天台宗と密教、その壮絶な厳しい修行と秘仏

画像: 重要文化財 不動明王坐像 平安時代・10世紀 滋賀・伊崎寺蔵 不動明王をはじめとする「明王」は、平安時代に密教と共に、最初は空海が日本に持ち込んだ新しい仏。この像は天台宗のもっとも有名な厳しい修行・千日回峰行を創始した相応(建立大師)ゆかりの寺の秘仏本尊で、相応が滝で修行していて感得した不動明王の姿に基づくとされ、空海が持ち込んだ不動明王の姿「弘法大師様」とは口元の牙がどちらも下顎から突き出ているところ(「弘法大師様」では左右で上下交互)や、結った髪の弁髪の先端の表現などが異なる。

重要文化財 不動明王坐像 平安時代・10世紀 滋賀・伊崎寺蔵
不動明王をはじめとする「明王」は、平安時代に密教と共に、最初は空海が日本に持ち込んだ新しい仏。この像は天台宗のもっとも有名な厳しい修行・千日回峰行を創始した相応(建立大師)ゆかりの寺の秘仏本尊で、相応が滝で修行していて感得した不動明王の姿に基づくとされ、空海が持ち込んだ不動明王の姿「弘法大師様」とは口元の牙がどちらも下顎から突き出ているところ(「弘法大師様」では左右で上下交互)や、結った髪の弁髪の先端の表現などが異なる。

最澄の法灯を継承した円仁と円珍によって本格的に密教が導入された天台宗や真言密教に秘仏が多いのは、「密教」の本質も関わってのことなのかも知れない。「密教」に対しそれ以前の仏教などを「顕教」と言い、「あきらかな」、つまり経典などに書かれたことで伝承されるのに対し、「密教」の「密」は「秘密」を意味する。

最澄と空海が遣唐使に随行して唐に渡った時代に、そこで最先端の仏教だったのが密教だ。密教には真言を唱えて仏を呼び出し、秘儀によってその仏と一体化し、現世の衆生を救うためのその仏の力を使う「修法」がある。だがこれを学んで日本に持ち帰ったのは、朝廷の命を受けた公式の留学僧だった最澄ではなく、渡航当時には無名に等しかった空海だった。密教には既存の仏教には含まれていなかったインド神話の神々なども新たに加えられていて、そうした不動明王などの新しい仏や曼荼羅も、まず空海が日本に持ち込んだものだ。

最澄は自分が唐で学べなかったその密教修法について空海に教えを請い、弟子の泰範を空海のいた神護寺に入門もさせている。現存する最澄の唯一の直筆書状である「尺牘(久隔帖)」(国宝・奈良国立博物館蔵)では、その神護寺にいた泰範に、空海について最澄が問い合わせている。

画像: 国宝 尺牘(久隔帖) 最澄筆 平安時代・弘仁4(813)年 奈良国立博物館蔵(京都・青蓮院伝来)【展示期間 10月12日(火)〜10月31日(日)※現在は展示終了】 最澄が神護寺の空海の元で学んでいた弟子の泰範に送った手紙で、現存する唯一の最澄の自筆書状。空海が最澄に送った詩への返礼を書くために、その詩の中にあった最澄の知らない書物について大意を問い合わせ、また梵字で書かれた『法華経』を入手したので空海にも見て欲しい、と書いている。三行目で空海を「大阿闍梨」と呼んでいるなど、最大限の敬意が払われていて、最澄の謙虚な人柄が感じられる。

国宝 尺牘(久隔帖) 最澄筆 平安時代・弘仁4(813)年 奈良国立博物館蔵(京都・青蓮院伝来)【展示期間 10月12日(火)〜10月31日(日)※現在は展示終了】
最澄が神護寺の空海の元で学んでいた弟子の泰範に送った手紙で、現存する唯一の最澄の自筆書状。空海が最澄に送った詩への返礼を書くために、その詩の中にあった最澄の知らない書物について大意を問い合わせ、また梵字で書かれた『法華経』を入手したので空海にも見て欲しい、と書いている。三行目で空海を「大阿闍梨」と呼んでいるなど、最大限の敬意が払われていて、最澄の謙虚な人柄が感じられる。

最澄は空海より七歳上で、朝廷の認めた公的な地位も上だったが、文面からはその空海に最澄が謙虚に振る舞い、空海の知識や教養を自分より優れているとさえ認め、最上級の敬意を欠かさなかった。なおその空海から最澄に送った書簡が、平安時代を代表する書の名手としても伝説的な空海の、天才的に大胆で美しく斬新な代表作「風信帖」(国宝・教王護国寺蔵)だ。

