祖師への信仰と、平安時代の天台宗の重要な指導者の二体の秘仏
秘仏となっている仏像の中には、文字通りあまりに畏れ多いというか、目にすること自体が憚られるほどの重要な宗教的な意味があるものも多い。そんな中でもとりわけ畏れ多いと思わせる像までが、東京国立博物館で展示されている。
あまりに神聖で畏れ多いと言っても、仏や菩薩を表した像ではない。
滋賀県大津市の琵琶湖畔にある園城寺(三井寺)の円珍の住房跡は「唐院」と呼ばれ、円珍が唐から持ち帰った膨大な蔵書が納められ、僧侶が密教の秘儀の実践者となるための最重要の儀式「伝法灌頂」が行われるなど、園城寺の中でも特に神聖な道場だ。
その唐院の最も奥に、智証大師円珍を祀る大師堂がある。正面に灌頂の儀式が行われる灌頂堂が建てられ、大師堂は周囲を塀で囲まれているため、唐院が特別拝観で公開されている時でも建物そのものを見ることすら難しい。
その大師堂の内部には、円珍が感得した(つまり、自ら見た)という不動明王の姿を描いた絵(国宝 黄金不動明王画像、通称「黄不動尊」)と、二体の智証大師(円珍)坐像(「御骨大師」「中尊大師」、どちらも国宝)が、いずれも厳重な秘仏としてそれぞれ厨子に納められて祀られているという。
円珍は遺言で、自分に生き写しの像を作って自分の住居跡に安置すること、その胎内に自らの遺骨を納めるように命じた。その「御骨大師」と呼ばれる智証大師(円珍)坐像が、なんと東京に運ばれて展示されているのだ(国宝、滋賀・園城寺〈三井寺〉蔵)。
一木造り、つまり一本の材木から彫り出された像だが、ムクの状態ではなく内部がくり抜かれ、底部に蓋があることから、実際に円珍の遺骨が納められている可能性が高い。
仏教の歴史では、開祖の釈迦自身が長年の修行で悟りに到達して人間がブッダ(仏・如来)になって布教を始めた時から、自分が到達した「悟り」の中身の真理は誰にも言葉で伝えられるものではない、と明言している。釈迦が弟子たちに説いたのは、それぞれが悟りに至れるかも知れない道筋を示す、ヒントのようなものだけだ。
真理は直接に教えられるものではない、と釈迦が説いているからこそ、ならばその悟りに至った生き方を踏襲すれば自分も悟りに近づけるかも知れない、という考え方にもなり、仏教には過去の名僧・高僧の修行と生き方を手本とし、自らが学んでいる教義に至った歴史を振り返って歴史的な文脈に位置付ける伝統がある。寺院にはしばしば国宝「聖徳太子及び天台高僧像」(兵庫・一乗寺蔵)のような祖師像が納められて来たし、最澄が修行の場にそうした僧侶としての生き方の手本となる聖僧の仏像を必ず置くべきだと考え、またそうした聖僧を文殊菩薩の化身ともみなしていたのも先述の通りだ。
過去の実在の高僧が神聖視されて信仰対象となり、その像が仏像として崇拝されるのも天台宗に限ったことではない。真言宗では必ずと言っていいほど寺院に空海の像があり、たとえば東寺(教王護国寺)の空海の住房をお堂にした西院御影堂の本尊・弘法大師坐像(国宝)も秘仏で、毎朝早朝午前6時からの「生身供」のあいだだけ厨子が開かれる。禅宗寺院の仏殿には達磨大師やその寺院にゆかりの過去の高僧の像が本尊の向かって左側に置かれるのが通例だし、開山堂や高僧の塔所の塔頭にはその祖師像が安置され、そうした開山堂は非公開が多く、安置されているのはリアリズムを追求した、まさに生き写しのような像が少なくない。
そうは言っても「御骨大師」と呼ばれる智証大師(円珍)坐像はあまりに特殊な像で、それが安置されている大師堂そのものが、いわば円珍のお墓だ。なればこそ建物そのものが外から見えないほど厳重に守られているのも当然で、神社の本殿がなかなか直接には目に入らないように拝殿や塀で囲まれているのと同じようなことだろう。あまりに「畏れ多く」「罰当たり」になりかねない。
「御骨大師」像は頭部が上に向かってすぼまった独特な風貌で、小ぶりの目や鼻は顔の中央に集まっている。円珍の遺言の通りその姿を忠実に写し取った容貌なのだろう。その生き写しの像の内部に遺骨が納められているのなら、いわば「御骨大師」は円珍その人の分身のようなものというか、ほとんどその遺体と対面しているようなものだ。
