台宗を興して以降、最澄は生涯に渡って既存の南都仏教(奈良)の大寺院の授ける戒に代わる、利他行の菩薩行に基づく「大乗戒」の戒壇の設立を朝廷に願い出続けた。これが結果として比叡山が奈良の大寺院に代わって僧侶の公認権を握ることに繋がり、天台宗の隆盛の決定的な理由になる。

画像: 国宝 光定戒牒 嵯峨天皇宸翰 平安時代・弘仁14(823)年 滋賀・延暦寺蔵 最澄が亡くなった翌年、比叡山の戒壇で大乗戒に基づく新しい戒を授けることが嵯峨天皇の勅許によって始まる。嵯峨天皇は空海・橘逸勢と並び平安の「三筆」と讃えられる書の名手で、この「光定戒牒」は歴史的な重要文書であるだけでなく、楷書、行書、草書と異なった書体を自在に使い分け、文字の太さの奔放な変化の抑揚が生み出すリズミカルな躍動感に溢れた圧巻の名筆。

国宝 光定戒牒 嵯峨天皇宸翰 平安時代・弘仁14(823)年 滋賀・延暦寺蔵
最澄が亡くなった翌年、比叡山の戒壇で大乗戒に基づく新しい戒を授けることが嵯峨天皇の勅許によって始まる。嵯峨天皇は空海・橘逸勢と並び平安の「三筆」と讃えられる書の名手で、この「光定戒牒」は歴史的な重要文書であるだけでなく、楷書、行書、草書と異なった書体を自在に使い分け、文字の太さの奔放な変化の抑揚が生み出すリズミカルな躍動感に溢れた圧巻の名筆。

とはいえ、最澄自身は奈良の旧仏教から日本の仏教界の主導権を奪うような野心で比叡山を授戒の道場にしようと志したのではないだろう。僧侶になるための心構えそのものが、自分にとっては既存の南都仏教のそれとはなにか違うと、最澄は東大寺で授戒を受けた時に強く実感したのかも知れない。

最澄は、現代の心理学用語で言えば「共感能力」、エンパシーが人並外れて強い人だったのではないだろうか? だからこそ、自らが生きる社会と人々の切実なニーズを感じ、自らにそこに応える義務と責任を課し続けたことが、この「謙虚なカリスマ」の並外れた宗教的情熱と努力の原点にあったようにも思える。

最澄が東大寺での授戒で約束された地位をいったんは捨てて、比叡山に入った時に記したとされる「願文」には、こうある。

「伏して願わくば、解脱の味、一人飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく、妙味を服せん」

自分が悟りに到達できて解脱できたとしても、その感動を自分ひとりのものとはしたくない。自分の解脱は「法界の衆生」⁠、仏法の下のあらゆる人々、ひいてはあらゆる生命と分ちあい、自分だけではなく皆が解脱するのであって欲しいと願う。

画像2: 重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵

重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵

そこに最澄のその後の生涯と、日本の天台宗が進んでいく歴史のすべてが凝縮され、予見もされていたのかも知れない。

伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」

特別展「最澄と天台宗のすべて」は東京国立博物館のあと、九州国立博物館、京都国立博物館に巡回。総計230件を超える展示作品は会場ごとに異なるため、詳しくは(展覧会公式サイトhttps://saicho2021-2022.jp/)掲載の3会場出品目録を参照してください。
 九州展 2022年2月8日(火)~3月21日(月・祝) 九州国立博物館
 京都展 2022年4月12日(火)~5月22日(日)   京都国立博物館

画像3: 重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵

重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵

東京展 開催概要

会期2021年10月12日(火)~11月21日(日)
会期中、一部作品の展示替えを行います
会場東京国立博物館平成館
東京都台東区上野公園13-9
開館時間午前9時30分~午後5時
休館日月曜日
主催東京国立博物館、天台宗、比叡山延暦寺、読売新聞社、文化庁
特別協賛キャノン、JR東日本、日本たばこ産業、三井不動産、三菱地所、明治ホールディングス
協賛清水建設、髙島屋、竹中工務店、三井住友銀行、三菱商事
特別協力園城寺(三井寺)、西教寺、四天王寺、浅草寺、日吉大社
協力NISSHA
お問合せ050-5541-8600(ハローダイヤル)(午前9時~午後8時/年中無休)
  • JR上野駅公園口・鶯谷駅南口より徒歩10分
  • 東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅、千代田線根津駅、京成電鉄京成上野駅より徒歩15分
  • 展示作品、会期、展示期間、開館日、開館時間、観覧料、販売方法等については、今後の諸事情により変更する場合があります。最新情報は展覧会公式サイト等でご確認ください。

展覧会公式サイト https://saicho2021-2022.jp/

観覧料(税込)

前売日時指定券当日券
一般2,100円2,200円
大学生1,300円1,400円
高校生900円1,000円

※本展は混雑緩和のため、事前予約制(日時指定券)を導入しています。入場にあたって、すべてのお客様は日時指定券の予約が必要です。「前売日時指定券」、「当日券」の詳細は展覧会公式サイトで要確認。

※予約不要の「当日券」も会場に若干数用意あり。ただし来館時には販売終了している可能性があります。
※中学生以下、障がい者とその介護者1名は無料。ただし「日時指定券」の予約が必要。入館の際に学生証、障がい者手帳等を提示してください。
※今後の諸事情により本展について予告なく変更する場合があります。最新情報は、展覧会公式サイト、および展覧会公式twitter(@saicho2021_2022)をご覧ください。

【取り扱いプレイガイド】
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※入場時間枠には限りがあります。各枠とも、完売しない場合に限り、「美術展ナビチケットアプリ」では入場時間枠開始時刻の12時間前まで、「アソビュー!」「ローチケ」では入場前日の23:59まで購入可。

画像: 重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵 写真:藤原敏史、会場写真はすべて主催者の特別な許可で展覧会紹介のため撮影 Canon EOS RP, RF50mmf1.2L, RF85mmf1.2L, RF24-240mmf4-6.3 ©2021, Toshi Fujiwara

重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3(1224)年 滋賀・観音寺蔵
写真:藤原敏史、会場写真はすべて主催者の特別な許可で展覧会紹介のため撮影
Canon EOS RP, RF50mmf1.2L, RF85mmf1.2L, RF24-240mmf4-6.3 ©2021, Toshi Fujiwara

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