宗教の「戒律」は現代の世界になおアクチュアルな問題
しかも学校の日本史では、その律令の確立期に鑑真が日本に伝えたのも、正式に僧侶になる資格というのが仏教の「戒律」を守ること、あたかも権威主義的な杓子定規の「ルールを守る」であるかのように教わる。そんな文脈で厳しいルールを与えられた正式の僧侶が増え、名目だけの出家で自堕落な生活に走る者がいなくなってめでたしめでたし、などと言われても、なんだか「上から目線」で薄っぺらにしか見えない。
仏教の戒律には一般に知られているところだと、殺生戒つまり殺人だけでなくあらゆる生命を奪うことの禁止、それに関連して肉食の禁止、飲酒の禁止などがある。
異性間の性的交渉の禁止もよく知られているが、これは性それ自体を罪や悪とみなしているわけではない。釈迦自身が出自は王子で、出家する際に妊娠していた妻との関係を断たなければならず深く悲しんだ(息子の羅睺羅は成長して釈迦の弟子になっている)ことから、恋人や家族への愛情が執着となって修行や悟りの「解脱」の妨げになる、というのが本来の考えだ。
また仏教の戒律にはこうした禁止やタブーの他に、修行者集団の共同生活の運営に関わるさまざまなルールなども含まれる。
一見常識的で良識的だったり、もっともらしく思える道徳律でも、今日の世界ではそうした宗教的な戒律がタブーの排除と差別に結びつき、かつての保守主義勢力が今や不寛容な方向に過激化するモチベーションになってしまっているのも現実だ。宗教原理主義を標榜する政治運動が今日では欧米やイスラム圏、それにインドでもヘイトクライムやテロ事件まで引き起こしているだけではない。欧米では、かつてはまっとうな保守政党だったアメリカ共和党や、さらには新興の極右政党の、たとえばポーランドの現政権与党「法と正義」やドイツの「ドイツのための選択肢」が、民主主義と法の支配の平等主義を覆す、専制主義的で差別的で不寛容な独裁の方向にどんどん走り、社会の分断を煽りながら、スローガンとしてはそのほとんどが「法と秩序」を唱えている。
たとえば昨年のアメリカ大統領選挙の直前にドナルド・トランプが連邦最高裁判事に強行指名したエイミー・コニー・バレットは敬虔なカトリック法学者を自認し、最高裁がすでに憲法上の権利と判断している同性婚は神の摂理に反するとして反対、妊娠中絶だけでなく避妊そのものを禁忌とみなしているので本人はやたら子沢山で、イエスは非暴力と敵対する者への赦しを説いたはずが「自衛のため」の銃の私有を断固支持、さらにはカトリックとして死刑は存続すべきだとまで主張している(ヴァチカンではヨハネ=パウロ2世が死刑反対の立場を表明)。さすがに公言はしないものの、白人とそれ以外の人種の肌の色の違いは神が優劣として創造したものだと信じている節すらある(南北戦争末期にリンカーン大統領が人種間の平等と奴隷労働の禁止を定める憲法修正第13条を議会に通そうとした時に、野党が大真面目に主張した理論)。
なにも欧米や中南米のキリスト教原理主義(ユダヤ人やイスラム教徒、同性愛者を殺傷するヘイトクライムが頻発し、アメリカでは妊娠中絶を引き受ける医師の暗殺まで起こっている)やカトリック教会の不寛容(新教皇フランシスコの下で改革が期待されたヴァチカンだが、教皇が個人的に表明して来た信条に反して、同性婚ついて公的な立場は変えていない一方で、司祭による性的虐待の追及は不徹底なまま)、21世紀の初めに大規模テロ事件をいくつも引き起こしたイスラム主義武装集団や、インドで頻発するヒンドゥー原理主義によるジャーナリストや学生活動家の暗殺事件など(なお極右ヒンドゥー原理主義は現モディ政権の岩盤支持層)の問題だけではない。
より広範に「ルールを守ること」のうわべだけの押し付けや、守るべきルールの恣意的で身勝手な解釈の問題として捉えれば、我々の日本社会も、決して無縁ではないだろう。
折しもの現在進行形のコロナ禍では、感染防護をめぐる新たなルールがさまざまな混乱を引き起こしている。推奨されているような感染防護策は、自分を守るためでなく自分が他人を感染させないためにも大切だ。しかし匿名の「自粛警察」が猛威を奮い、運悪く感染してしまった人たちが「ルールを守らなかった」的に非難されたりしているのは、さすがにどうなのだろうか?
