貴族文化、和様の仏像様式の完成と、貴族文化の香る浄瑠璃寺の仏像

仏像の「和様化」が進むに連れて、全体が穏やかで軽やかな印象になり、衣のひだも浅めに彫られて簡潔に表現され、特に下半身が足先に向けて前後の厚みが薄くなっていく傾向の、典型的な発展と到達を見ることができるのが、浄瑠璃寺の地蔵菩薩立像だ。

画像: 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺 重要文化財【10月9日まで、および10月27日以降の展示】

地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺 重要文化財【10月9日まで、および10月27日以降の展示】

下半身が裾に向かって前後の幅が薄くなっている効果が、正面から見てもすぐに分かるほどに極端だ。長く垂れ下がった袖も薄く、しかもその薄さの中で腕の下の空洞になる部分が深く彫り込まれているので、正面から見るとその極端な薄さと、その内側にも丁寧に施された赤い彩色が印象的だ。一方で、9世紀の阿弥陀寺の薬師如来立像と比べると、袖のヘリや裾が翻る波打つような激しい表現もなく、袖の布の重なりも薄く、素直に真下に伸びているだけなので、とてもスッキリして見える。

平安時代後期の、爛熟した貴族文化にいかにも好まれそうな、京都風に洗練された優美な造形には、同じ平安時代でも初期や中期の仏像の厳しさや威圧感はない。海住山寺の十一面観音が小型の像でも重々しく見えるのとも対照的に、とても軽やかだ。

よく見ると厚塗りされた彩色がまだよく残っていて、木の仏像としての質感や存在感は華やかな装飾性に覆われて目立たない。

画像1: 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺 重要文化財

地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺 重要文化財

いかにも京都風な一方で、その華やかな彩色をよく見ると、上半身の赤い衣には大ぶりの草花の紋様があしらわれている。こういった自然のモチーフを好む装飾性は、南都的、奈良の文化に多く見られるという。

実はこの像、正面から正対して近くで見ると、顔はいわゆる「仏頂面」というか無表情に近い。それが本来の用途である礼拝目的で仏像の前に座るような高さで、伏せ目がちで半開きの眼とちょうど自分の目が合うような位置から見上げると、柔和な微笑みを浮かべているようにしか見えない。

画像2: 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺 重要文化財

地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺 重要文化財

見る角度や光の当たり方で表情が変わって見えるというのは、成熟した文化ならではの奥ゆかしい、凝った意図的な表現と言える。そしてなによりも、軽やかで威圧感もなく、優美で柔和でやさしげで、少し見上げる位置から見た時のこの地蔵菩薩には、七頭身から八頭身の理想的な大人のプロポーションなのに、どこかしら子供のような愛らしさがある。

平安時代初期に、正式な留学僧ではなかった空海のもたらした真言宗が、正式に朝廷に任命された最澄の天台宗と同等か、それ以上とも言えそうな重要性で受け入れられたのには、空海が学んだ密教にはそれまで日本で知られていなかった尊格の、憤怒相つまり怒りの表情の「明王」などの新しい仏が多かったことも大きい、と言われる。阿弥陀寺の薬師如来が怖さすら感じる厳しい表情なのと同じような理由だろう。例えば五大明王の中心でもある代表的な明王の不動明王が、牙を剥き出しにした激しい怒りの表情なのは、人間の煩悩を叱りつけている顔だからで、左手に下げた羂索つまり縄は煩悩を戒めるために縛り付ける縄だ。

ところがその不動明王も、平安時代後期12世紀の作である神童寺(木津川市の北の山中にある寺)の立像では、怒りのはずの憤怒相すら…

画像1: 不動明王立像 平安時代・12世紀 京都・神童寺 重要文化財

不動明王立像 平安時代・12世紀 京都・神童寺 重要文化財

…これ、かわいいですよね?

怖くないですよね? かわいく見えませんか?

画像2: 不動明王立像 平安時代・12世紀 京都・神童寺 重要文化財

不動明王立像 平安時代・12世紀 京都・神童寺 重要文化財

膝頭が見えるように裾をたくしあげている不動明王は比較的珍しく、天台宗寺門派(園城寺・三井寺の系統)に由来する表現なのだが、この像の場合は顔も体躯も子供のように愛らしいので、「膝小僧を出した」と言ってしまいたくなる。