また最澄は、空海が唐から持ち帰った文物の詳細な目録を自ら丁寧に書写していて、空海の平安京における本拠だった東寺(教王護国寺)に伝来している(最澄筆「弘法大師請来目録」・国宝。九州国立博物館、京都国立博物館の巡回展で展示)。

誰もが悟りに到達して「成仏」できる可能性があると示す『法華経』をもっとも重視し、万民の救済を自らも志し、また朝廷からもその責務を託されていた最澄にとって、仏の持つ力を直接的に衆生の救済に使えるようになる密教の修法は、どうしても学びたいものだったのかも知れない。

だが空海にとっての根幹となる経典は『大日経』と『金剛頂経』で、密教はまず宇宙の構造をあきらかにした理論であって、全てが大日如来に帰結し、世界の全てが大日如来の体現する真理から派生していると考える体系的な世界観(それを図解化したのが曼荼羅)を理解することこそが本質と考えていたためか、最澄が「密教を第一」としていない、などとかなり手厳しい言葉も残している。

画像: 重要文化財 両界曼荼羅図 平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 大阪・四天王寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】 左が『金剛頂経』に基づく「金剛界」曼荼羅、右が『大日経』に基づく「胎蔵界」曼荼羅。世界の全てが大日如来から派生しているという密教の世界観を図像化したもので、日本には空海が持ち込み、まず真言宗で広まった。この両界曼荼羅は右の胎蔵界の一部の構成が真言宗の胎蔵界曼荼羅と異なり、天台宗の密教(「台密」)の曼荼羅の現存最古の作例。

重要文化財 両界曼荼羅図 平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 大阪・四天王寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は展示終了】
左が『金剛頂経』に基づく「金剛界」曼荼羅、右が『大日経』に基づく「胎蔵界」曼荼羅。世界の全てが大日如来から派生しているという密教の世界観を図像化したもので、日本には空海が持ち込み、まず真言宗で広まった。この両界曼荼羅は右の胎蔵界の一部の構成が真言宗の胎蔵界曼荼羅と異なり、天台宗の密教(「台密」)の曼荼羅の現存最古の作例。

密教の世界観では宇宙のすべてが大日如来に帰結し、大日如来を起点とする変化・転生・化身の体系で宇宙のすべてが理解される。この論理は一見明快だし、曼荼羅を見ればなんとなく分かったような気にまではなれるが、それを本質的に理解し受け入れるという意味での「悟り」への到達は…喩えていうなら密教は、現代科学のビッグバン理論のようなものかも知れない。宇宙の始まりの大爆発によって素粒子が生まれ、その素粒子がやがて原子を構成し…という基本理論はなんとなくは知っていても、それを本当に「理解」できるかと言えばニュートリノの役割や、物質・反物質の関係などなど未解明な部分も多い以前に、専門の研究者でもなければ、素粒子がそもそも目に見えないどころか観測自体が難しいとなると、実感として把握できる人はほとんどいないだろう。

密教で真言(仏の漢訳の呼称ではなく「真の名前」の意味で、サンスクリット語の発音に近い)を唱えて仏を呼び出し、秘儀によってその仏と一体化する修法となれば、ただなんとなく理屈を分かった気になるのではなく、心身共にその「真理」が体得されていなければ難しいはずだし、それはおいそれと「あきらか」な形、たとえば言葉の説明を読んで伝わるものでは決してない。現に天台宗でも真言宗でも、修法の最も肝心な、仏と一体化する秘儀の部分は口伝で、師から弟子へと「密かに」伝えられるだけなのが基本だ。

最澄が空海を尊重して謙虚であり続けたことにも最澄の人柄が見て取れるだろうし、そこまでして密教を学ぼうとしたところには、仏教についての根本的な思想が現れているのかも知れない。つまり仏教を突き詰めて新しい教えを追い求めるのは、最澄にとってはまず現実世界の人々と、ひいてはその世界のあらゆる生命(仏教用語で「衆生」)の救済のためであり、だから密教の修法をとても有効な救済の手段と考え、万民の救済のためにもぜひ学びたかったのではないか?

