日本人のカミ信仰と山岳信仰、そして「木の仏像」の時代へ

画像: 国宝 十一面観音菩薩立像 (部分) 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵 背景には三輪山の写真と、大神神社の三ツ鳥居の再現

国宝 十一面観音菩薩立像 (部分) 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵
背景には三輪山の写真と、大神神社の三ツ鳥居の再現

大神神社そのものが、現代人の感覚だととても不思議な神社に見える。現在の拝殿は江戸時代に四代将軍・徳川家綱が寄進した豪華な再建だが、参拝しようとその前に立つと、前後の扉が開け放たれたその向こうには、ただ風景が広がっている。

つまり、神社なのにカミが鎮座する肝心の至聖域であるはずの、本殿がない。

代わりに建っているのがこの展覧会の立体背景のモデルになった「三ツ鳥居」だ。拝殿は鎌倉時代にはあったはずで、「三ツ鳥居」はさらに時代を遡ると推測される(なおこういう建造物は建て替えられるので、現在のものが当初に遡るとは限らない)。

現代人が失っていがちな感覚だが、鳥居やしめ縄というのは本来「結界」だ。神社の拝殿や、本殿を取り巻く透塀もまた、本殿に近づけず、隠れて見えないようにもしている意味で「結界」の機能があるのだろう。つまり神社という場は何重にも結界が張られたその中心に、カミが宿る構造になっている。そして「結界」というと現代人は自分の回りに悪霊や穢れが入り込むのを防ぐ防御のように受け取るのだろうが、しめ縄や鳥居で神聖な領域を区別する結界(ちなみにかつては神社に限らず、寺院でもしめ縄や鳥居はあった)とは、むしろ我々人間こそが穢れを抱えている以上はそこに入ってはいけない(神罰で命も危ない、厄災が起こる)、禁足地、という意味も持つ。

いや今でも観光や参拝、お祓いや結婚式などで神社に行っても、拝殿までは入れてもらえることはあっても本殿は目の前まで入れることすら稀で、遠くから見るその扉は固く閉ざされている。人間が入ってはいけない神聖な空間の中に…たぶん「御神体」などの依代(ヨリシロ、カミの霊が宿るとされる物体、カミの分身)があるのだろうが、我々の目に触れることはない。

大神神社にはその本殿がない代わりに、結界としての三ツ鳥居があって、その彼方に見えるのがこの神社の「御神体」というか、依代ではなくカミそのもののであるところの、三輪山を眺望できる。

画像: 三輪山絵図 室町時代・16世紀 奈良・大神神社蔵 下から伸びる山道の先の、石垣と赤い塀に囲まれている空間が中心の社殿。その上端に拝殿と、その向こうの「三鳥居」が描かれ、その一直線上の最上部に三輪山の山頂。

三輪山絵図 室町時代・16世紀 奈良・大神神社蔵
下から伸びる山道の先の、石垣と赤い塀に囲まれている空間が中心の社殿。その上端に拝殿と、その向こうの「三鳥居」が描かれ、その一直線上の最上部に三輪山の山頂。

今回の展覧会で大神神社から出品されている室町時代の絵図には、この山への信仰の哲学が分かり易く視覚化されている。石垣と赤い塀で囲まれた中心社殿の奥に拝殿があって、そのさらに奥に拝殿より大きく描かれているのが「三ツ鳥居」(絵図の表記は「三鳥居」)だ。この二つの建造物の一直線上、画面の最上部の一際高い山頂に「高峯」と書かれ赤い丸が青い円で囲われているのが、神聖なる山にして祭神・大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)そのものである三輪山だ。

三輪山は美しい直線上の稜線をなす、端正な円錐形の山だ。奈良県の地質は主に風化しやすい花崗岩だが、三輪山は火山性で硬い斑紋岩の巨大な塊で、花崗岩ほど風化し易くないので、尖った円錐状の地形になった。見た目はまこと麗しいが、登拝道は岩も多く、勾配も険しいという。

まだ仏教が伝来する以前の古代の人々は、この美しくて険しい端正な山に神聖さを見て、カミと崇めたのだろう。その信仰は4世紀、5世紀の古墳時代どころか、弥生時代から古墳時代に移行する3世紀半ば以前にまで遡るかも知れない。その3世紀半ばの建造とみられる巨大前方後円墳の最古例で、相似形の古墳が各地に作られた箸墓古墳が、三輪山への信仰と関連してそこに造られた可能性が高いのだ。近くにはおそらく日本最古の宮殿建築の遺構である纏向遺跡もあり、ここが「邪馬台国」の女王「卑弥呼」の都で、箸墓はその墓ではないか、そしてその「ヤマタイ」つまり「ヤマト」が臣従した諸国の豪族に箸墓の精確な相似形の前方後円墳(箸墓類型)を造らせたのでは、という説も根強い。

