「和を以って貴しとなす」
太子のイメージの歴史的な変化は、法隆寺以外では「摂政像」よりも中世の「二歳像・南無仏太子」や「十六歳像・孝養太子」が多く、つまり子供の姿の太子が仏として親しまれて来たこと、あるいは法隆寺では当初は本尊・釈迦三尊の釈迦如来が太子の等身大で分身として礼拝され、夢殿の建立で太子の分身像としての救世観音の信仰が確立し、平安時代には太子その人が仏像として表象されるようになり、現代では「唐本御影」に基づく一万円札の肖像が太子のイメージになったというような、視覚的な表象の変遷だけではない。
東院・絵殿にあった平安時代の「聖徳太子絵伝」は、中世に盛んに作られた高僧の生涯や寺社の由来を描いた縁起絵巻と同様、必ずしも史実・記録をそのまま絵画化したものではない。むろん「日本書紀」の記述を正確に描写したものでもなく、当時の信仰を反映した様々なフィクション的な要素もいろいろと入り込んでいる。いや太子が愛馬の黒駒にのって富士山の上空を駆けるなどの超自然的な描写も、現代人の我々だから「フィクション」「神話」と思うだけで、過去の人々にとっては「リアル」に感じられた物語だったはずだ。
なかでも印象に残るのは、太子が犬の喧嘩まで仲裁したというような、「和」をめぐるイメージが繰り返されていることだ。むろん「十七条憲法」の第一条、「和を以って貴しとなす」から派生した物語だろう。
この「十七条憲法」も、大山誠一名誉教授はその儒教論理が太子の当時より100年ほどのちに日本で普及したものと指摘し、太子の政治的業績を「『日本書紀』の創作」と断じる大きな根拠としている。確かに、本展でも木版印刷用の「十七条憲法」の版木が展示されているものの、これも鎌倉時代だ*。「日本書紀」以前に「十七条憲法」の文献的な根拠となるものは確かになく、内容の多くが太子の時代には「早過ぎる」というのも、中国思想の専門知識に乏しい筆者は「そうなのかも知れない」としか言えない。
*またかなり摩耗した版木であることから、鎌倉時代には「十七条憲法」がかなり大量に印刷されて広められるニーズがあったとも推論できる。それだけ太子が説いた道徳律は幅広い階層に受け入れられていたのだろう。
だがそれでも、第一条のもっとも重要な一文「和を以って貴しとなす」だけは、太子のオリジナルであってもおかしくないのではないか?
太子が参加した最初の政治的大事件は、蘇我氏と物部氏の血を血で洗う、同じ天皇家の一族が蘇我系と物部系に分かれて争った皇位継承をめぐる内戦だった。
太子と推古天皇がこの世を去った後にも皇位継承をめぐって争いが起こり、巻き込まれた山背王が非業の死を遂げ、太子の血統は滅亡する。太子は母方が蘇我氏で妃の刀自古郎女も蘇我氏の出身、山背王と蘇我入鹿は血縁関係の近親どうしだった。
太子の時代、まだ「倭国」だった頃の古代の日本では、天皇が崩御するたびにその位の継承をめぐって内乱が頻発し、白村江の戦いで惨敗するまでは、たびたび朝鮮半島の戦乱にも主体的に介入して来た。蘇我氏は中大兄王に滅ぼされ、「日本書紀」が編纂された天武・持統朝は、天武天皇が兄・中大兄王=天智天皇の息子・大友皇子(妻の持統天皇にとっては兄)を滅ぼした「壬申の乱」を経て成立している。この点では、大山誠一教授が「聖徳太子」が「日本書紀」で創作された可能性の動機として推論していることにも、説得力はある。「皇太子」の制度、つまり天皇の在位中に次の天皇を決めておくこと、その決め方も血縁と直系の親等に基づきルール化することで内乱を防止するという新たな制度の正当化のために、実はその制度がなかった推古天皇の時代に厩戸王がその「皇太子」に指名され、優れた政治を行って国が平和に治った、という物語が必要だったというのだ。
だがそれが理由なら、逆に「十七条憲法」の第一条が「創作」である必然はない。むしろ太子自身が天皇家の血縁・親戚どうしが争う悲劇と悲惨な内乱を自ら体験してから政治的な地位を得たのであれば、17歳だった太子がその時にもっとも望んだのは平和だったろうし、その太子が内乱を防ごうとして「和を以って貴し」と説いたとしても、それは少年として体験した悲劇への心の叫びが生んだ、心からの真摯な願いだったのではないか?
