1400年間それぞれの時代に、聖徳太子を信仰し続けた歴史

画像: 聖徳太子立像(二歳像)鎌倉時代・徳治2(1307)年 奈良・法隆寺 記録によればかつてはこの「南無仏太子」像が舎利殿に南無仏舎利と共に安置されていたという。いつ頃現在の像に置き換えられたのは定かではないが、明治時代初期の写真ではすでに現在の像が舎利塔と共に安置されていたことが分かっている。肌が黒ずんでいるのは灯明やお香、護摩を炊いた時の煤が付着したのだろう。つまり舎利殿が重要な信仰の場で盛んに祈りが捧げられて儀式が行われたことの証と思われる。

聖徳太子立像(二歳像)鎌倉時代・徳治2(1307)年 奈良・法隆寺
記録によればかつてはこの「南無仏太子」像が舎利殿に南無仏舎利と共に安置されていたという。いつ頃現在の像に置き換えられたのは定かではないが、明治時代初期の写真ではすでに現在の像が舎利塔と共に安置されていたことが分かっている。肌が黒ずんでいるのは灯明やお香、護摩を炊いた時の煤が付着したのだろう。つまり舎利殿が重要な信仰の場で盛んに祈りが捧げられて儀式が行われたことの証と思われる。

仏教説話によれば、古代インドの舎衛国の波斯匿(はしのく)王の娘シュリーマーラーが、釈迦の熱心な信奉者だった父に勧められ仏法に帰依した。すると聡明で利発なことで知られたシュリーマーラーに仏が顕現し、教えを授けたという。この時に彼女は併せて亡き釈迦の左目の骨の仏舎利を授かったとされ、幼少の太子の手から出現した仏舎利も左眼の骨と伝わる。

つまり聖徳太子はシュリーマーラーの転生で、だからその手に彼女が授かった仏舎利を握って生まれて来たのではないか、というのも、この南無仏舎利にまつわる重要な伝承だ。

シューリーマーラーは漢字表記では「勝鬘夫人」、彼女に顕現した仏が説いた内容をまとめたとされる経典が『勝鬘経』だ。そして太子は35歳の時にこの『勝鬘経』の解釈を自らの考えも入れて説き、その『勝鬘義疏』と『法華経』の解釈書である『法華義疏』、『維摩経』を解釈した『維摩義疏』と合わせて『三経義疏』が、太子の仏教的にもっとも重要な業績のひとつだ。

画像: 重要文化財 勝鬘経 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物) 巻頭の見返しに、35歳の太子が勝鬘経を説いた時の光景が描かれる。この時に天から花弁が降って舞い散る奇跡が起きたとされ、その花弁が見返しの絵の下だけでなく経文の金で引かれた罫線の下にまで広がっている。

重要文化財 勝鬘経 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
巻頭の見返しに、35歳の太子が勝鬘経を説いた時の光景が描かれる。この時に天から花弁が降って舞い散る奇跡が起きたとされ、その花弁が見返しの絵の下だけでなく経文の金で引かれた罫線の下にまで広がっている。

「南無仏舎利」の伝承と合わせて太子をシューリーマーラーの転生とみなす信仰は、その『勝鬘義疏』から派生したものでもあるのかもしれない。またサンスクリット語でシューリーマーラーは「豊かで美しい花輪」を意味するが、太子が『勝鬘義疏』を説いた時に天から蓮の花びらが降って舞い散った、という奇跡も伝承されている。

画像: 重要文化財 蓮池図屏風 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺 現在は二曲の大きな屏風に仕立てられているが、元は舎利殿で「南無仏舎利」を安置した後の、北側の壁の障壁画だったようで、太子が『勝鬘義疏』を説いた際に蓮の花弁が降ったという伝承と関連した装飾だったのだろう。鎌倉時代の最新流行だった中国・宋王朝風の様式で描かれている。

重要文化財 蓮池図屏風 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺
現在は二曲の大きな屏風に仕立てられているが、元は舎利殿で「南無仏舎利」を安置した後の、北側の壁の障壁画だったようで、太子が『勝鬘義疏』を説いた際に蓮の花弁が降ったという伝承と関連した装飾だったのだろう。鎌倉時代の最新流行だった中国・宋王朝風の様式で描かれている。

日本の仏教で平安時代に主流となるような考え方では女性が成仏するのは難しいとされ、高野山や比叡山のような霊場は女人禁制だったが、太子への信仰が在家で俗人の女性であるシューリーマーラー、勝鬘夫人と『勝鬘経』に結びつき、女性だった彼女の転生とも信じられて来たことも興味深い。

