仏像の「和様化」と平安朝文化の発展と、南山城
その禅定寺に伝わる平安仏のひとつ、やはり10世紀の文殊菩薩騎獅像は、とても愛らしい。
顔はまるで童子のようで、ずんぐりとした体躯でも、阿弥陀寺の薬師如来坐像のようなボリュームのある力強さというよりは、幼児体型のように丸っこい。奈良の春日社若宮の祭神は本殿第三殿・第四殿のカミガミの息子で、本地仏(日本にカミとして顕現した仏としての本来の姿)は文殊菩薩とされ、鎌倉時代には少年の姿の童形文殊菩薩の像が興福寺を中心に盛んに造られることになるが、10世紀のこの像も、そうした童形の、つまり奈良の宗教文化の影響が色濃い作例なのかも知れない。
裸身の上半身の線や、下半身の衣のひだは浅く簡潔でスッキリした彫りで、いかにも平安時代前中期の仏像らしい一方で、巧みな省略も活かした衣の表現が幾何学的な曲線パターンの繰り返しになっているのは、とてもモダンでもある。
そんな簡略化と対照的に、左肩からかけられた布には非常に細かな線の交差が無数に彫り込まれているのだが、これは衣ではなく、文殊菩薩が人々の魂を取り逃がさずに救済に導くための魚網を肩からかけているためだ。
10世紀から11世紀にかけて仏像彫刻の「和様化」が進んだ時代、言い換えるならたぶん海住山寺の十一面観音のような海外からの先進・先端文明を踏襲した理知的な厳格さや、旧枇杷庄天満宮社伝来の薬師如来の威圧的なまでの厳しさとパワーの9世紀の仏像に代わって、日本人がより親しみを覚え安らぎや救済を感じられる穏やかでやさしげな表現が模索されるようになった時代の代表的な作品として、岩船寺の普賢菩薩騎象像も出品されている。
白い像に乗った普賢菩薩はとくに平安時代のとても優美な仏像や仏画の傑作が今日でもいくつか現存していて、国宝指定の名作もあるが、そこには普賢菩薩が特に女人成仏、つまり女性でも悟りに到達してこの世で生きる上での様々な苦悩や苦しみから解脱し救済され得るという信仰の守り本尊だったことが大きい。
仏典に必ずしもそんなことが書いてあるわけではないが、古代から仏教には女性が成仏して救済されるのはより難しい、という偏見があった。これはもしかしたら日本の場合、仏教の考え方以上に古来のアニミズム的な信仰体系の問題の方が大きかったのかも知れず、女性の月経を穢れとみなしたり、出産が命の危険を伴う時代だったので死を連想してしまう傾向は、日本のカミ信仰にはごく最近の近代まであった。
たとえば「古事記」「日本書紀」にも建国神である伊弉諾・伊奘冉(イザナギ・イザナミ)夫妻の妻・伊奘冉が、火の神の出産時に焼け死んでしまい、伊弉諾が彼女を探して黄泉の国に行く話がある。近現代ではよくギリシャ神話のオルフェウス伝説との比較でロマンチックに誤解されがちだが実際の話はかなりグロテスクで恐ろしい。伊弉諾が禁を破って振り返って妻を見てしまうと、それは死後の腐敗し切った姿だった。眼窩からウジが湧くような醜く変貌した姿を見られた伊奘冉は、怒り狂って夫を殺そうと追いかける。伊弉諾は命からがらに現世に戻り、体を清め穢れを除くために水で禊を行うと、洗った目からのちに皇祖神となる太陽神・天照(アマテラス)が誕生する。
対照的に飛鳥時代に聖徳太子が、平安時代に入ると天台宗の最澄がとりわけ重視した法華経では、性別や出自に関わらず功徳を積み自らの行いで、誰でも成仏はできると説く。
法華経に書かれた普賢菩薩は、元来は文字通り普遍的な知性の象徴だが、だからこそ性別に関係なく真の叡智によって万人の解脱を約束する女人成仏の守り本尊として、特に貴族階級の女性たちの信仰を集めた(ちなみに聖徳太子の場合も、その子孫の一族が滅亡した後も法隆寺が守られ発展を続けたのには聖武天皇の周辺の女性たちの支援も大きく、平安時代には太子の前世が勝鬘夫人、つまり釈迦に直接教えを受けた女性の生まれ変わりと言う信仰も生まれた)。
岩船寺の普賢菩薩も、そうした女性たちの祈りのために造られたのだろうか?