画像: 碧玉勾玉 古墳時代・4〜5世紀 子持勾玉 古墳時代・5〜6世紀 土師器(手前左:坏、右:坩) 古墳時代・5〜6世紀 いずれも奈良・大神神社蔵

碧玉勾玉 古墳時代・4〜5世紀 子持勾玉 古墳時代・5〜6世紀 土師器(手前左:坏、右:坩) 古墳時代・5〜6世紀 いずれも奈良・大神神社蔵

一説には日本最古の「神社」とも言われる大神神社の構造が今では特殊に見えるのは、これがむしろ神社、つまり日本人にとってのカミ信仰の場の在り方の祖型なのだ。なお一般に神社の本殿に俗人の立ち入りが許されないように、三輪山も長らく禁足地だった。今では登ることも許されてはいるが、ただしあくまで信仰行為としての「登拝」で、写真撮影や食事などは厳禁されている(詳しい案内はこちら)。

『古事記』や『日本書紀』に登場する大物主大神は三輪山そのものにして、時に蛇や赤い矢などのさまざまな化身、そして美男子の姿でヒトの前に姿を現す。眉目秀麗な美丈夫の姿で女性たちと契りを結ぶ大物主大神の神話には、大神神社の神宮寺に祀られていた十一面観音も、そうした神々しいまでの美男子の姿としての大物主大神をどこかでイメージしたのかも知れない、などと想像が膨らむ。

そうした大物主神話のひとつが『日本書紀』にある箸墓古墳の由来の記述で、大物主が自分が原因で相手の女性が亡くなってしまうことを防げなかった悲劇だ。箸墓はその相手、孝霊天皇の子・百襲姫の墓とされている。

画像3: 国宝 十一面観音菩薩立像 (部分) 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

国宝 十一面観音菩薩立像 (部分) 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

もっとも古い巨大前方後円墳が天皇ではなく大物主大神に恋し落命した天皇の娘の墓とされ、その建造過程や動員された人員についてまで詳細な記述が『日本書紀』にあること自体が、大物主信仰の古代日本における重要性を示唆しているとも考えられるが、それはともかくこの悲しい物語は、聖林寺十一面観音の目に憂いを漂わせて厳しく口を結んだ表情にも、連想がつながりはしないだろうか?

そもそも神仏分離令の前の日本では、カミガミは仏が日本の衆生のために姿を変えた化身、「権現」であるとする「本地垂迹説」の信仰体系が一般的だった。神社に神宮寺が設けられていたのも、本尊がその神社の祭神の「本地仏」(仮の姿であるカミの本来の仏)の場合が多い。

国宝 十一面観音菩薩立像 (部分) 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵
頭部の中央に配置される仏の顔(化仏)は、菩薩が修行の末に悟りを開いて到達するであろう如来を表す

もっとも、これはあくまで平安時代に、空海が世界のすべてが化身・分身・転生の体系で繋がっていて究極的にはすべてが大日如来である、という密教の世界観を持ち込み、その信仰体系が普及して、日本のカミガミもそこに組み込まれた「本地垂迹説」の成立以降の、中世にかけてのことだ。聖林寺の十一面観音は奈良時代の仏像であり、大御輪寺にはこれ以外にも奈良時代の経巻や文書が伝来していた。つまり、大物主大神の「本地仏」、仏としての本来の姿が観音菩薩と言う信仰があっても、平安時代以降のいわば「後付け」だろう。

画像: 国宝 十一面観音菩薩立像 (部分・頭頂面) 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

国宝 十一面観音菩薩立像 (部分・頭頂面) 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

いやむしろ、本地垂迹説そのものが「後付け」だったのではないか?

巨石や巨木、そして山々の、人々が神聖さを感じる大自然の驚異(そして脅威)が現れた土地が、古墳時代や弥生時代から信仰の聖地になって、まずは自然神信仰のカミガミへの祈りが捧げられ、仏教が伝来すると次第にそうした神聖な場所が仏教の修行の場にもなったり、仏への祈りの場にもなって寺院も建てられたのは、「神仏習合」、神と仏の神聖さにことさら区別をつけないことこそが、かつての日本人にとって自然な感覚だったからなのではないか?