膝が見えることの本来の意味は、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)の至聖域である唐院の奥にある大師堂に納められた秘仏の仏画で「黄不動」と呼ばれる不動明王像(国宝)に倣ったものだ。大師堂は第5世天台座主で三井寺を比叡山の山門派に並ぶ天台宗の中心寺院とした寺門派の宗祖・智証大師円珍の墓所に等しい(2体ある智証大師坐像の1体の胎内には、円珍の遺骨が納められている)極めて神聖な場所なので、そこに安置された「黄不動」もまず見る機会がないのだが、比叡山の京都側の麓にある曼殊院門跡にはその写しの「黄不動」があり、こちらも国宝に指定されている。円珍の目の前に出現した(あるいは夢に現れた)不動明王の姿を表すとされ、肌が黄色なのは円珍が見た不動明王の身体が金色に輝いていたからだ。

画像: 金剛夜叉明王立像 平安時代・12世紀 京都・寿宝寺 金剛夜叉明王は降三世明王、大威徳明王、軍荼利明王と共に、不動明王を中心とする五大明王の一人。

金剛夜叉明王立像 平安時代・12世紀 京都・寿宝寺
金剛夜叉明王は降三世明王、大威徳明王、軍荼利明王と共に、不動明王を中心とする五大明王の一人。

日本の天台宗の開祖・最澄は、空海と同じ遣唐使で唐に留学した(と言うか最澄が朝廷に任命された正式な留学僧で、空海は遥かに格下だった)とき、法華経を中心とする天台教学の研究に集中し、密教にはほとんど触れる機会がなかった。空海が長安で密教の最高指導者・恵果に学び奥義まで体得して帰国したので、最澄は歳下の相手で元の身分も自分がはるかに上だったのに、密教を学ぶために空海に弟子入りまでしている

密教には仏を呼び出して自らがその仏と一体化する「修法」という秘儀があり(この時に仏を呼ぶ、サンスクリット語に近い呼び名が「真言」)、仏の法力を自らのものにして地上に役立てることができると信じられ、この「修法」を駆使できたことも空海の真言宗が朝廷に重んじられた大きな理由のひとつだった。当時の仏教の役割がなによりも国家鎮護の仏教だったからだろう。天台宗でもこの遅れを取り戻すべく円仁、円珍が唐に渡って密教を学んだのは、ただ最澄が法華経に学んだように功徳を積んで悟りに近づくこと、利他の慈愛の実践で功徳を積むことだけでなく、「修法」で得られた仏の法力で、国を天変地異や疫病、厄災から守ることが、平安時代初期の仏教に求められたから、でもある。

不動明王立像 平安時代・12世紀 京都・神童寺 重要文化財

だが神童寺の、12世紀の不動明王立像の膝が見えていることだけを見ても、そんな苛烈な信仰の探究の情熱や仏教に期待された重い責任を含む歴史的背景には、まず思い至らないだろう。不動明王に煩悩を叱責される、と言う感覚もまるで覚えないほど、愛らしい。

光背が一枚の板なのは、奈良のとくに平安時代初期・中期の仏像によく見られる。こうした板光背は全面に絵の具や墨で絵が描かれているのが普通で、少し時代が下るこの不動明王立像の場合でも、特に上部にはまだその痕跡が見える。ちなみに板光背の絵が鮮明に残っている有名な例では、奈良県・室生寺の金堂の五尊 などがある。この不動明王の場合は、顔料の褪色が進んで肉眼では見えない絵も、赤外線写真ではどんな図象だったかが分かり、その写真パネルが展示に添えられている。

画像: 降三世明王立像 平安時代・12世紀 京都・寿宝寺 三世とは過去・現在・未来のことで、それを超越する力を持つ明王。踏みつけられているのは寝そべっているのが古代インド神話の最高神のシヴァで、片膝を立てているのがその妻のパールヴァティー。夫妻は過去・現在・未来を支配する最強の神だったが、大日如来の遣わした(ないし大日如来が化身した)降三世明王に説伏されて仏教に帰依したと言う。

降三世明王立像 平安時代・12世紀 京都・寿宝寺
三世とは過去・現在・未来のことで、それを超越する力を持つ明王。踏みつけられているのは寝そべっているのが古代インド神話の最高神のシヴァで、片膝を立てているのがその妻のパールヴァティー。夫妻は過去・現在・未来を支配する最強の神だったが、大日如来の遣わした(ないし大日如来が化身した)降三世明王に説伏されて仏教に帰依したと言う。

