皇室秘蔵の聖徳太子の直筆文書、「法華義疏」が公開
明治以降の近代でこそあまり知られていないが、日本の歴史の中で最も重視されて来た太子の業績のひとつに、『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の三つの経典を、先行解釈を踏まえながら自らの思想・見解を発展させた注釈解説『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)がある。
明治以降でこそ「摂政」、政治家としての「十七条憲法」「冠位十二階」「遣隋使」の派遣などの政治的業績が太子に結びつけられるようになったが、それ以前の日本史の中での聖徳太子の重要性は、なによりも仏教史上の偉人の知的・道徳的なスーパーマンとしてだ。仏教伝来から100年と立ってない時代に難解で長大な経典を完璧に読みこなした『三経義疏』は、その太子の並外れた知性を象徴するものだ。
そのうち「法華経」を解釈した『法華義疏』(ほっけぎしょ)は、太子の直筆とされるものが伝わっている。後代の書写が「太子直筆」と誤ってそうみなされているのならともかく、これが「本物」であれば「非実在説」は一気に覆る。
法隆寺から明治時代に皇室に献納された寺宝の多くは、のちに大部分が国有財産に所管が移されて戦後は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館所蔵になっているが、「御物」のまま皇室で秘蔵されて来た数少ない宝物のうち2点、この直筆と伝わる『法華義疏』が展覧会の前期(8月9日まで)に、「唐本御影」と呼ばれ紙幣の聖徳太子のモデルにもなった奈良時代の「聖徳太子二王子像」が後期に展示される。
皇室の御物なので撮影は厳禁、よって文章での説明のみとするが、これまで研究者でもめったに見られず、せめて写真複写を検討するのがほとんどだっただろう。それが今回は公開され、その現物をじっくり見ると、素人目にも…
「これどう考えても本物でしょ…。なんだったの『非実在説』って?」
…と、ほとんどの人は納得するに違いない。
なにしろ太子直筆と伝わるこの『法華義疏』、見るからに草稿なのだ。
丁寧で几帳面、繊細で知的ながら勢いのある、丸みを帯びた古風な書体で書かれた文章には、あちこちに一文字二文字と後から書き足した訂正が見られる。
つまり明らかに、人に読ませたり公式に保存するための清書ではない。
ただし間違いを後から墨で塗りつぶしたり、線で消した箇所はまったくなく、とても綺麗で端正で、十分に他人に見せられるものだ。草稿であっても他人が読んでも不自由がないであろう気遣いに、几帳面で論理的、かつ強い美意識を持った書き手の性格が垣間見える。
そうは言っても、推敲に推敲を重ねた草稿であることは明らかだ。
実は訂正箇所を塗りつぶす代わりに、あちこちで行の太さに合わせて細く切った別紙を貼り付けて、上から丸ごと書き直している。現代風に言えば修正テープみたいなもので、3行にわたって丁寧に別紙を貼って書き直した部分もある。
こうした几帳面な推敲の痕は、写真複写では目立たないかも知れないが、現物は紙の書物であっても立体として見ることになるだけに、かなり凸凹になっているのが否応なく目に付く。丁寧な作業とは言っても専門の職人の作業ではないのは明らかで、糊もそんなに上質なものではないと思われる。もしかしたら…というか恐らくは、書いた本人が自分でやった作業ではないのか?
この時代にはカナ文字はまだなかったので日本語をそのまま記述する習慣はなく、『法華義疏』も漢文つまり中国語で書かれているのだが、言語学的に言えば誤りもある。文法構造が異なる日本語と中国語では、動詞の位置などの語順がかなり異なるはずが、『法華義疏』では中国から伝わった解釈の引用は漢文なのが、筆者自身の考えを書いた部分では語順が日本語の順番のままで、漢文としては不完全で誤った箇所がある。中学で習った「漢文」の「レ点」や「一、二点」を思い出して頂けば、それがないまま日本語で読み下しができてしまう擬似漢文で、どちらかと言えば日本語を漢字で表記している文章のようなもの、と言うことだ。
つまりは、日本人が書いたものなのも間違いない。
この『法華義疏』の草稿を見れば、仏教伝来からまもない推古天皇の時代にすでに、難解で長大な『法華経』についてしっかりと海外の先行文献を踏まえつつ、なおかつ自分の試作で独自で高度な解釈に到達してそれを文章化できる、知的に極めて有能なだけでなく宗教思想の本質に通じ、しかも几帳面で美意識も高い、知的・道徳的なスーパーマンの天才思想家・仏教学者がいたことは、間違いないだろう。
それでも「別人かも知れない」とか「名もない学僧」とか主張することも、論理的に、というか机上の空論としては不可能ではないが、ならばなぜ清書ではなく草稿がわざわざこうして伝来して来たのかの説明がつかない。
太子についての同時代史料がほとんどないのも、紙が貴重品だったからだ。まして草稿であれば裏面を使ったり表面を剥がして再利用するのが、ずっと時代の下った平安時代でも当たり前だ。なのに『法華義疏』はわざわざ草稿が残され、シンプルな紙の裏打ちこそされているものの正式な表装などもされないまま、ほぼ元の書かれた状態のままで、紙を糊で貼り付けた修正部分も職人が貼り直して整えたりすることもなく、なるべくありのままの状態で斑鳩寺・法隆寺で丁寧に保存されて来た。
これは書き手本人が信仰対象であり、その手に触れた紙、その直筆の文字、加筆訂正とそこに浮かび上がる思考のプロセスまでも含めて、そのまま遺す宗教的な必要性があったと考えるのが、もっとも自然ではないのか?
それでも『日本書紀』には書かれていない別人がいたのだ、などと言い張るのはさすがに無理があり過ぎる。この『法華義疏』を書いた人物、つまりは「聖徳太子」は確かに実在したのでないと、辻褄が合わない。