国宝・普賢菩薩騎象像と法華経、そして女人救済への祈り
大倉集古館の仏教美術コレクションの白眉は、やはり国宝にも指定されている平安時代の普賢菩薩騎象像だろう。普賢菩薩は釈迦三尊で文殊菩薩と共に釈尊の脇侍を努める菩薩、智慧の仏である文殊と並んで、「普賢」つまり「普遍的にあまねく賢い者」という意味で、世界のあらゆる場にあまねく現れ、仏の慈悲と理智を顕して人々を救う賢者の菩薩とされる。
平安時代中後期の、いわゆる「日本的」な仏像の様式の確立期の中でも、屈指の名作だ。
左右対称を基本に均整の取れた、柔らかで曲線的な身体の造形、穏やかに様式化されて整理された端正な衣のひだ、その落ち着いた佇まいにはしかし、決して型にはまったものではない、静かな力強さともいうべき美しさがある。
かつては鮮やかに彩色されていたのであろう、その色は900年前後の時を経て褪色したり剥落したりしているが、よく見ると随所に、細く切った金箔を貼り付ける截金の技法の華やかな装飾がよく残っている。
普賢菩薩はまた、世界のあらゆる場に普遍的に顕現してその賢さで救済を行う、という法華経の記述の解釈から、女性の救済の本尊としても信仰を集めた。
この像も、詳しい来歴やどこの寺にあったかなどかは明らかでなく、もしかしたら貴族の女性の守り本尊として作られてその屋敷に安置されていたものかも知れず、そう思って見ると繊細で神経の行き届いた造形と細部の截金を駆使した華やかさは、いかにも女性にふさわしいものにも思えて来る。
仏教の教義自体に女性を蔑視する内容があるわけでは必ずしもない。だが悟りを開いて啓示に達して永遠に生まれ変わりを続けてはその一生ごとに苦しみを背負う宿命から逃れるには、「煩悩」を捨てて超越しなければならない、とは教えていて。その煩悩、つまり人間や生きとし生ける者につきまとう欲望には性欲が当然含まれる。
そこで女性は男性の修行者の性欲つまり煩悩を掻き立てて悟りに至る道を惑わすもの、とみなされた。空海が開いた高野山、最澄が開いた天台宗の総本山である比叡山延暦寺が「女人禁制」だったのは、こうした理由に寄ると同時に、日本古来の土着のアニミズムのカミ信仰では、女性が月経で血を流すことを不吉・不浄とみなす偏見があったのも確かだし、「古事記」の伊弉諾・伊奘冉(イザナギ、イザナミ)神話にもそれを思わせるか、あるいは過去には出産時に命を落とす女性が多かったことを想起させる、死後の世界に落ちた伊奘冉をめぐる記述がある。
そこで男性と違って女性は「成仏する」、つまり悟りに達して救済を得ることができないか、極めて難しい、という考えが広く行き渡っていたのが、平安時代の宗教的な社会通念でもあった。
平安時代から中世にかけて、女性の社会的な地位が低かったわけでは必ずしもない。むしろ近代の明治時代などよりも女性の発言権も認められていたとすら言えなくもなく、財産権もあり、天皇家の女性の子女も「内親王」として皇位の継承権が認められていたのが日本の律令だ。また律令には、即位しなかった内親王の家系でも皇位を継承を認める記載もあり、父系相続が絶対だった中国の皇帝や朝鮮半島の君主とは異なっている。
平安時代の宮廷でも多くの女性たちが政治的な力も発揮していたし、戦闘が本業であるだけに男性中心になって当然の武家の社会でも、「尼将軍」と呼ばれた鎌倉時代初期の北条政子、室町時代中期に将軍・足利義政の妻で応仁の乱の収束に決定的な役割を果たした日野富子など、女性が活躍することは決して少なくなかった。
それでも実権を掌握していたのはまずやはり男性、男性中心の権力の社会であり、当時の生活と政治と不可分だった宗教では、女性が偏見で差別され救済(成仏)は難しいとされていたのも確かだ。
そんな中で、法華経の解釈から女性の救済の可能性を示していたのが普賢菩薩だ。
また法華経は、日本で最初にこの経典を読んで内容を解釈して説いたのは聖徳太子だが、太子の子孫の一族が朝廷の権力闘争に巻き込まれて滅亡した後、太子を仏とみなす信仰を支えて法隆寺などの太子ゆかりの寺を支援したのも、橘三千代や藤原光明子(光明皇后)など、朝廷の女性たちだった。
「普賢十羅刹女像」は、普賢菩薩が女性の鬼たち十人に囲まれ、彼女たちを従えて罪を悔い改めさせて救済に導く姿を描く仏画だが、大倉集古館の所蔵する鎌倉時代の絵では、鬼女である羅刹女たちは、鬼ではなく平安時代の貴族社会の女性たちの姿で描かれている。
平安時代の女性歌人たちの和歌や、紫式部の「源氏物語」では、しばしば女性の情念が「鬼」にも比せられるほどの激しさで記述されている(たとえば「源氏物語」の光源氏の愛人となり、生き霊となってその正妻を呪い殺してしまう六条御息所)が、世俗の貴族社会の女性たちを羅刹つまり鬼に見立てたこの絵には、そういう背景があるのかも知れない。
また実際、後代よりもむしろ社会的・政治的な役割が大きかったのが平安時代や中世の女性たちと言っても、その最大の役割はやはり天皇の子を産むことで宮中でのランクを上がっていくとか、そうした女御・中宮に仕えるとか、武家社会でもやはり跡取りを産むことがやはり最も重視されていた。そこには愛憎に苛まれる苦悩や、子宝に恵まれなければ役割を果たせないプレッシャー、子供の死亡率も高かった時代に我が子を失う悲しみなど、情念の激しい暴発に追い込まれるようなストレスは非常に多かったことだろう。
平安後期・院政期の武家の台頭と武家が支配階級になった鎌倉時代以降に比べれば、平安時代は激しい殺し合いがないだけ平和な時代だったが、宮廷社会中心の政治だって苦労や苦悩は絶えなかったし、天災や疫病も少なくなかった。
そんな中で究極的には女性も含めてあらゆる人間の救済への道を説く法華経への信仰が流行し、貴族たちが自ら法華経を書き写して、豪華な装飾を施して寺社に納入することが流行したのも、それだけ彼らが現世の苦しみからの救済を切望していたからだろう。またこうした装飾法華経の流行と、「南無阿弥陀仏」を唱える浄土信仰・阿弥陀信仰がまず平安時代に貴族社会で流行したのは、時代的にはほぼパラレルになってもいる。
またこうした写経には、貴族たちが男女の別を問わず参加している。発願主つまりリーダー格が女性である場合も少なくない。
台頭した武家の筆頭で貴族社会の枠内で太政大臣という最高権力者にまで上り詰めた平清盛の平家一門が、氏神である宮島の厳島神社に納めた平家納経は、そうした装飾法華経の中でも最も豪華な最高傑作だ。この厳島神社の平家納経を、当時の技術を可能な限り再現した忠実な模本を作るプロジェクトが大正から昭和初期にかけて実行され、そのスポンサーの一人だったのが大倉喜八郎の大倉財閥で、その成果も大倉集古館に所蔵されている。