密教にそれまでの日本の仏教になかった憤怒相の、つまり恐ろしい顔をした仏が多かったので、魔除け・怨霊退散を期待して初期の平安朝に受け入れられたのだとしたら、不動明王を中心とする五大明王は代表的な例だ。現にたとえば京都の東寺(教王護国寺)立体曼荼羅の五大明王は空海自身の指導で造られたと考えられる9世紀初頭のものだが、とても重厚な体躯の不動明王坐像を中心に、他の四明王も恐ろしげな、迫力ある造形だ。なにしろ降三世明王は過去・現在・未来つまり時間を超越しインドの最高神シヴァとその妻を踏みつけ、大威徳明王は死を象徴する水牛に乗って死を超越するというし、中央の顔は目が四つある異形の金剛夜叉は元は人を襲う夜叉つまり鬼でしかも金剛つまりダイヤモンドで武装している最強の魔神が大日如来に帰依したという。軍荼利明王の軍荼利はサンスクリット語の当て字で「クンダリン」、疫病をもたらすガネーシャ神を調伏する大蛇の化身の夜叉つまり鬼が大日如来に従った神というから、いずれも由来や法力も文字通り、いかにも最強な感じだ。

それが京田辺市の寿宝寺に伝来する12世紀の降三世明王と金剛夜叉明王は、確かに東寺の像とおなじ経典、おなじ約束ごとに従った要素はきちんと踏まえているものの、線が細く、まるで体操選手か軽業師のような軽やかだ。

降三世明王立像は古代インド神話の最高神のシヴァとその妻のパールヴァティーを踏みつけているのが約束事だが、この像はどうにも「踏みつけている」と言う感じではなく、たいして重量もかけずにただ上に乗っているだけか、日本の修験道に固有の山岳に宿る神であり仏の蔵王権現にも似た造形で、アスリートのように身軽に跳躍した足下にたまたま夫婦の神がいるようにすら見えてしまう。

画像: 中央)千手観音菩薩立像 平安時代・12世紀 重要文化財 右) 金剛夜叉明王立像 平安時代・12世紀 左)降三世明王立像 平安時代・12世紀 三体とも 京都・寿宝寺

中央)千手観音菩薩立像 平安時代・12世紀 重要文化財
右) 金剛夜叉明王立像 平安時代・12世紀
左)降三世明王立像 平安時代・12世紀
三体とも 京都・寿宝寺

写真の中央は、同じく寿宝寺に伝来する平安時代後期の12世紀の千手観音菩薩立像だ。観音は正式には「観世音」、世界のすべての衆生が発する音を「観る」、そしてその衆生を憐れみ救う「菩薩戒」の実践で如来へと進化する悟りを目指す、明王たちとは別の意味で「最強」と言えそうな救済の菩薩で、日本では仏教伝来の当初から崇拝され、たとえば聖徳太子が観音菩薩の生まれ変わりという信仰は太子の死の直後に成立している。

とくに千手観音は、あらゆる救いのニーズに対応できるように千種類の手を差し伸ばした姿だ。

降三世明王と金剛夜叉明王はたいていワンセットの五大明王の一部として造られたはずだが、二尊だけが伝来している。元からこの2体だけが造られたのか、五大明王の2体だけが残ったのかは分からない。2体の明王が観音菩薩の脇侍として、この3体がワンセットとして造られたわけではないだろうが、千手観音の無数の腕の描く円弧が2体の明王のスッキリした直線の組み合わせのアクロバチックな動きと絶妙に呼応していて、元から三尊像として造られたかのように不思議とバランスよい組み合わせになっている。

この千手観音も珍しい形だ。通常は1本の腕で25本を表象させて、合掌する手を合わせて42本の腕で千の手を表現するのが、この像は本当に千本の手があるようだ。こうした例は奈良時代の作例で奈良・唐招提寺の金堂の千手観音立像、大阪府藤井寺市の葛井寺の千手観音菩薩坐像が知られる(どちらも国宝)。

画像1: 千手観音菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・寿宝寺 重要文化財

千手観音菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・寿宝寺 重要文化財

もっとも、本当に千本あるのかどうかは数えてみないとわからないが、いずれにせよどうしても大変なボリュームと分厚さになってしまうことは、横から見ると明かだ。

ところが正面から見ると、あくまでも品よく綺麗にまとまっていて、厚みもボリュームも過剰にならない。唐招提寺の立像や葛井寺の坐像は大きさも大きさなので、膨大な数の手がある種の威容と迫力を発散しているのが、この像は大量の腕という無理がある設定にも関わらずまるで破綻も逸脱もなさ過ぎて没個性にも見えかねないというか、通常の42本の腕の千手観音よりも均整が取れて見えるほどで、まるで不自然さを感じさせない。

左右(ほぼ)千本の腕が描く円弧が、ちょうど観音の顔の髪の生え際につながっている。千本の手はそれぞれに観音による救済を表し、そんな救済を切実に願うためのこの像は、あたかも大輪の花のように見える。

画像2: 千手観音菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・寿宝寺 重要文化財

千手観音菩薩立像 平安時代・12世紀 京都・寿宝寺 重要文化財

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