これでは感染した人は責められ差別され責め立てられることを恐れなければならなくなり、だから疑いがあっても検査を受けないという人すら少なくない。その一方で、感染リスクがどうしても高まる医療従事者やその家族までが、差別対象にされている。
「緊急事態宣言」と言っても国民が「自粛」を「お願い」「要請」されるだけだし、今度はより緩やからしい「蔓延防止等重点措置」が出たら、飲食店に「要請」される中身は「緊急事態」より厳しいのだから、なにが守るべき「ルール」なのかもわけが分からなくなって来る。法律は確かに緊急事態宣言などの私権の制限について慎重な対応を政府に求めているが、それを言い訳に感染の押さえ込みに消極的な一部政治家が「経済が止まる」などと脅しをかけているのは、どうなのだろうか?
政府は感染症対策に限っては一人称複数の「やりましょう」ではなく「お願い」と、妙に他人行儀が漂う低姿勢に徹するが、同じ政府がパンデミック以前にはなにかと「法治国家」を口にしてはたぶんに差別主義的な厳罰主義を唱え、元から極端に排外的な法制度に基づいて在日外国人を犯罪者呼ばわりしたり、生活困窮者への福祉政策を切り捨たり、十分な議論や説明もなく政府方針への国民の服従を暗に求めて来たりはしていなかったか?
憲法の遵守が政府の義務であるはずなのに、その憲法が「時代に合ってない」と言い張って、改憲を政争の具や求心力維持の手段にしていたり、なのに多くの国民もそんな「改憲」議論にさしたる疑問すら抱かず、憲法なんだからそう簡単に変えたりねじ曲げるべきではない、という当然の「ルールの尊重」が白い目で見られがちだ。
本来の「ルールを守ること」の意味があまりに軽んじられ、混乱しきってはいないだろうか?
その憲法でも、感染を広げないためであれば「公共の福祉」を根拠に一定の私権の制限はできるはずなのに、マスクの着用もあくまで「お願い」で義務ではないという。そこで停車中の電車でマスクを着用しない乗客が延々と大声でごね続けてダイヤが大幅に乱れる、という「事件」もあった。ちなみに公共交通機関といえども鉄道会社は私企業であり、独自の判断でマスク着用の義務づけはできる。ただもちろん、政府が決定した方が効果があるのは当然だし、飲食店いじめや病院への圧力にしか見えない「特措法改正」をやるのなら、この程度の強制力は担保できる法整備だってやっていいのではないか? さらにはマスクなしで公園でピクニック的なイベントがネット上で呼びかけられて大騒ぎにまでなったそうだ。
そのマスクの着用も、世論調査で訊いてみれば、国民の多くが着用する理由は「人目が気になる」だというのは、それで本当にいいのだろうか? いやあくまで、自分がもし感染していたら他人を感染から守り、自分が他人から感染することから守るための、マスクのはずだ。
あるいは、喫煙が自分の健康を損なうだけでなく副流煙で他人にガンや動脈硬化も引き起こすことからも、禁煙や分煙の励行は明らかに正しい。しかしそれでも、路上喫煙禁止のポスターの標語が「マナーからルールへ」だったのには、首を傾げざるを得ない。
学校では「ブラック校則」がしばしば問題になっても必ず一定数の「ルールなんだからまず守ってから意見を言え」という声が反論として上がる。いや、合理性のない誤ったルールなら変えるべきだし、一方できちっと正論が論理立って書かれた憲法であれば、そう安易に変えていいはずがない。なのに憲法によって自分たちの権限が制約され遵守義務を課されている側が、みだりに「時代に合ってないから改正」とは、いったいどういうことなのだろうか?