微笑みを浮かべた細面の微笑みにはどこか、聖徳太子の時代の止利仏師様式にも通じる安らぎがある。その顔と華奢な細身の身体、合掌した指先に至るまで、繊細な表現が行き届いた美しい像だ。繊細で緻密な表現の像だが、適度に簡略化した様式化が駆使され、海住山寺の十一面観音の醸し出すような、ある種人を寄せ付けないような厳格さの、硬質な美とは対照的だ。
これらの仏像が伝わる地域を南山城と呼ぶのは、別に南の山城とかそういうことではない。読みは「ミナミヤマシロ」で「ナンザンジョウ」ではなく、「山城の国の南部」、山城は今の京都府の中部・南部の旧国名で(北部・北西部は丹後、丹波)、元の表記は「山背」。たとえば聖徳太子の息子・山背大兄王の名はこの地名から取られている。ヤマト王権の発祥の地である奈良盆地などの「大和の国」から山を越えた向こう側、ほどの意味だろう。その山の向こうに遷都されて平安京ができて以降は「背」ではなく「シロ」の読みに「城」の字が当てられるようになった。現代の我々はその平安京以降1000年以上天皇の首都だった現在の京都市を中心に考えてしまいがちだが、奈良時代には一時は首都・恭仁京が置かれ、その後も国分寺の所在地だったことからも分かるように、山城の国の中心はかつては木津川市など南山城の平地の部分だった。
恭仁京遷都以前でも、すでに木津川のほとりに広がった平坦な土地には飛鳥時代には相当に大規模な寺院だった高麗寺があったことも発掘調査で分かっているし、他にも笠置寺など、寺伝では創建が飛鳥時代に遡る寺も多い。創建の経緯が判然としない蟹満寺も、本尊の巨大な銅造釈迦如来坐像は国宝に指定されているが、少なくとも奈良時代、おそらく飛鳥時代のものだろう。
恭仁京・山城国分寺や高麗寺が今日では遺跡としてしか残っていなかったり、海住山寺も平安時代後期に全山壊滅に近い状態に陥ったり、笠置寺は南北朝時代には後醍醐天皇率いる南朝側が笠置山全体を城郭化して立て籠って全ての伽藍が北朝側に焼き払われ(飛鳥時代の象高15mの磨崖仏もこの火災で岩の表面が剥落し、今は光背だけが残る)、以降も応仁の乱で焼き払われたというような記録が残る寺も少なくない。
最初の貨幣鋳造所が置かれたり、聖武天皇が恭仁京に遷都するなど、木津川を利用した水運が大きな役割を果たしたことは容易に想像できるが(江戸時代でも東大寺大仏殿の再建にはこの地域の山中の木材が木津川を使って奈良に運ばれている)、一方で木津川は見るからに、豪雨があれば氾濫を起こしそうな川でもあり、そして交通の要衝は必然的に戦に巻き込まれる。奈良時代の仏像があまり残っていないのは、そうした理由もあるのかも知れない。
あるいは平安時代の優れた仏像が特に多くこの地域に伝来しているのは、むしろ平安遷都以降にこそ、新しい首都の京都とかつての都の奈良(南都と呼ばれた)を結ぶ地域であることで重要性が増したからなのかも知れない。
平安遷都後も奈良には東大寺や藤原氏の氏寺である興福寺や春日社などの重要な社寺が残り、また大和の国には他にも吉野山、大神神社、樫原神宮などの天皇家に関わる重要な寺社や聖地が数多く、さらに南になる熊野も天皇・上皇と貴族たちの信仰を集めた。またかつての恭仁京だった場所には今は広大な田園風景が広がっているが(今日でも平地では稲作、山沿いではお茶の栽培が盛ん)、奈良の大寺院の勢力圏であり続けた一方で、南山城には平安京の貴族の荘園も多かった。
平安時代まで、日本の婚姻制度は婿入り婚で女性が財産相続権を持っていたし、平安朝の政治がようやく安定して、菅原道真が追放されたような激しい権力闘争も鎮まって藤原氏が最大勢力となると、天皇の妻たちや娘たち、宮中で働く女性たちの政治的発言力も増したし、日本の律令制ではモデルになった中国とは異なって皇女も内親王としてその血統も含めて皇位継承権を持っていた。ただ儒教の夫唱婦随の道徳と身分制度上、内親王がその地位を維持したまま婚姻できたのが、自分と同身分かそれ以上の男性皇族がほとんどだっただけで、だから多くの天皇は父系・母系ともに天皇家の血統だ。父権制・男尊女卑のイエ制度が確立するのはむしろ、武士が政治権力を持つようになって以降のことだ。
岩船寺の柔和で優美な、なんとも愛らしい普賢菩薩像も、そうした社会的な文脈の中で、近隣の荘園主だった貴族の女性が発願したものだろうか?