画像: 国宝 聖徳太子及び天台高僧像 十幅のうち 龍樹 平安時代・11世紀 兵庫・一乗寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は複製を展示】 インドの仏教僧・ナーガールジュナ。大乗仏教の創始者。「龍樹菩薩」とも呼ばれ、この絵では仏や菩薩のように蓮華座に座り、光背も描かれている。

国宝 聖徳太子及び天台高僧像 十幅のうち 龍樹 平安時代・11世紀 兵庫・一乗寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は複製を展示】
インドの仏教僧・ナーガールジュナ。大乗仏教の創始者。「龍樹菩薩」とも呼ばれ、この絵では仏や菩薩のように蓮華座に座り、光背も描かれている。

あらゆる生命が輪廻すると考える仏教では、たとえば釈迦は古代インド・シャカ国の王子ゴータマ・シッダールタとして生まれるまでに人間として7回も転生を繰り返し、前世ではたとえば飢えた虎の母子のために自ら身を投げて落命してその遺骸を食べさせるなどの善行を積んでいたとする説話がある。罪を重ね業が深ければ人として生まれ変わるのも難しいとされたため、逆に悟りに至り成仏できるのは一部の、前世で徳を重ねて生まれ変わった人間に限られる、という考えも生まれ、南都(奈良)仏教ではむしろ支配的だった。

だが最澄は『法華経』に基づき、誰もが現世での行い次第で悟りに到達して成仏する可能性があるはずだと考えた。いわゆる「大乗仏教」の思想だ。戒律では他者の救済に尽くすことこそが結果として悟りにもつながるという菩薩戒(大乗戒)をもっとも重んじ、既存の奈良の大寺院の戒壇に対して大乗戒(菩薩戒)を授ける新たな戒壇の設立を志し、嵯峨天皇の勅許で比叡山に戒壇院が設けられることへと繋がった。

そのような「大乗仏教」的な「菩薩心」を理念としていた最澄であれば、密教についても空海が奥義を極めたという「修法」を学び体得できれば、自分もまた仏の力で国とそれを統治する朝廷・天皇、その国に暮らす人々を現世の苦しみから救済することができる、と考えたのかも知れない。

最澄がまず空海から密教を学ぼうとしただけではなく、弟子の円仁もまた密教を学ぶべく遣唐使に随行して唐に渡って9年間も天台山と五台山、そして長安に学び、さらに空海の姪の息子に当たる最澄の孫弟子・円珍(智証大師)も唐に留学して密教の膨大な知識と文献を持ち帰り、こうして天台宗にも密教の秘儀が本格的に導入された(真言密教に対し「台密」と呼ばれる)。

画像: 国宝 聖徳太子及び天台高僧像 十幅のうち 善無畏 平安時代・11世紀 兵庫・一乗寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は複製を展示】 日本と中国で「善無畏」と呼ばれるのはインド・摩伽陀国の王シュバカラシンハ(637年 - 735年)のこと。反乱を平定して国内統治の安定を見届けて出家し、密教の研究に専念した。晩年は唐に移って密教を伝えて客死、天台宗だけでなく真言宗でも「真言八祖」の一人。その真摯に祈る姿に深い感銘を受けるこの絵では、守護神である毘沙門天(多聞天)が寄り添っている。

国宝 聖徳太子及び天台高僧像 十幅のうち 善無畏 平安時代・11世紀 兵庫・一乗寺蔵【展示期間 10月12日(火)〜11月7日(日)※現在は複製を展示】
日本と中国で「善無畏」と呼ばれるのはインド・摩伽陀国の王シュバカラシンハ(637年 - 735年)のこと。反乱を平定して国内統治の安定を見届けて出家し、密教の研究に専念した。晩年は唐に移って密教を伝えて客死、天台宗だけでなく真言宗でも「真言八祖」の一人。その真摯に祈る姿に深い感銘を受けるこの絵では、守護神である毘沙門天(多聞天)が寄り添っている。

円珍は第五代の天台座主になる前に、天智・天武・持統の三代の天皇がその神聖な泉(閼伽井)の水で産湯をつかったことから「三井寺」との通称でも知られる琵琶湖畔の古刹・園城寺の別当に任命され、復興に尽力し、密教の伝法灌頂の道場を置いた。

のちには円珍の系譜の寺門派と円仁の系譜の山門派の対立が激しくなり、山門派が比叡山をおさえ、園城寺は寺門派の本拠になった。この対立はなんと戦国時代にまで尾を引き、信長が比叡山を焼き討ちしたときの本陣は園城寺に置かれた。こうして破壊された比叡山の西塔・釈迦堂(転法輪堂)を、秀吉が今度は園城寺の金堂を強引に移築させることで再興、その後新たに再建された現在の園城寺の金堂は秀吉の正妻・おね(北政所)が寄進しているのは、ひどく複雑な歴史の因縁ではある。