鑑真について、ついこないだまで(この展覧会まで)無視されがちだった来日した理由とその精神的な遺産の重みは、1200年以上前のことであっても、今もアクチュアルな問題であり続けている。
「自粛警察」の現代日本から1300年近くを遡って、鑑真の生涯が問う「ルールを守る」ことの意味
鑑真が説いた「戒律」であれば、「梵網経」など経典に書かれている。聖典なのだからさまざまな解釈こそあり得るものの、文面そのものを変えたりはできない。「時代に合わない」などの疑問にぶつかれば、よりテクストを深く読み込んでじっくり考えるしかないし、のちの親鸞や一休宗純のように「破戒僧」を表明するのでも、ならば然るべき覚悟と、それを主張できるだけの信仰と思考体系が必要だった。
この特別展が見せているのは、その時代時代の真剣な試行錯誤と思索の歴史そのものでもある。
「戒律」を誠実に守るにせよ、あえて「破戒」を唱えるにせよ、仏教はいわば「お釈迦様の遺した修行マニュアル」である「戒律」と切っても切れない関係があってこそ発展し、成熟して来た。なにしろ釈尊によれば、自分の到達した「悟り」の真理は、言葉で他人に伝えられるものではないという。言葉で説明できるのは間接的なものごとに過ぎず、それぞれの修行者が自ら真理に到達するしかないからこそ、そのための修行の道筋が、「戒律」によって示されている、というのが基本的な論理だ。
ある意味、「公共の福祉」を論拠に、社会を維持するためにこれだけはやってはいけないことはネガティブ・リストとして挙げてその処罰を法律で定め、それ以外の行動は個々人の自由意志に任されてそれぞれの良心に基づき幸福を追求する、という近代の「法の支配」の基本論理に、どこか共通する論理構成でもある。
だがそうした「法治国家」であるはずの日本の実際はどうだろう?
痴漢防止の啓発ポスターで、マンガで痴漢を目撃した人々が「許せない」「犯罪だ」と叫んでいるものがあった。はて? 痴漢行為は被害女性の心身に深い傷を与えるからこそ許せないのであって、「犯罪だから許せない」のでも結果として同じような抑止効果はあるのかも知れないが、なにかが本質的に間違ってはいないか?
釈迦の思想では「戒律」は悟りに至る道筋を示すだけで、守っていれば「悟り」に到達できるわけではない。近代法治では正義は個々人の良心の自由から発するもので、法律をただ守っているだけで「正義」を標榜できるわけではないはずだ。
しかも痴漢などの性暴力・性被害では、逆に被害者への誹謗中傷も蔓延し、女性たちが声をあげられない「泣き寝入り」も多く(内閣府の調査では女性の13人に1人がなんらかの性的被害に遭った経験があるらしく、ならば摘発されている数は氷山の一角とすら言えないほど少ない)、声をあげれば「法治国家だから推定無罪だ、証拠を出せ」、挙句に「名誉毀損だ、お前が犯罪者だ」などと罵倒までされてしまう。
そんな現代社会の、その実あまりにちぐはぐで軽薄な「ルールを守れ」の文脈にどっぷり浸かっている我々が、日本史の教科書では鑑真の教えが要するに「戒律」つまりルールを守って禁止されたことはやらないのが正式に国に認められた僧侶になる条件、とだけ要約されて教わり、しかもその鑑真は人民を土地に縛り付けて納税義務を果たさせるための政策として招かれたと言うのであれば、なんとも受け入れ難い話だ。
だが果たして、本当にそうだったのだろうか? 「戒律」とは日本の仏教にとってその程度のうわべだけ、僧侶の公的な身分に関わるだけの「建前」だったのだろうか?
だいたい、いわゆる「私度僧防止説」には、根本的に不自然なところがある。
聖武天皇の鑑真招聘計画は、なんと20年がかりだ。その半分は5度の渡航の失敗で予想外に時間がかかったとしても、栄叡と普照は適任の高僧を探すのにのべ10年もかけているし、当時の海上交通事情を考えれば予定通りにことが運ぶと思う方が考えにくい。私度僧の増加の社会不安がこれだけの大プロジェクトの動機になるほど差し迫ったものだったのなら、逆に火急の対応が必要だったはずが、20年がかりとは、妙に悠長な話ではないか。