聖徳太子と日本人が歩んで来た1400年の歴史のほとんどの期間において、太子が尊敬され愛されて来たのはなによりもまず仏教の信仰対象として、もっとも身近で親しみすら感じる「仏」としてだったことは、この展覧会の前半を見ての通りだ。
だが近代に入り我々の社会生活に宗教が占める位置が低下する中で、今では「和を以って貴し」こそが日本人にとって最も重要な太子のイメージだろう。そして仏教が介在するかどうかを除けば、同じ思いは太子を愛し続けて来た日本人の歴史の中に生き続けて来たのかも知れないし、また特に中世に入り仏教が貴族階級から大衆も含んだ信仰に変化して以降、太子はまさに庶民階級の人々も平和のイメージとして心から愛せる存在だったからこそ、幼児や少年の姿の愛らしい太子像が重要になったのかも知れない。
逆に明治以降、近代国家としての日本における太子のイメージには宗教色を取り除いた、大人の政治家としての太子が最も重要になり、だから宗教的な図像として定着した「水鏡御影」ではなく「唐本御影」に基づく摂政のイメージが行き渡ったのかも知れない。
その明治以降の戦前や、戦後の筆者の世代ですら、聖徳太子の業績として学校教育でもっとも強調されていたのが、小野妹子を遣隋使として派遣したことだ。
隋の皇帝・煬帝に宛てた国書の書き出し「日出づる処の天子」は人気の漫画の題名になるほど定着し、続けて煬帝を「日没する処の天子」と呼んでいることが新興の小国・日本が中国の大帝国・隋と渡り合った「対等外交」の記念碑的な証拠、まるで日本の独立宣言であるかのように教わって来た。
小野妹子の派遣は「聖徳太子絵伝」でも描かれている。それどころか、この絵伝の画面構成が物語の時代順・時系列ではなく大和地方から大阪、果ては中国までの地理に基づいているため、左端・最後のクライマックスに描かれているのは中国・隋帝国を旅する妹子だ。
だが驚くことに、この絵伝の物語の中で小野妹子は「遣隋使」、つまり国の公式外交使節ではない。
仏教の輪廻転生に基づき、絵伝では太子は前世では中国で仏教の修行者だったことになっている。そこで前世に自分が手許に置いて大事にしていた法華経の経巻を、中国で探して欲しい、というのが太子が妹子を隋に派遣した理由なのだ。妹子は無事その経巻を見つけ、太子の元に持ち帰る。
絵伝が描かれた平安時代後期には、朝廷はとっくに遣唐使を廃止していたし、隋に代わって一時は世界史上最大の帝国として繁栄を極めた唐も滅亡していた。平清盛の日宋貿易まで、東アジア外交は日本の政治にとって重要な案件ではなく、だから遣隋使の派遣がそこまで重要な太子の業績とは思われていなかったとしても不思議ではない。
逆に近代以降「日出処天子至書日没処天子無恙云々(日出づる国の天子、書を日没する国の天使に致す、つつがなきや)」という国書の文言がとりわけ強調されたのには、日本の近代的なナショナリズムの勃興という文脈の中で欧米列強に対して「対等外交を」という国家イデオロギー的な理由があったことにも気付かされる。
時代や立場、視点が変わると見えるものも変わる、という極めてシンプルで即物的な実例として、最後に「聖徳太子絵伝」が飾られていた絵殿に長らく本尊像として安置されて来た「夢違観音」に触れておきたい。
個人的には法隆寺のもっとも美しい仏像だと思う、とても端正な銅造の観音像だ。
現在の絵殿にはめられているのは江戸時代の模写で、オリジナルの「聖徳太子絵伝」は明治時代に皇室に献納されたため、「夢違観音」が「聖徳太子絵伝」の前に置かれるのは模写への差し替えが皇室への献納後だったとしても百数十年、模写が描かれてすぐだったのなら二〜三百年以来の再現となる。これが実現するのは奈良国立博物館での展示だけなので、ぜひにも見逃せないところだ。
もっとも、「夢違観音」自体は太子の時代のいわゆる「止利仏師様式」ではなく、つまり太子の生前よりは数十年後の作かもしれないとしても、それでも飛鳥時代の仏像だ。平安時代の「聖徳太子絵伝」の400年ほど前で、東院の成立と比べてもまた違った時代になる。だがこうして時代を超えた組み合わせ自体がそのまま、法隆寺の歴史なのだ。
本展のチラシやポスターも含めて、この像の写真は真正面から撮ったものが多い。博物館でも立ったまま見るとほぼ同じ目線の高さになるが、すると肩が極端に撫で肩で、いささか不自然に顎を少し前に突き出したような、猫背の姿勢に見える。
それがこの像の様式だと言われればまたそれなりの美しさは見出せるのだろうが正直、それだけなら「端正な」「法隆寺でもっとも美しいかもしれない」とは形容しない。
