平安時代初期・「木の仏像」革命

画像: 薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財 元は枇杷庄天満宮社の境内にあった薬師院の本尊で、つまり神仏習合の仏像。明治維新に伴う神仏分離令と廃仏毀釈の破壊から守るため、近隣の阿弥陀寺に移された。ただし天満宮ということは菅原道真は10世紀初頭に亡くなって神格化されているので、この像はさらに遡る時代のもの。

薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財
元は枇杷庄天満宮社の境内にあった薬師院の本尊で、つまり神仏習合の仏像。明治維新に伴う神仏分離令と廃仏毀釈の破壊から守るため、近隣の阿弥陀寺に移された。ただし天満宮ということは菅原道真は10世紀初頭に亡くなって神格化されているので、この像はさらに遡る時代のもの。

日本の彫刻史では、平安時代に圧倒的に木の仏像が増えその後の主流になった。海住山寺や浄瑠璃寺、岩船寺、禅定寺などなど、南山城(京都府南部)地域にはその平安時代の木の仏像の代表的な名作が数々残り、その選りすぐりを紹介するこの展覧会は、そのまま平安時代から鎌倉時代約400年の仏像彫刻の変遷と発展史が凝縮された内容にもなっている。

圧倒的に木の仏像が主流となった時代に、海住山寺の十一面観音の檀像を模したような、直接には唐の影響、唐が世界最大で最も繁栄した帝国だったことを通して国際社会の潮流も受け止めたような、洗練された造形の一方で、日本の「一木造り」の仏像にはまたまるで異なった、日本独自と言えそうな表現が産まれる。海住山寺の本堂の方の本尊・十一面観音菩薩立像もそんな時代ならではの個性的な作品だが、まさに「一木造り」の「一木」を感じさせるのが、今日では城陽市の阿弥陀寺の所蔵となっている薬師如来立像だ。

まず目を見張らされるのは、彫り跡も生々しいほどに鋭い彫刻刀で刻まれたような、布地の柔らかさを表象しようなどとはまるで考えていないような、エッジが立ったシャープで激しい衣の表現だ。

画像1: 薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財

薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財

奈良時代には粘土を成形した塑像や、その塑像を原型にした銅像、それに漆に木の粉末(おがくずなど)を混ぜてペースト状に練り上げた乾漆などの素材の彫刻も多く、彫って削っていくのでなはく盛り上げていくやり方で、衣などもリアルに、柔らかに表現することが多かったのとは、対照的な厳しさでもある。

「木の仏像」であること、仏の姿であると同時に大きく真っ直ぐ育った一本の大きな木から彫り出されたことをどこかしら感じさせることが、信仰対象として重要だったのではないか?

木彫になったから布を布らしく表現できなくなったわけでもないのは、海住山寺の十一面観音菩薩立像に見られる超絶技巧もそうだし、和束町の薬師寺に伝わる薬師如来坐像も、その十一面観音やこの薬師如来立像と同じ9世紀の作だが、木の素地ではなく表面に漆が施され、厚塗りするとエッジが目立たなくなって表面に柔らかな張りが生じることを勘案しても、奈良時代の乾漆像と見紛うばかりの柔らかさだ。

画像: 薬師如来坐像 平安時代・ 9世紀 京都・薬師寺 重要文化財

薬師如来坐像 平安時代・ 9世紀 京都・薬師寺 重要文化財

右肩にかかった衣の薄さなども一木造り、つまりムクの木から彫ったものとは思えない。

この像の不思議な特徴は、通常では結跏趺坐(いわゆる「坐禅」の足)した仏は裸足で足の裏が見えるはずなのに、その足が衣の裾で包まれていることだ。その布のひだの向こうにくるぶしのくびれや踵の膨らみ、足の形までが手にとるように、見事に表現されている。

薬師如来坐像 平安時代・ 9世紀 京都・薬師寺 重要文化財
結跏趺坐した足が衣で包まれているのが珍しいが、布のひだ越しにも足の形が精確に再現されている

つまり塑像や乾漆像に比べて木彫では難易度は高くなったとしても、それだけの技術がこの時代になかったわけではない。

これは阿弥陀寺の薬師如来立像についても実は言えることで、背面に回ってみたり、鋭い彫刻刀で一気に彫ったかのようなシャープな線が際立つ袖でもその下のめくれ方を見ると、一転して見事な張りのある曲面で構成され、衣の重なりや裾のたなびき方の勢いは、やろうと思えばちゃんと布地をリアルに表現できる技量というか、彫りの技術を見せつけんばかりに、マニエリスティックに執拗でさえある。

画像2: 薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財

薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財

つまり木の硬さと、そこを鋭い彫刻刀で勢い良く彫り込んだままのような生々しさの、執拗なまでに小刻みに彫り込まれて異様なまでの迫力をたたえるシャープな衣のひだは、意図的な表現だったはずだ。

ではなぜ意図的に、素材が木であること、素材それ自体の存在感をあえて誇張したのか?