太子自身には妃としては、太子の亡くなる前日に世を去った膳部菩岐々美郎女、山背大兄王の母で蘇我馬子の娘の刀自古郎女、そして太子の没後にあの世に旅立った太子の姿をみたいと「天寿国繍帳」を発願した橘大郎女が知られるが(他に菟道貝蛸皇女が結婚後まもなく亡くなっている)、一夫多妻制の時代であっても、三人のどの妃とも深い愛情と強い精神的な絆を伺わせ、太子もまた妃たちを尊重して信頼していたと思わせる伝承があることとも、併せて考えてみたい。

なお『法華義疏』と『法華経』についても、太子がその『法華経』の研究者だった中国の高僧・慧思(西暦515〜577)の生まれ変わりという説があり、その慧思が身近に所持していた『法華経』を遣隋使として中国に派遣された小野妹子が太子のために持ち帰ったとされる経巻も、法隆寺に長らく伝来した(現在は東京国立博物館の「法隆寺献納宝物」の一部)。

画像: 国宝 細字法華経 中国・唐時代・長寿3(694)年 東京国立博物館(法隆寺献納宝物) 中国の高僧・慧思(515〜577)が所持していたものとして法隆寺に伝来した。太子の前世がその慧思だったとする信仰と結びつき太子ゆかりの品とされて来たが、ただし巻末に記載された年号は太子の死去から72年後で、つじつまが合わない。実際には遣唐使によってもたらされて法隆寺に納められたものだろう。

国宝 細字法華経 中国・唐時代・長寿3(694)年 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
中国の高僧・慧思(515〜577)が所持していたものとして法隆寺に伝来した。太子の前世がその慧思だったとする信仰と結びつき太子ゆかりの品とされて来たが、ただし巻末に記載された年号は太子の死去から72年後で、つじつまが合わない。実際には遣唐使によってもたらされて法隆寺に納められたものだろう。

近代になって、明治政府が天皇中心の軍事強国を目指したときに、普通に考えるなら最も神話化・神聖視すべきは初代・神武天皇だったろう。だが、たとえば最高額の紙幣に描かれる肖像に選ばれたのも、基本政策として「和を以って貴し」と唱えたとされる聖徳太子だった。

ただし明治政府が紙幣の顔に選び、近代に太子の姿として定着した視覚表象は、それまで仏教の文脈で親しまれて来た姿ではなく、法隆寺東院に伝来して明治時代に皇室に献納され、今では御物となっている「唐本御影」と呼ばれる奈良時代の肖像画(御物「聖徳太子二王子像」・後期展示) だった。

画像: 国宝 聖徳太子および四侍者像のうち 聖徳太子 平安時代・保安2(1121)年 奈良・法隆寺(聖霊院安置・秘仏) 中国の皇帝を象徴し、日本でも聖武天皇以降の天皇が即位式で着用した冕冠を頂く。その冕冠の下に見える赤い小像は毘沙門天(多聞天)。太子を毘沙門天と同一視する信仰もある。

国宝 聖徳太子および四侍者像のうち 聖徳太子 平安時代・保安2(1121)年 奈良・法隆寺(聖霊院安置・秘仏)
中国の皇帝を象徴し、日本でも聖武天皇以降の天皇が即位式で着用した冕冠を頂く。その冕冠の下に見える赤い小像は毘沙門天(多聞天)。太子を毘沙門天と同一視する信仰もある。

明治政府は「神仏分離令」を出し、一時は仏教排斥の「廃仏毀釈」まで扇動して、仏教から切り離された「神道」を国家宗教にしようともしていた。そんな中で仏教の信仰対象として中世以降は庶民にも人気が定着し、江戸時代には法隆寺伝来の太子ゆかりの品々が江戸で出開帳までされていた聖徳太子は、明治政府にとって天皇家の権威を高め一般庶民にも広める上で利用価値が大きかったと同時に、なんとしても旧来の仏教的なイメージから切り離す必要もあったのかも知れない。

この展覧会はそうした明治的な、俗に言えば「一万円札」に代表されるような太子のイメージを、過去1400年以上の歴史的な文物・美術品の持つリアルさによって、さまざまな意味で刷新して覆し、日本人が愛し尊敬し信仰してきた太子の存在のほんとうの意義を考察することへと誘う。

そこで「聖徳太子」の呼称を用いているのはしかし、決してただ観客層の年代によっては「厩戸王」ではなじみが薄いから、ではない。

本展を見終わった時には「やはり『聖徳太子』なのだ」と納得させられる。

画像: 重要文化財 聖徳太子立像 (十六歳像)鎌倉時代・13世紀 奈良・成福寺

重要文化財 聖徳太子立像 (十六歳像)鎌倉時代・13世紀 奈良・成福寺

ではなぜ「聖徳太子」でなければいけないのか?