だがそこで、以前に法隆寺の大宝蔵院で仏像の見方について係員の人に「本当は見上げて拝むように作られているんだよ」と教わったことを思い出した。それに本展の後半・第5章の金堂の薬師如来坐像の大きな台座をみても、今回は展覧会なので薬師如来は膝の上の衣の様式化されたパターンも見られるようやや低めの位置で展示されているが、高い台座に載せられている金堂では膝の上はこちらが立っていても見えない。まして古代の人々が金堂を礼拝する時には外からかで、金堂の礎石の上(今の裳階の内側)でもそこに座って祈れば目線は遥かに低くなり、見上げる視点になったはずだ。
鎌倉時代の建立の絵殿は床が張られた仏堂だが、やはり拝礼したり法要を行う時にはその床に座り、本尊像を見上げる姿勢になるだろう。そこで「夢違観音」を見上げて拝むちょうどいい位置を探し、目が合いそうな角度から見てみる。
するとどうだろう。肩のラインも顔の位置も自然で、すべてが絶妙に端正なバランスを形成する。その立ち姿は端正で、スラリとした立ち姿ながらふくよかでたおやかなすべてが、あまりにも美しい。
聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」
会期 令和3年(2021)4月27日(火)~6月20日(日)
前期:4月27日(火)~5月23日(日)
後期:5月25日(火)~6月20日(日)
会場 奈良国立博物館 東・西新館(奈良公園内)
〒630-8213 奈良市登大路町50番地
* 近鉄奈良駅から登大路を東へ徒歩約15分
* JR奈良駅または近鉄奈良駅から市内循環バス外回り「氷室神社・国立博物館」バス停下車すぐ
休館日 毎週月曜日(休日の場合はその翌日、連休の場合は最終日の翌日)
開館時間 午前9時30分~午後5時(土曜は午後7時まで)※ 入館は閉館の30分前まで
公式サイト https://tsumugu.yomiuri.co.jp/horyuji2021/ お問合せ 050-5542-8600(ハローダイヤル)
観覧料金 本展は、新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡大防止のため、事前予約<優先>制を導入します。「前売日時指定券」をお持ちの方は優先的に入館できますので、ご来館前にお求めください。混雑緩和のため、入場時間は1時間ごとに区切り、その時間枠内にご入場いただきます。
予約不要の「当日券」を会場にて若干数ご用意しますが、「前売日時指定券」をお持ちの方の入場を優先いたしますので、あらかじめご了承ください。
一般 | 1,800円 | 2,000円 |
高大生 | 1,200円 | 1,400円 |
小中生 | 300円 | 500円 |
- 「前売日時指定券」は、ローソンチケット[Lコード:4/27(火)~5/23(日)分 57100、5/25(火)~6/20(日)分 57200]でのみ取扱い、ローソンおよびミニストップ各店舗、電話(自動音声0570-000-034)、インターネット(https://l-tike.com/horyuji2021/)で、ご観覧日前日までお求めいただけます。購入後の日時変更および払い戻しはできません。いずれも数量限定、なくなり次第終了します。詳細は本展公式サイトなどでご確認ください。
- 障害者手帳またはミライロID(スマートフォン向け障害者手帳アプリ)をお持ちの方(介護者1名を含む)、奈良博プレミアムカード会員の方(1回目及び2回目の観覧)は無料ですが、「前売日時指定券(無料)」もしくは「当日券(無料)」の発券が必要です(要証明)。なお、未就学児の方は「前売日時指定券(無料)」および「当日券(無料)」の発券は不要です。
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- 団体料金の設定はありません。
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- 本展の観覧券で、名品展(なら仏像館・青銅器館)もご覧になれます。
緊急事態宣言発令期間中の前売日時指定券の扱いについて
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主催 奈良国立博物館 法隆寺 読売新聞社 NHK奈良放送局 NHKエンタープライズ近畿 文化庁
特別協賛 キヤノン JR東日本 日本たばこ産業 三井不動産 三菱地所 明治ホールディングス
協賛 清水建設 髙島屋 竹中工務店 三井住友銀行 三菱商事
協力 NISSHA 非破壊検査 奈良県 日本香堂 仏教美術協会