画像: 重要文化財 相応和尚像 鎌倉時代・13世紀 滋賀・延暦寺蔵 回峰行を創始した建立大師相応の肖像。傍の高杯の上に密教宝具が、足下には草履が描かれている。

重要文化財 相応和尚像 鎌倉時代・13世紀 滋賀・延暦寺蔵
回峰行を創始した建立大師相応の肖像。傍の高杯の上に密教宝具が、足下には草履が描かれている。

そんな後代の因縁はともかく、円仁と円珍によって密教も本格的に導入された日本の天台宗の発展の中で、自らの身体をも痛めつけるほどの修行によって他者を救済できるだけの力を得るという天台宗の厳しい思想も生まれた。

なかでもよく知られているのが、円仁の弟子・相応(建立大師)が創始した「回峰行」、今日では7年がかりの「千日回峰行」がとくに有名だ。とにかく山の中をひたすら歩いては祈る苦行以上に、最も過酷なのが「堂入り」で、足かけ9日間、断食・断水・断眠・断臥、つまり不眠不休で横になることもなく、なにも食べず、水は一日一回深夜に聖なる井戸である閼伽井の水を口に含むだけで、ひたすら護摩の火を炊き不動明王の真言を唱え続ける。文字通り生命の危険もあるため、行者は入堂する前に万が一の時のため生前葬を済ますという。

滋賀県の伊崎寺は、その相応が創建した寺だ。寺伝によれば相応が滝の中で修行中に不動明王の姿を見て、その姿を一丈三尺の木を三つに分けて三体の像に刻み、そのうち一体を伊崎寺の創建に当たって本尊にしたという。他の二体のうち一体は比叡山中の修験道場・明王院の本尊になったと言われている(現在は先に写真を掲載した千手観音・毘沙門天・不動明王の三尊が本尊)。

画像: 重要文化財 不動明王坐像 平安時代・10世紀 滋賀・伊崎寺蔵 天台宗のもっとも有名な厳しい修行・回峰行を創始した相応(建立大師)ゆかりの寺の秘仏本尊で、相応が滝行の最中に感得した(つまり、自ら見た)不動明王の姿を写したとされる。

重要文化財 不動明王坐像 平安時代・10世紀 滋賀・伊崎寺蔵
天台宗のもっとも有名な厳しい修行・回峰行を創始した相応(建立大師)ゆかりの寺の秘仏本尊で、相応が滝行の最中に感得した(つまり、自ら見た)不動明王の姿を写したとされる。

実際には、この不動明王坐像は相応の生前より後の10世紀後半の作とみられるが、高僧が自ら見た不動明王の姿という由来から神聖視され、秘仏として大切に扱われて来たものまで、今回は展示されているのだ。不動明王とその視覚的表象も空海が日本に持ち込んだものだが、この像は牙や髪型に空海が伝えた「弘法大師様」の定型とは異なった表現が見られ、相応が自ら見た不動明王の姿だから異なっているというのは納得できる。

なお先に紹介した、元は善水寺にあってその本堂の、延暦寺の根本中堂と同じ構成だったと考えられている秘仏を囲む群像の一体だった能福寺の十一面観音菩薩立像も、普段は秘仏扱いだそうだ。

画像: 重要文化財 十一面観音菩薩立像 平安時代・10世紀 兵庫・能福寺蔵

重要文化財 十一面観音菩薩立像 平安時代・10世紀 兵庫・能福寺蔵

また東京国立博物館での展示では、京都の「真如堂」の通称で知られる真正極楽寺の、毎年11月5日から15日のみ開帳される秘仏の阿弥陀如来立像(重要文化財)が、10月19日から11月3日のあいだ展示された(※現在は展示終了)。慈覚大師円仁が女人成仏を祈って自ら彫ったと伝わり「うなずきの弥陀」として親しまれ、阿弥陀如来の立像としては日本で現存最古になる。のちの阿弥陀如来像で多い柔和でふくよかな造形とはいささか異なった、すっきりと端正な顔立ちが印象的だ。あえて現代風の俗っぽい言い方をしてしまうなら「憂いを帯びたイケメン」で、円仁が女人成仏のために彫ったという伝承が、いかにもふさわしく思える。

This article is a sponsored article by
''.