太子にはじまる法隆寺の高度な美の歴史
「止利仏師様式」に強固な美意識の完成を見た飛鳥時代・法隆寺の仏教美術は、やがて「止利仏師様式」の完成形からさらに発展して、そこから離れたさらなる美の展開を見せる。そこには銅造の「止利仏師様式」の釈迦三尊像と薬師如来坐像の具現化のために必要だった高度な銅の鋳造技術の、さらなる進歩もあったようだ。
とりわけ特筆すべき傑出した作例が、聖武天皇の妻・光明皇后の母で、聖武天皇の側近・橘諸兄の母でもあり(光明皇后は藤原不比等の娘なので異母兄)、聖武帝の乳母でもあった橘三千代が、その念持仏を法隆寺に奉納したと伝わる銅造の阿弥陀三尊だ。
この仏の姿は「止利仏師様式」からひと時代進み、中国・唐時代の影響を受けて丸みのある太めでふくよかな体系の、ゆったりとして華やかなスタイルだ。透かし彫りの光背は、全面に菩薩の姿を浮き彫りにした背景の板から浮き上がっていて、これは極細で曲線を描く銅で軽やかで優雅に、さりげなく固定されている。
如来の衣は緩やかな、シンプルな曲線で表現されながらそのシャープさが際立つ。この細部に至るまで徹底した美意識で作り込まれた像はワンセットの木製の厨子の中に納められるもので、銅造の三尊像を間近に、細部までじっくり見ることができる機会は稀だ。
この厨子は今では通常、法隆寺の宝物館である大宝蔵院に展示されているが、かつては金堂の北面に、「玉虫厨子」や「百済観音」と並んで安置されていた。
その橘三千代の子供たちの時代の奈良時代になると、太子の旧居・斑鳩宮の跡が荒廃していたのを嘆いた高僧・行信が、聖武天皇に願い出てそこに太子の菩提を弔う八角円堂の夢殿を建立、法隆寺の東院伽藍を創建する。奈良時代の特有の乾漆の仏像の代表的な作例である行信の脱活乾漆の肖像彫刻と、木芯乾漆の阿弥陀三尊像も東院にあり、今回展示されている。
特に阿弥陀三尊像は通常非公開の伝法堂に安置されているため、今回は見ることができる極めて貴重な機会だ。
考えてみると斑鳩の法隆寺は不思議な場所だ。
太子の生前でさえ「上宮」とも呼ばれた斑鳩宮は、推古天皇の朝廷が置かれた飛鳥から20Kmほど離れている。奈良時代になるとその飛鳥にあった飛鳥寺・法興寺は平城京の東に移転して元興寺になり、藤原京に天武天皇・持統天皇が開いた薬師寺も平城京の西に移転しているが、法隆寺はそのまま斑鳩にありながら、夢殿や、藤原不比等の菩提を弔う八角円堂の西円堂が創建されているのを見ても、当時の天皇家や藤原氏の庇護と崇敬が大きかったことは明らかだろう。
平安時代になると、京都から斑鳩へは地理的にはさらに遠くなる。それでもこの時代には西院伽藍の講堂が建て直され、合わせて元は回廊の外側にあった講堂を回廊と直結させるための改造・増築が行われ、鼓楼・鐘楼も建てる大工事が行われる。奈良時代の僧坊・東室を改造した聖霊院の創建も平安時代で、太子の500年遠忌に造立された秘仏・聖徳太子および四侍者像が平安後期の傑作であるのをはじめ、300年続いた平安時代のそれぞれの時期を代表するような仏像が数多くあることからも、法隆寺が一貫して朝廷にとっても重要な寺院であり続けたのだろう。
一方でその平安時代には、空海が日本にもたらした密教が法隆寺の教義と信仰にも大きな影響を与え、密教化も進んだ。
太子への信仰も密教の世界観の文脈で理論化され、密教から派生して日本の古来のカミ信仰を仏教の理論体系に組み込んだ「本地垂迹説」(日本のカミガミが日本人の救済のために仏が姿を変えた化身・権現である、とする信仰)によって、太子が観音菩薩の化身・転生とみなす信仰が、太子の本地仏を如意輪観音とすることで確立した。