将軍とその子孫の参拝時にしか開帳されないという秘仏の不思議な美
寛永寺の秘仏本尊の、最澄自身の作として信仰されて来た薬師如来像はつまり、江戸時代を通じて大噴水の位置にあった。その像が直近の本坊跡地である東京国立博物館で展示されるとなると、いい知れぬ感慨も覚える。回廊に囲まれた二層の根本中堂が五代将軍・綱吉の元禄時代に完成、東日本最大の建築物で別名を「瑠璃殿」、薬師如来の瑠璃光浄土に由来する呼び名だが、瑠璃のように神々しく輝かんばかりの華麗な建物だったともいわれる。
本尊像は平安時代初期、つまり最澄の同時代かその直後の様式の、一本の材木から仏像の全体を彫り出す「一木造り」だが、同様の構造の同時代の仏像のなかでも異例の、個性的な造形だ。全体がとても直線的で鋭角的というか、角ばった肩から両腕が体にピッタリ沿うように垂直に下に伸び、身長も極端に細身で縦長に引き伸ばされ、直角に曲げられた肘から先の上腕とさらに内側に曲がった手首が、いささか窮屈そうに体幹に沿っている。
彩色や漆、金箔を施さず露出した木の質感が、両肩から下にかけての衣の部分が虫喰いで破損していることでさらに強調され、破損部分も森林の中の木の地肌のようにも見える。さらに像自体が極端に長身で直線的に直立し、左腕と手首があえて一本の丸太の直径の中に収まろうとしているかのように曲がっているためか、まるでまっすぐに育った木を前にしているかのような不思議な感じを覚える。
腹部から両腿にかけての衣のひだなどは適確に整理されていかにも洗練された造形で、本当に最澄の自刻かどうかは不明なものの、技術も美意識もそれなりの人物だったと思われる。一部が虫喰いで失われてはいるものの、袖のひだは簡潔で華美を排し、すっきりと美しい。つまりこの不思議に長細い直線的な印象の独特のフォルムは仏師の腕が稚拙だったからなどではなく、意図的なものだろう。この木から仏像を作ることが大前提で、丸太の直径の制約があってもこの身長にする必要があったので、この独特のフォルムになったのではないか?
最澄が比叡山の本尊を彫ったのと同じ材木という伝承は、その比叡山の本尊が絶対秘仏なので確認のしようがないが、木そのものが神聖視された神木だったのではないか?
また大自然のなかに神仏の神聖さを見出す日本的な感性と、最澄自身が奈良の大寺院を離れて故郷の近江・琵琶湖畔の坂本に近い比叡山の山中にこもったことにも遡るような、山岳修行や山岳信仰の伝統ともなにかしら深く関わった姿なのかも知れない。比叡山は『古事記』にも霊山として記述があり、最澄はこの山に入るにあたってその地主神・大山咋神を「小比叡」、大和の三輪山(現在の奈良県桜井市・大神神社)の大物主大神を勧請して「大比叡」の神とした。現在の日吉大社の西本宮(大比叡)・東本宮(小比叡)それぞれの主祭神だ。
伽藍の中心が「本堂」や「金堂」ではなく比叡山と同じ「根本中堂」と呼ばれるのは、比叡山とそこに準じる格式の中心的な寺院、他には最澄の直弟子・円仁(慈覚大師、第三世天台座主)が勅命で開山したとされ、東北地方における天台宗の布教と修行の中心になった山形の立石寺(山寺)などに限られる。左右の脇侍の月光菩薩・日光菩薩は、その立石寺根本中堂の秘仏本尊・薬師如来坐像の両脇侍を寛永寺の創建にあたって招いたものだ。立石寺の本尊は50年に一回だけ開帳される秘仏(前回は2013年)で、二体の菩薩像とも材木(カツラ材)や様式が共通し、同時に一具(ワンセット)として作られたものだと推定される。
両菩薩は平安時代中後期の洗練された曲線美の、穏便でバランスの取れた姿形が美しい左右対称をなす。逆にいうとその間に直立する寛永寺の本尊・薬師如来立像の特徴的な造形は、様式が異なることが素人目にも明らかで、だいたい両菩薩像は中尊の薬師如来と比べて明らかに大きすぎる。このアンバランスにも見える組み合わせは、美的な判断よりもそれぞれの仏像の由緒というか、最澄と円仁、伝教大師と慈覚大師という天台宗の起源に遡る権威が重要だったのだろう。
立石寺から寛永寺には併せて、やはり本尊と同時期に作られたと考えられる平安時代後期の十二神将像も迎えられた。十二神将は薬師如来を守護しその使いとなる眷属だ。こちらは上野戦争の際に炎上する根本中堂から救い出すことができずに焼失し、明治時代に再興された今の寛永寺の根本中堂(川越の喜多院から江戸時代建立の堂を移築して増改築したもの)でも、立石寺の根本中堂でも、今では江戸時代に作られた十二神将が秘仏本尊の厨子の左右を取り囲んで守護している。