こうした慣習は日本では珍しく思え、あまりに畏れ多くて違和感すらあり、だから「御骨大師」も厳格な秘仏とされ、園城寺の大師堂自体が近寄り難い場所にもなっているのだろうが、円珍が学んだ唐・中国の仏教には高僧の遺体そのものを漆で固めるなどした「肉身菩薩」がいくつも今も現存し、「文化が違う」と言ってしまえばそれまでではあろうが、秘仏のような扱いにもなっていない。
高僧の遺体を仏像とする「肉身菩薩」は、台湾や東南アジアなどでもかなり最近まで行われていた。もともとは儒教や神仙思想の影響で、徳の高い高僧は死後も遺体が腐敗しないという信仰があったようだ。文化大革命の時には、そんなのは迷信でニセモノに違いない、と紅衛兵が唐代の肉身菩薩像を解体すると、本当に内臓が出て来て驚いた、という逸話も残っているが、その紅衛兵が崇拝した毛沢東の遺体も人民大会堂で見えるように永久保存されているのだから、時代は変わっても人間の本質はそう変わらないのかも知れない。偶像崇拝が本来は禁止のキリスト教でも、ヨーロッパにはミイラ化した聖人の遺骸や聖人の遺骨とされる聖遺物が、ガラス越しに見られる形で教会に安置されている例が、とくにイタリアやスペイン、ポルトガルに多い。
よく考えれば日本の仏教でも、釈迦の遺骨の断片である仏舎利は、中世以降はしばしば金属製の舎利塔からガラスや水晶の舎利容器に移し替えられていて、そこでは明らかに「遺体の一部(遺骨)が見えること」が重視されている。実例のひとつが法隆寺の東院伽藍・舎利殿の「南無仏舎利」だが、その東院に太子所用として伝来した『梵網経』(東京国立博物館蔵・法隆寺献納宝物)には、見返しに革らしいものが貼られていて、聖徳太子が自らの手の皮を剥いでここに貼り付けた、と伝承されている。
唐招提寺の鑑真和上坐像(国宝)は、亡くなる直前に生き写しの像として製作されたものだが、もしかしたら唐から来日した鑑真もまた、そのような唐の仏教的な肉身菩薩像の意味合いで、この像を作らせたのかも知れない。大徳寺における一休宗純の塔所・真珠庵の本尊は生々しいまでにリアルな一休和尚坐像(重要文化財)で、無精髭まで表現されているが、この髭には一休の遺髪が植え込められているという。
なお東北地方には即身成仏した聖(ひじり)が安置された寺がいくつもあるが、これは自ら死を決っして激烈な断食苦行の末に自らの肉体をミイラ化するので、自然に亡くなった遺体を保存して仏像にするのとはいささか意味合いが異なり、むしろ回峰行の「堂入り」に通じるような、自らの厳しい犠牲によって他者を救済する証と考えるべきだろう。実際、現存する即身仏の多くは江戸時代、天保の大飢饉前後の聖たちだ。真言宗に多いのは空海が高野山奥の院で即身成仏して入定し今も生き続けているという信仰があることと関係しているが、史実では『続日本後紀』などの記録によれば空海は高野山で火葬されている。
園城寺唐院・大師堂のもう一体の智証大師(円珍)坐像「中尊大師」(国宝、九州国立博物館で展示予定)は、顔は「御骨大師」に酷似しているが、衣などの表現様式からみて「御骨大師」の1世紀ほど後、良源が第18世天台座主だった頃の作とみられる。園城寺の寺伝では元々は比叡山の山王院に安置されていたこの像が、山門派と寺門派の対立でここに移されたとある。大師堂ではなぜかこの「中尊大師」が中央の厨子に納められ、「御骨大師」は左の厨子に、円珍が感得した(つまり自ら見た)不動明王の姿を描いた「黄不動尊」の厨子と向き合うように安置されているそうだ。
今回出品されているもう一体の、高僧を表した秘仏は、その第18世天台座主の良源、慈恵大師の坐像だ。承平5(935)年の火災の甚大な被害からの比叡山の復興を成し遂げ、天台宗の中興の祖と讃えられる。亡くなったのが正月三日だったことから「元三大師」とも呼ばれ、最近では「おみくじ」の祖としてテレビなどで紹介されることも多い。
この慈恵大師(良源)坐像はすでに紹介した「深大寺の白鳳仏」こと飛鳥時代の釈迦如来倚像(国宝)がある東京都調布市の深大寺の、元三大師堂の奥深くに安置されている秘仏だ。開帳は50年に一回と定められ、寺の外での公開となると江戸時代・文化13(1816)年に江戸市中に運ばれて両国の回向院で出開帳が行われて以来、205年ぶりだというが、この像に驚かされるのは別にそんなことではない。
坐像でも高さが2m近い巨像で立てば4mほどだろうか、日本の実在の人物の肖像彫刻としては最大。しかしこの像を一目見るなり愕然とさせられのは、単にその大きさ故ではない。
