聖地・南山城の原点は、最先端の文明の象徴として仏教を広めた聖武天皇
平安時代初期のこの像も、彩色や漆箔(漆を塗った上に金箔を貼ること)は最初から行われず、硬質の木の素地が永年の歳月を経て、堂内で薫かれる香や蝋燭、護摩の火の煤もあって(海住山寺は真言宗の寺院として、火を多用する密教の儀式が行われて来た)1200年前後の歳月を経てこの美しい、木でありながら黒大理石のような輝きになったのだろう。
白檀や黒檀は東南アジアから輸入しなければ入手できないので、日本で檀像を模倣するのにはカヤやサクラなど木目が詰まった硬い木で代用されるのが普通だった。この海住山寺の十一面観音菩薩立像もカヤなどが使われていると考えるのが自然だが、これだけの精緻な彫刻が可能で、黒光りするつややかな表面の質感は、唐経由で輸入された白檀などが使われている可能性もあるという。
木材の質、超絶技巧の彫刻技術の精緻さからして、国家の中枢である首都、この時代なら新たに建設された平安京(京都)かその前の都だった奈良(平城宮)で作られたものだろう。当時としても超一級のクオリティだったのは間違いない。
右脚の動きで体の重心を微妙にずらし身体の運動性を表現するのは先述の通りギリシャ=ローマにも通じる発想かも知れず、また8世紀・玄宗皇帝の唐の最盛期に流行したインド的、あるいは中央アジア的なエキゾチックさもある。玄宗の時代といえばシルクロード交易が最も栄え、ちょうどその頃の日本では、聖武天皇が新たな平和国家像を目指してその唐から最新の文化・文明・宗教・法体系や技術を積極的に導入していたため、シルクロードの東の到達点は唐の首都・長安(現在の西安市)ではなく平城京(奈良)ではないか、とも言われる。
そんなダイナミックな歴史と文化が凝縮されたのが、この高さ45cmの小さくて大きな仏像でもある。いつ国宝になってもおかしくない、そう個人的には思う。
海住山寺自体が聖武天皇の勅願で、奈良・東大寺の別当だった良弁が十一面観音菩薩を奉じて開いた寺と伝わる。創建時の名称は「藤尾山観音寺」だ。
ちょうどこの山が東大寺の鬼門の方角に当たるらしく、大仏建立の安全を願ってとも言われているが、聖武天皇はほんの3、4年間とはいえ、この寺がある山の麓の木津川のほとりに首都を置いたこともある。
恭仁京(天平12年〜15年・西暦740〜43年)だ。
全国に国分寺・国分尼寺を置くこと(天平13・西暦741年)、大仏建立の詔(天平15・同743年)という日本の仏教史上極めて重要だった二つの決定と、破綻寸前に追い込まれていた公地公民制度を改革して、日本の社会経済構造を大きく変えることにつながった墾田永年私財法(天平15年)は、この恭仁京で出されている。
もっとも、こうした聖武天皇の政策と海住山寺が直接関連していたとすると、大仏は当初は恭仁京かその次の首都・近江紫香楽宮に建てられる計画だったはずなので東大寺の鬼門封じというのはいささか辻褄が合わなくなるし、そもそも藤尾山観音寺の建立そのものが天平7(735)年とされ、つまり遷都の6年前、大仏建立の詔の8年前だ。九州の太宰府で天然痘患者が見つかった年でもある。
恭仁京の中心部、大極殿とその周囲は、近江紫香楽宮に遷都後はそのまま山背の国(平安遷都後「山城」と表記が変更)の国分寺となった。この大極殿は平城京の第一次大極殿が移築されたものだったが、その巨大建築は金堂に転用され、東には負けずに巨大な七重塔も建立された。発掘調査で見つかった基壇と巨大な礎石を見ても、そのとてつもない大きさの想像がつく。
海住山寺の前身、藤間山観音寺は、平安時代後期の保延3(1137)年に火災で全山が壊滅的な被害を受けたという。奈良時代・創建当時の本尊像などは、この時に焼失したのかもしれない。今日の伽藍はその数十年後の鎌倉時代に、興福寺出身の僧侶・貞慶(解脱上人、西暦1155~1213年)が「補陀落山海住山寺」と山号を改めて復興を志したものだ。国宝の五重塔と重要文化財の文殊堂はその解脱上人が亡くなってまもなくの、鎌倉時代の建築だ。
本堂の本尊と奥の院の本尊の二体の、平安時代初期の十一面観音は、この火災時に救い出されて生き残ったのだろうか?
寺伝によれば奥の院本尊の十一面観音菩薩立像は、解脱上人貞慶の念持仏だったという。ならば貞慶は奈良・興福寺の出身なので、奈良に伝来して鎌倉時代にこの地にもたらされた像なのかも知れない。このように南山城の仏教と仏像は、奈良時代、平安時代、貞慶の活躍した鎌倉時代を通じて、奈良との密接な関係にあり続け、その影響は大きかった。
見れば見るほど崇高な、リアルかつ計算し尽くされた、人間の知識と叡智の当時の最先端を凝縮したような造形だからこそ、神々しい像だ。
観音菩薩の下げた右腕が救いの手を表すため極端に長いという約束ごとを除けば、まったく破綻がない。その右腕の長さも同じ右側の足を踏み出そうとする動きを捉える中で不自然さが相殺されていルので、まさに非の打ち所がないのだ。「一木造り」と言っても通常は手や腕であるとか、十一面観音なら頭上面、菩薩像ならではの華やかな装飾など、体幹の中心から外れた細部は別材で作るのが通常なのが、この十一面観音は腕にかけられて体から離れて垂れ下がる天衣も含めて、おそらくすべてが一本の硬い材木から彫り出されているようだ。
両腕から垂れ下がって緩やかな曲線を描く天衣も、ヒダの自然で精緻な表現もそのままで、折れたりもせずに完全に残っている。9世紀の作でこれだけの状態というだけでも、とても貴重だ。
前から見る限り微細な虫喰い痕すら見当たらず、わずかに頭上の宝冠正面中央の阿弥陀如来の化仏が、頭と合掌した手が折れていて木目の断面が露出しているのと、同じく頭上に三段に並んだ頭上面のうち、下段の右を向いた顔がひとつだけ、後代に補われたものだという。そう言われてみれば若干この頭上面だけが、頭頂部の高さが同じ列に並んだ他の顔よりも下がっているようで、その下少し後ろの宝冠の環に若干の補修が見える。この修理痕から考えると、宝冠の環は別材で作ってかぶせたものなのかも知れない。
今回の展示では背後からも含めて360度全角度から見られるが、横から見ると大きく弓なりに身体の全体が沿っているのは飛鳥時代、聖徳太子の時代の仏像を思わせ、源流を辿ると古代中国にも行き着くのだろう。
背面も造形にまったくスキがなく、精緻で硬質なのに自然でたおやかに、徹底して作り込まれている。
ただ背中の中央やや右寄りに、縦に大きなひび割れが走っていることで、実は木の彫刻だったのだ、とあらためて思い出さされる。一本の材木から彫り出す一木造りの仏像は、平安時代初期に日本の仏像の主流になるが、こうした木の彫刻では木材に含まれていた水分が時間の経過とともに徐々に乾燥していくため、時にどうしてもこういうひび割れが起こってしまう。