当初は物部守屋と蘇我馬子が排仏か崇仏をめぐって内戦になったものの、物部氏が滅んで朝廷が積極的に仏教を普及するようになるにつれて、土着のカミ信仰と仏教が日々の生活の祈りの中で融合して行き、「本地垂迹説」のような理論はそうした現実の信仰を論理的に説明して正当化する理論として考え出されたのだとしても、精神史の流れとしてはむしろその方が自然ではないだろうか。

大神神社の「三輪山絵図」には、三ツ鳥居(絵図の表記は「三鳥居」)の左に、興味深いものが描かれている。「大般若経蔵」、つまり仏教のお経を納めた蔵だ。

画像: (左)大般若経 平安時代・12世紀 (全600帖のうち6帖)※巻第十一、巻第二百十三、巻第五百八十は、8月1日まで展示 (右)経箱 室町時代・天文4(1535)年 側面に「大御輪寺」の文字が大きく書かれている 共に奈良・大神神社蔵

(左)大般若経 平安時代・12世紀 (全600帖のうち6帖)※巻第十一、巻第二百十三、巻第五百八十は、8月1日まで展示
(右)経箱 室町時代・天文4(1535)年 側面に「大御輪寺」の文字が大きく書かれている
共に奈良・大神神社蔵

むろん明治の神仏分離令の前には、神社に経蔵があること自体も当たり前だった(今でも日光東照宮には経蔵がちゃんとある)。しかしこの位置となるとただお経を普段納めて置く場所というのではない、なんらかの宗教的な役割があったと考えるべきではないか。

なにしろ禁足地の霊山を示す結界であるところの三ツ鳥居より奥なのだ。普通にちょっと立ち入ってお経を取り出せる場所ではない。経典そのものになんらかの宗教的なパワーをみて、結界の一部としてここに置かれていたのだろうか?

画像: 山ノ神遺跡出土品 古墳時代・5〜6世紀 東京国立博物館蔵 三輪山の禁足地の考古学調査で発掘された出土品。酒造りの道具を表していると思われる。

山ノ神遺跡出土品 古墳時代・5〜6世紀 東京国立博物館蔵
三輪山の禁足地の考古学調査で発掘された出土品。酒造りの道具を表していると思われる。

大物主大神は酒造りのカミなどとしてさまざまな恩恵をもたらす一方で、『日本書紀』に書かれた大神神社の起源によれば、崇神天皇の代に天変地異や疫病が続き、天皇の夢に大物主大神が現れ、自分を祀るよう告げたという。

朝廷が夢で命じられた通りに三輪山で祭礼を行うと、カミの怒りつまり疫病と天変地異が治った。この神話は、このカミが恐ろしい「祟り神」の一面も持つことを示してもいる。そしてこのように恩恵も厄災ももたらす神聖さに対する畏怖を含んだ理解こそが、人智を超えた自然の営みの下で農業などを続け、時には翻弄されながら生活と文明を積み重ねて行ったかつての日本人にとって、もっともしっくりくるというか、文字通り自然な信仰だったのかも知れない。

画像10: 国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

だとすると、奈良時代の聖林寺の国宝 十一面観音菩薩立像に示されるような日本の彫刻文化の最初の絶頂期が、100年と経たぬうちに平安時代初期の法隆寺の国宝 地蔵菩薩立像が典型のような「木の仏像」、仏の姿であると同時に木そのものの存在感でもある彫刻に取って代わられ、大木がそのまま仏像になる「一木造り」の隆盛となったことにも、一応の説明がつきそうだ。

要するに、山にこそカミを見る日本人だからこそ木の仏像に惹かれ、木そのものにこそ神聖さを感じる民族なのではないか?

古墳時代やそれ以前の人々が三輪山の美しさと険しさに恩恵も災厄ももたらす大自然=カミを直感したように、平安初期の人々は法隆寺の地蔵菩薩のような、技巧的にも非常に難しく厳しい鍛錬が必要な、研ぎ澄まされた彫刻技術によって一本の丸太つまりは巨木から彫り出された仏の姿に、仏の慈悲と抽象的な仏教の理念と同時に、リアルに体感できる「木そのもの」の質感の向こうに、しばしば不可解だからこそ神聖な大自然の摂理、つまりは「神」の存在を感じていたのかも知れない。

画像8: 国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 奈良・法隆寺蔵

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 奈良・法隆寺蔵

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