カッと見開いた目に大ぶりな鼻と口、表情筋が盛り上がったような起伏の激しい顔の造形はとてもリアルというか、リアルを超えた異様な迫力すら持って見る者に迫り、語弊を恐れずに言えば異様ささえ感じてしまいそうで、高僧の像だと知らなければ、ある種のまがまがしさや恐怖さえ覚えるかも知れない。
良源は比叡山内では綱紀粛正を徹底し規律を高める改革を実行、対外的には優れた外交手腕を発揮して朝廷だけでなく有力貴族との関係を強化、比叡山の財政基盤も安定させたが、その実務家としての辣腕の政治力が、いつのまにか厄除けや防災の神通力をという信仰に転じたのだろうか? 鎌倉時代ごろからしばしば「厄除け」の現世利益を求めて祀られるようになり、江戸時代にはとりわけ盛んに信仰され、「厄除け元三大師」像は数から言えば最澄その人の像より多いかも知れない。他でもない深大寺もそうした実例で、幕末の慶応元(1865)年に大火災でほとんどの堂塔が焼失した後でも、本堂すら後回しでこの巨大な慈恵大師坐像を安置する元三大師堂が真っ先に、それも幕末の激動のさなか、明治維新の前年の慶応3(1867)年に再建されている。
「慈恵大師」という正式の諡号よりも厄除けの「元三大師」という呼び名の方が一般的かも知れない。天台宗で配られる厄除けの降魔札に描かれた、頭に角を生やした鬼のような絵も「角大師」と呼ばれる良源の姿で、家の玄関などに貼って魔性の物が家に入り込むことを防ぐという。また「角大師」には仏像もあり、「鬼大師」とも呼ばれる。
深大寺の巨大な慈恵大師(良源)坐像にも、胎内仏として5寸の「鬼大師」の小像が内部に納められていた。寺の説明では、この小像が作られて胎内に入れられたのは恐らく江戸時代で、飢饉か疫病の時ではないかという。文化13(1816)年の回向院での出開帳の際に胎内から取り出されて併せて公開され、その後は二重の厨子に封印されて厳重な秘仏とされて来たが、本展の期間中、深大寺で新型コロナ退散祈願の意味もあって特別公開されている(詳細はこちら)。
鬼の姿が胎内仏ということは、鬼こそが良源の本当の姿という意味にすら取られかねないが、先に紹介した鎌倉時代の『天狗草紙』の「延暦寺巻」の詞書には、良源についてなんと仏法の擁護のために魔界の棟梁となって天狗を従えた、ゆえにあらゆる天狗は延暦寺の配下にある、とまで書かれている。
まさか良源が焼失した比叡山の伽藍の復興資金を得るために貴族社会、とくに藤原氏を説き伏せたことの暗喩で藤原氏を指して「天狗」と言っているわけでもあるまいが、「厄除け」の神通力どころか天狗を従えた魔界の棟梁、鬼の姿になって魔界すら従わせて仏法の興隆に寄与させるとなれば、深大寺の巨大な元三大師の姿にまがまがしさや恐怖を感じるのも、あながち的外れで罰当たりではないのかも知れない。現に深大寺が胎内仏の「鬼大師」を開帳するのも、新型コロナ退散の祈りも込められている。
つまりは、良源に厄除けの現世利益を祈るのは「魔界の棟梁」だからこそで、この巨大な像が恐怖すら覚える威圧的な姿なのも、だからこそ厄除けどころか「魔」そのものをも追払う霊験があると信じられることが可能だったのではないか?
一方で厄除けの「角大師」の「降魔札」と対になって慈恵大師の小さな坐像を三十三体並べて刷った「豆大師」の「利生札」もある。三十三という数は観音菩薩が衆生を救うための三十三の化身を指し、元三大師自身が観音菩薩の生まれ変わりでもあるという。
深大寺の慈恵大師(良源)坐像は鎌倉時代に、「天狗草紙」より少し後の時代に作られたもののはずだ。当時の深大寺は鎌倉幕府に崇敬されその庇護を受け、源頼朝の甥がその別当に任じられた時期もあった。この巨像の製作にはその幕府が大きく関わっていたのかも知れず、圧倒的なリアルさというか、リアルを突き詰めてリアルを超えているが故のある種のまがまがしさは、そうした新興の武士勢力の価値観を反映したのだろうか?
いや、この異様なまでの迫力はむしろ、そうした武家の価値観すら超えた究極の庶民信仰的な、荒々しく野生的とすら言えそうな強靭さを感じさせずにはおかない。「天狗」となり角を生やし鬼にも変化すると同時に観音菩薩でもあるという、凡俗の善悪の観念を超えた「なにか」であることの人智を超えた強烈さがあってこそ、「厄除け」の霊力も信じられて来たのかも知れない。