これについては展示品の紹介に合わせて追い追い触れていくとして、昨今では「非実在」説もかしましいのはご存知の通りだ。この仮説については、先立って本展が奈良国立博物館で開催された時の紹介記事で検証したので、詳しくはそちらを参照して頂く(ここをクリック)として、こうした極論まで出てしまうのには、太子に限らず推古朝についての文献が、ほぼ『日本書紀』しかないことが大きい。

画像: 国宝 四天王立像のうち 広目天 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵 (金堂安置) 四天王のうち広目天、サンスクリット語でヴィルーパークシャは「すべてを見る者」を意味し、衆生の行いを見て記録して死後の裁きに備える役割を持つため、奈良時代ごろまでは筆と巻物の筆記具を持つ姿で表象されることが多かった。

国宝 四天王立像のうち 広目天 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵 (金堂安置)
四天王のうち広目天、サンスクリット語でヴィルーパークシャは「すべてを見る者」を意味し、衆生の行いを見て記録して死後の裁きに備える役割を持つため、奈良時代ごろまでは筆と巻物の筆記具を持つ姿で表象されることが多かった。

「十七条憲法」は歴史教科書に必ず載っていて一般にもっとも広く知られる太子の業績だろうが、その典拠も『日本書紀』の記述だ。とりわけ有名な第一条の「和を以て貴しとなす」は、太子の同時代の皇位継承争いや豪族間の対立が絶えなかった状況を考えればいかにももっともな内容だが、一方で一部の研究者からは他の条文に見られる儒教の受容と解釈が、推古朝の時代ではなく『日本書紀』が編纂された少し前の時代の考え方ではないか、という見解も出ている。

その是非はともかく、律令制の確立に邁進した天武・持統朝にとって、太子の作った「憲法」という先行例を強調する意味が大きかったであろうことは、言うまでもあるまい。

画像: 重要文化財 「十七条憲法」版木 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺 版木が作られ大量に印刷されていたということは、中世には太子が遺したこの教訓は広く一般に流布されていたのだろう。

重要文化財 「十七条憲法」版木 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺
版木が作られ大量に印刷されていたということは、中世には太子が遺したこの教訓は広く一般に流布されていたのだろう。

そこでたとえば「十七条憲法」は儒教の解釈的に言って太子の時代のものではないのではないか、などと言われても、なにしろ『日本書紀』以前の記録も特になく、他の同時代の史料と付き合わせて検証して裏付けを他の史料に求めるにも、そんな文献がないのであれば、太子の存在自体が天武・持統朝のフィクションではないか、という極論でもなんでも、理論上は言えてしまう(それを言ったところでどんな意味があるのか、実のところ大いに疑問ではあるが)。

一方で、天武・持統夫妻に先んじて太子がすでに「憲法」を定めていたというのは、律令制の完成を目指した朝廷にとって重要政策の正当化の極めて説得力のある切り札になったはずだ。

しかも「十七条憲法」に書かれた政治家や官吏の基本道徳や心構えは、内乱のない統一国家日本を目指す天武・持統朝の政権にとっても特に重要な内容になる。同じく『日本書紀』によれば推古天皇と太子が定めたとされる「冠位十二階」制も、豪族がそれぞれの一族でまとまって権力抗争を繰り広げることを防止する効果が期待される能力主義本意の官僚制度で、同様の朝廷が与える官位の制度は法と制度の秩序に基づく政治のガバナンスを確立する上で重要な律令制の柱となり、人事権を掌握することは天皇の権威・権力の源ともなった。この制度はなんと朝廷が政治疫実権を失った武家政権の時代にも極めて有効で、武家のリーダーにとっては朝廷に願い出て配下の武将に官位を与えることは、明治維新まで重要な政治的カードであり続けた。

こうしたことは、天武・持統の夫妻自身が直接に天皇としてそうした倫理を臣下に要求するよりも、まるで仏の生まれ変わりのような聖人、菩薩のような君子だった太子の教えである、と言った方が説得力は遥かに大きかったことだろう。

画像: 山口大口費 広目天 飛鳥時代・7世紀 国宝・四天王立像のうち 奈良・法隆寺蔵 (金堂安置) 広目天は世界と衆生を見つめその出来事を記録する護法神でもある。筆を握る右手の精緻なリアリズムが圧倒的

山口大口費 広目天 飛鳥時代・7世紀 国宝・四天王立像のうち 奈良・法隆寺蔵 (金堂安置)
広目天は世界と衆生を見つめその出来事を記録する護法神でもある。筆を握る右手の精緻なリアリズムが圧倒的

その意味では確かに、『日本書紀』にはかなり創作が入っている可能性もないとは言えない。つまり、「非実在論」は必ずしも真に受けるべき必然がない一方で(太子がすでに尊敬されていて神仏に近い信仰対象になっていなければ、仮に創作であったとしても、その創作自体に説得力がなにもなくなる)、『日本書紀』以外の史料がほとんどなく、その記述が天武・持統朝の政治的な意図を反映している可能性が無視できない以上は、「誤り」と断ずることもまた難しい。

だが実は、研究者でさえめったに見る機会がない貴重な史料で、「非実在論」を全否定できそうな根拠が、本展では展示されている。

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