法隆寺金堂、その飛鳥時代の仏像のミステリアスな微笑
金堂の国宝・薬師如来坐像に話を戻そう。これが太子が父・用明天皇の遺志を継いだ斑鳩寺の創建に当たり作られた像だというのは、光背の銘文にそう書いてある。
だが解説を読んで、実際に用明天皇の遺志に関わる造立の経緯を記した銘文を見ると、「池邊大宮治天下天皇」とあるのは、「天皇」を名乗ったのは天武天皇以降のはずだ*。なら斑鳩寺の創建よりずっと時代が下った、天武天皇の時代かそれ以降・白鳳期の仏像なのかと言えば、釈迦三尊の銘文について東野治之教授が指摘しているのとは異なり、こちらはきれいに均一の曲面に彫られていて、後から書き込んだとしてもおかしくない。
*「古事記」「日本書紀」では天武天皇以前の天皇が遡って和風の諡号で「天皇(読みはスメラミコト)」と呼ばれている。さらに奈良時代には漢文の諡が付けられてそれが一般化する。この漢文の呼び名で「用明天皇」の、「日本書紀」における和風の諡は「橘豊日天皇」。「池邊」は他の史料によれば用明天皇の諱(本名)だった可能性がある。
そもそも光背は本体とは別鋳だ。本体と光背の時代が異なっていて、光背だけが「天皇」という称号が使われるようになった白鳳時代ということだってあり得る。
薬師如来坐像は太子の時代の、「止利仏師様式」と学校でも習う仏像のなかでも屈指の傑作だ。釈迦三尊像を間近に見る機会はなかなかないが、比較した研究者によれば薬師如来の方が鋳造技術が高度で完成度が高いという。ならばもっと後の、例えば銘文が書かれたのと同時代と考えることもできなくはないだろうが、しかしならばなぜ太子に寵愛されたとされる仏師・鞍作止利の様式でその当時の白鳳時代の様式ではないのか、という疑問も当然ながら湧いて来るし、技術が高いから当然より後の時代、と言う進歩史観を単純に当てはめられるものでもないだろう。
斑鳩寺のような大きな寺の本尊にしては小さ過ぎるのでは、と言う指摘もある。そう言われると確かに、釈迦三尊と比べて一回りか二回り小ぶりだ。それに現代の我々がこの像を「薬師如来」として見ているのは銘文が手がかりなのと、「薬師仏」と伝わっているから、に過ぎない。元は別の如来として作られたことだってあり得なくはなく、たとえば先に載せた写真(8枚上)の三重・見徳寺の木造の坐像ならば左手の薬壺から薬師如来と分かるが、この像にはそうした明確な特徴はない。
台座も今回、法隆寺金堂から運ばれて展示されている。本尊・釈迦三尊像の大きさ・高さとバランスを保ち、金堂の大きなスペースに合わせるためなのか、とても大きく、像のサイズからすると確かに、いささか不釣り合いにも見えて来る。
筆者の気のせいでないのなら、薬師如来坐像が本尊の釈迦三尊より後に、その横に安置するために作られたと考えるとすると、ならば台座の大きさで高さを揃えるようなことはせず、最初から合わせたデザインで作るのではないか? ただ斑鳩寺が焼失して法隆寺の金堂が直接の再建ではなく、近接するとはいえ場所が異なる西院伽藍に建てられている以上は、仏像の配列がそのまま踏襲されているとは言い切れない。
写真の台座の上部の、小さく突き出た部分の前側に、如来像の膝の下に広がるスカート状の衣の裾がすっぽりかぶさるようになっている。
金堂に安置された位置では、現代人の身長でも立った時の目線よりやや高い。そもそも金堂の中は仏の空間なので研究者ですらめったに立ち入りが許されず、通常かなり遠くから見るしかない像なのが、今回は間近で見られ、しかも普段より低い位置に展示されていて、金堂では見えなかった膝の上の衣の処理なども詳細・丹念に観察できる。
大きく広がってヒダが左右対称の美しいパターンを形成している裾には、一部に金箔が残っている。鋳型に溶かした銅を流し込んで作られたものだが、衣の線など非常にシャープで、鋳造技術の精緻さも間近によく見て取れる。
対照的に、顔と特に手は、金属とは思えないほど、ふくよかで柔かい。
台座は、金堂内部より明るい展示会場で間近に見ると、剥落が激しいとはいえ全面に絵が描かれていることがよく分かる(特殊な方法で撮影した、くっきり分かる画像もパネル展示がある)。普段は薬師如来像の衣の裾に隠れているせいか、上部には彩色が比較的よく残っている。
山の絵が描かれているのは、なぜなのだろう?
そういえばこの台座の背後には、金堂壁画の阿弥陀浄土図の模写が展示されている。この壁画にも経典に基づく阿弥陀浄土に、現実の山が描きこまれている。
浄土の光景になぜか現世の山々の風景というのも、なにを意味しているのだろう?
今回は金堂の諸仏のうち、須弥壇(仏像が安置される祭壇)の四方を守護する四天王の、薬師如来像の向かって右斜め後ろ(古代の寺院は南を正面とするので東北の方角)に立つ多聞天と、その左右対称の位置(向かって左後ろ、西北)の広目天も出品されている。
日本の四天王では現存する最古の像だ。後の時代の、動きが誇張されたダイナミックさとはまるで異なった、整然たるシンメトリーの凛とした立ち姿に、まず心を惹かれる。
法隆寺の金堂では、多聞天は通常の拝観で横から入る際にガラス越しに側面が見えるものの、多聞天と広目天は須弥壇の後方に配置されるため、正面からはかなり遠い。今では金堂にも人工照明が入っているが、四天王が立つ四隅は薄暗い。
そんな遠目で見てもここの四天王は…ぶっちゃけ(もうこう言うしかない)…とにかく、かっこいいのである。
こうして間近に、あらゆる角度から見られるとなると、その後ろ姿まで、ますます惚れ惚れとするしかない。幾何学的に様式化された衣の袖や裾の規則正しくリズミカルな並び、上着(鎧?)の表面にやはり規則正しいパターンで繊細な凸線でウロコ状の文様が浮き彫りされている。恐らく古代中国の北斉であるとか北魏、北周などの仏像の様式を踏襲しているのだろうが、今となってはユニークにしか見えない造形は、とてもモダンですらある。
同じ様式でポーズも揃っていて、衣の表現なども基本的に同じパターンなので、素人目には同じ作者か同じ工房で作られたのだろうと思ってしまう。だが光背の裏に作者を示す銘文があり、別人の作なのだそうだ。
横から見ると緩やかなS字状を描く弓なりの体の線がまた美しく(S字になるのは飛鳥時代の特徴でもある)、踏みつけられた邪鬼の完璧な左右対称の造形も実にユニークだ。しかも四天王の本体と、邪鬼は、それぞれひとつの木材から彫り出されているのだという。
特に広目天は、ところどころに今も残る赤の彩色が、鮮やかに目を射る。
それはともかく、この四天王との比較でも、薬師如来坐像は大きさのバランスでいえば確かに本尊にしては小さい。もちろんこの四天王は恐らく若草伽藍ではなく今の金堂に合わせて作られた像なのだろうから大きさを安易に比較することにあまり意味はないだろうが、とはいえ発掘された礎石の配置からすれば、その金堂の四方の四天王もそれなりの大きさだったのではないか?
なんだかどんどん謎めいて来る。学校の日本史で「アルカイック・スマイル」と習った飛鳥時代の仏像の微笑みが、ますますミステリアスに見えて来る。
それにしても、銅造だというのにこの手のひらの暖かなふくよかさは、とても魅力的だ。