この薬師如来立像でもうひとつ強烈な印象を与える特徴の、デフォルメされたようなずんぐりして太って腹の突き出た体躯も合わせて、仏の姿を忠実に表すことで信仰対象とすることに留まらない、別のなにかを同時に表現しているのではないか?

画像: 薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財 身体の部分と衣で仕上げを変えて質感の違いを演出してはいるが、頭頂部から仏が立つ蓮台の、そのハスの花の中心部まで一本の材木から彫り出されている

薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財
身体の部分と衣で仕上げを変えて質感の違いを演出してはいるが、頭頂部から仏が立つ蓮台の、そのハスの花の中心部まで一本の材木から彫り出されている

阿弥陀寺の宗派は鎌倉時代に開かれた鎌倉新仏教の浄土宗で、遥かに古いこの薬師如来が元々はこの寺のために造られたものではないことが推察できる。実のところ、江戸時代までは近隣の枇杷庄天満宮社にあった。明治の神仏分離令以前には神社と寺院に厳格な区別はなく、神社の境内に仏を祀るお堂や神宮寺があるのが当たり前、神宮寺の僧侶が神社を管理していたことも珍しくなかったのが、そんな神社にあった仏像を近隣の寺院に移すことで神仏分離令と廃仏毀釈運動の破壊から救った一例だ。

ただし元あった神社が天満宮・天神社ということは、菅原道真が亡くなって天神信仰が始まったのは10世紀のこと、9世紀のこの像はさらに時代を遡り、元は別の目的で造られたのかも知れない。

再び西洋との比較を持ち出すなら、ミケランジェロの大理石像はヴァチカンの「嘆きの聖母(ピエタ)」像のように表面を徹底的に磨き上げ、人の肌を大理石の滑らかな輝きに重ね合わせる一方で、ルーヴルの「抵抗する奴隷」「恍惚の奴隷」のように、わざと荒々しい鑿跡を残した作品がある。遺作と言われる「ロンダニーニのピエタ」は、肝心の聖母とキリストの亡骸は表面の仕上げを施さずに鑿跡がそのまま残る一方で、イエスの両脚と、その右側に下がる誰のものか解らない謎の腕は丹念やすりがけで仕上げられた滑らかな表面だ。この不思議な表現がミケランジェロが完成前に亡くなってしまったせいで、未完であるからに過ぎない、と果たして言い切れるのだろうか?

画像1: 文殊菩薩騎獅像 平安時代・10世紀 京都・禅定寺 重要文化財

文殊菩薩騎獅像 平安時代・10世紀 京都・禅定寺 重要文化財

そのルネサンス期からほぼ1世紀後には、オランダのレンブラントやスペインのヴェラスケスのような画家たちが、写実的でありながらあえて筆のタッチを残した油彩画を描き始める。彼らが晩年に到達した境地では、あえて粘着性が高くなるような溶き方の油絵の具を盛り上げるような厚塗りも駆使し、絵画は確かになんらかの光景を映し取った具象表現で、それも彼らの場合は極めて精緻な写実描写であると同時に、画面上に見える絵の具はあくまで絵の具であり、その質感・存在感で見るものに迫ってくる。こうした素材とメディアを意識させて絵画なら絵画を単なる表象物を超えたなにかに高めるかのような表現は、のちにチューブ式絵の具の発明とともに登場した印象派と後期印象派、とりわけフィンセント・ファン・ゴッホに強い影響を与え、さらにはマルセル・デュシャンやパブロ・ピカソを経て現代芸術の根本的なコンセプトにまでつながっていく。

平安時代初期の、否応なく「木」「一木造り」を意識させる仏像は、そんな素材とメディアを意識させる前衛的な表現を、下手すると1000年近く先取りしていた、というのは、果たして突飛すぎる妄想だろうか?

あるいは作り手の意図は別にあって、それが結果として現代芸術の先取りのような表現になったのかも知れないのは、城陽市・阿弥陀寺の薬師如来立像をあらためて、正面から見るとそのヒントがありそうだ。

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