三輪山信仰と大神神社、そして聖林寺十一面観音と神社にあった巨大仏像

画像: 三輪山と大神神社一ノ鳥居

三輪山と大神神社一ノ鳥居

大神神社は現代から見ると非常に変わった神社に思える。いわゆる「本殿」、御神体を納めカミの霊が宿る建物はなく、拝殿だけがある。背後にそびえる美しい円錐状の山・三輪山そのものが御神体であり、祭神・大物主大神そのものなのだ。

画像: 大神神社 拝殿 江戸時代・寛文4(1664)年 四代将軍・徳川家綱による再建 重要文化財 右に勅使殿 江戸時代・安永8(1779)年 奈良県指定有形文化財

大神神社 拝殿 江戸時代・寛文4(1664)年 四代将軍・徳川家綱による再建 重要文化財
右に勅使殿 江戸時代・安永8(1779)年 奈良県指定有形文化財

画像: 拝殿から森が始まり、ここから三輪山の全体が人の立ち入りが許されない禁足地とされた

拝殿から森が始まり、ここから三輪山の全体が人の立ち入りが許されない禁足地とされた

拝殿の奥には中央の鳥居の左右に小さな鳥居を合体させた「三ツ鳥居」と呼ばれる独特の形状の鳥居があ流。その先が大物主大神そのものの御神体である三輪山の領域で、永らく禁足地として人の立ち入りは禁じられて来た。三ツ鳥居は「三輪鳥居」とも呼ばれて大神神社・三輪明神信仰を象徴するアイコンになり、近隣の名物である三輪そうめんのマークにもなっているほど親しまれている(現在は新型コロナ対策で拝観停止中)。

三輪山絵図 室町時代・16世紀 奈良・大神神社

この室町時代の絵図では中央やや左上に、拝殿などの中心となる社殿が描かれ、拝殿の上に三ツ鳥居、そこから上が禁足地だ。三ツ鳥居の左右には大般若経の経蔵などがある。その真上、最上部に描かれているのが、神そのものである三輪山の山頂だ。

また右上の山の麓には、かつての平等寺の広い境内が描かれている。

中心社殿からまっすぐ下に伸びた参道の、二ノ鳥居の左斜め上に見えるのが、白い壁に青の瓦で囲まれた大御輪寺だ。なお二ノ鳥居は今ではこの絵図の位置より後退し、大御輪寺に向かう参道の、この絵図だとそのすぐ上に当たる位置に立っている。

画像: 若宮・大直禰子(おおたたねこ)神社に向かう参道。この右後ろに現在の二ノ鳥居。 そうめん店ののれんに赤で描かれているのが三ツ鳥居

若宮・大直禰子(おおたたねこ)神社に向かう参道。この右後ろに現在の二ノ鳥居。
そうめん店ののれんに赤で描かれているのが三ツ鳥居

この時代には、本堂の他に三重の仏塔もあったようだ。絵図では「大御輪寺」ではなく「若宮」と、あたかも神社のように表記されているのは興味深い。これは大神神社の創建自体にも関わることだ。

画像: 三輪山絵図 室町時代・16世紀 (部分) 奈良・大神神社 「若宮」と表記されているのが大御輪寺。現在の二ノ鳥居は参道の、「社僧出仕所」と書かれた建物の正面にあたる位置にある。

三輪山絵図 室町時代・16世紀 (部分) 奈良・大神神社
「若宮」と表記されているのが大御輪寺。現在の二ノ鳥居は参道の、「社僧出仕所」と書かれた建物の正面にあたる位置にある。

今日では、若宮神社の正式な呼称は大直禰子神社、祭神の大直禰子命(オオタタネコノミコト)命は「古事記」では「意富多多泥古」、「日本書紀」では「大田田根子」と表記される大物主大神の子ないし子孫で、崇神天皇が探し出して大神神社の初代の神主に任じた。

つまり主祭神の子孫を祀る、いわば主祭神の子という扱いなので「若宮」。その大直禰子命に加え、「日本書紀」によれば「大田田根子」の母とされる活玉依姫命(玉依姫)と、出雲の神で大国主大神の国づくりに協力した少彦名神(今日では一般に「えびす様」としても各地で信仰される)が祀られている。

かつての「大神寺」ないし「大御輪寺」はその大直禰子命の子孫である三輪氏(大神氏、神君、鴨君)の氏寺で、聖林寺の十一面観音菩薩立像は、この大神神社の神主一族が先祖を祀った氏寺の本尊だったのだ。

画像: 大神神社若宮・大直禰子神社 旧大御輪寺

大神神社若宮・大直禰子神社 旧大御輪寺

いささか奇異というか異例なことではないか? どう考えてもこれだけのクオリティの仏像で、東大寺にあった官営の造仏所で作られたものであれば、その造立はいわば国家事業レベルだったはずだ。それが平城京で作られ、三輪山の麓まで運ばれている。

大直禰子(大田田根子)命の子孫・三輪氏は飛鳥時代の有力な豪族のひとつで、奈良時代の政治外交でも活躍していたとはいえ、さすがに破格の扱いだろう。むしろ元来は藤原氏の氏寺だった興福寺が国家祭祀の役割も担ったことと同様に、大神寺(のちの大御輪寺)でも国家レベルの重要祭祀が行われていた、と考えた方が納得は行くが、ただし興福寺の場合は藤原氏が権力の中枢を担った最有力貴族だっただけではなく、聖武天皇の皇后・藤原光明子が藤原不比等の娘だったこともある。

ではなぜ、これほどの仏像が、大神寺(大御輪寺)に納められたのだろう?

旧大御輪寺本堂の屋根裏から発見された、奈良時代の巨大な脱活乾漆の如来像の断片も、やはり国家事業レベルで造立された仏像だったはずだ。

画像: 仏像断片 奈良時代・8世紀 奈良・大神神社 大きな仏像の頭部の断片と思われ、接着した螺髪が剥がれた痕が並んでいる。

仏像断片 奈良時代・8世紀 奈良・大神神社
大きな仏像の頭部の断片と思われ、接着した螺髪が剥がれた痕が並んでいる。

室町時代の絵図を見ても大神神社の境内には仏堂がいくつもあったことが分かり、この像が大神寺(のちの大御輪寺)に納められたものなのかまでは断定はできないものの、それだけ三輪山の麓に重要な仏教施設が置かれる国家的な必然があった、ということではないのか?

崇神天皇が大物主大神の子孫・大直禰子命をわざわざ探し当てて大神神社を創建したという記紀にある記述や、平等寺も聖徳太子が大物主大神に祈願したのが創建と伝わっていることからも、ヤマト王権から律令制の成立にかけて、すでに三輪山への信仰が古代の朝廷にとって極めて重要だったと推測できる。それは当然、奈良時代の朝廷にも引き継がれたはずだ。

画像: 重要文化財 大神神社 拝殿 江戸時代・寛文4(1664)年 四代将軍・徳川家綱による再建

重要文化財 大神神社 拝殿 江戸時代・寛文4(1664)年 四代将軍・徳川家綱による再建 

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