鎌倉時代、そして仏教は真に「日本人の宗教」になった
浄瑠璃寺の本尊が薬師如来から九体阿弥陀になった背景には、日本社会における仏教の役割と、担い手の変化があったと考えられる。飛鳥時代、奈良時代から平安初期にかけて、仏教は東アジアの先端文明地域だった中国大陸、特に最も栄えた中華帝国の唐から伝わった最先端の思想・文化・文明と(当時でいえば)先端科学技術が統合された文化体系だったと同時に、朝廷がその仏教に求めたのは、天災・厄災・疫病から社会の全体を守る「国家鎮護」だった。
国家こそが仏教の担い手であり、聖武天皇の国分寺・国分尼寺や東大寺などは大規模な国家事業だったし、たとえば平安京・京都の周囲の真言宗の大寺院の多くが平安時代の初期の創建だが、仁和寺、大覚寺、醍醐寺などはいずれも天皇が開基(寺院の創設のスポンサー)となった勅願寺で、国家事業的な規模で造営された。
「国家」と言っても平安朝の政治を動かしていたのは貴族たちだ。庶民も当然巻き込まれる水害などの天災や疫病を防ぐ祈りを込めて怨霊封じの憤怒相などの畏怖・威圧感のある仏像が造られたのには、たとえば最澄が説いたような「菩薩戒」の「利他行」、治水・土木の公共工事にも尽力した空海の「利他行」のような慈悲・慈愛がなかったとまでは言わないが、現実問題として民が苦しみ人口が減少すれば労働力不足で農業生産も激減するなど、国家そのものが立ち行かなくなる。現にたとえば聖武天皇が墾田永年私財法を決めたのも、天然痘で人口が激減して律令の公地公民制度が崩壊に瀕し、働き手がいない農地が荒廃する一方で土地から逃亡する農民も多く、農業生産も激減していたからだ。
貴族たちの政治が400年近く続いた平安時代も安定期に入ると、おなじ貴族階級の祈りでも、国家政治の担い手としてよりも彼ら自身、その個人としての苦しみや悩みの救済を祈ることが目的になったのが、早い時期では岩船寺の像に見られるような女人成仏の本尊としての普賢菩薩の像や仏画だったり、やがては神仏への寄進によって功徳を積めるという考えから財力を惜しげもなく注いだ、華麗な仏教美術だったのではないか? 最高権力者の地位に到達した藤原道長が巨額の財産を寄進して法成寺を建立し、最晩年には日々「南無阿弥陀仏」の念仏を何万回も唱え続けたのも、自らの死への恐怖からだけは、どれだけ権力を手にしようが逃れられなかったからだろう。
浄瑠璃寺の諸仏などに見られる平安時代後期の仏教美術の華麗さには「贅沢な貴族が金にあかせた」という批判もあり得るだろう。しかし日本の仏教が国家規模・社会全体の災厄への対応から、個人の苦悩や人間の実存そのものに関わる問題、人はなぜ生きなぜ苦しみ死ななければならないのか、親しい者や愛する人たちは死別した後どこに行ったのか、二度と会うことは叶わないのか、といった人間存在の苦しみや悲しみの根源に向き合う仏教となって、より思想的な深化を遂げたことも否定はできない。
国家事業としての祈りから、貴族たち個々人が自分と向き合う祈りという変化の結果が、仏像の「和様化」、畏怖や威圧感に圧倒されつつ降魔・怨霊退散の効果も期待された仏像から、より軽やかで装飾的、時にかわいらしくさえある穏やかな、心地よい親しみのある美しさの仏像への、変遷の背景にあったのではないか? そしてその担い手が貴族たちだったことから、仏像も華麗に洗練された豪華なものになったのだろう。
その精華がたとえば浄瑠璃寺の九体阿弥陀や四天王像、地蔵菩薩立像に見られる、平安後期の美術の華麗な美であるのはしかし、政治的にも、そして仏教本来の平等思想からしても、財力があるから救済され貧しい庶民は無視というのなら、それは「腐敗」でもあろう。この2〜300年ほど後には、ヨーロッパでは教会が「免罪符」、つまり金の力で原罪を逃れられるというお札の販売を始めたことを契機に、聖書そのものの文面に原点回帰を主張するプロテスタントの宗教改革が始まったのだが、鎌倉時代の日本の仏教はおなじような歴史を先取りしている、とも言えるかも知れない。
特に源平合戦の平家の南都焼き討ちでほとんどの大寺院の伽藍が焼失した奈良では、新たな統治者である鎌倉将軍ら武家階級の財力で復興が行われる一方で、政治権力とその財力に依存し、自らも荘園領主として民衆を搾取することもあった既存の仏教への疑問も生まれた。
一方で平安時代後期の院政期から鎌倉時代にかけてには社会そのものに、鉄製の農具の普及などの生産技術の向上や、宋から輸入された銅銭が貨幣として流通し始めたことによる貨幣経済の萌芽も見られ、平安時代には貴族たちからあまり人間扱いすらされていなかった庶民層が鉄製の農具を自ら所有するなどして一定の力を持ち始め、やがては荘園領主にも対抗し得る自律的な共同体を成立させる、古代の社会構造から中世社会への移行が始まる大きな変化もあった。
興福寺の出身で南山城の笠置寺に入り、晩年には「藤間山観音寺」を「補陀落山海住山寺」として復興させようと志した解脱上人・貞慶も、そうしたいわば「日本の宗教改革」の担い手の一人であり、奈良では叡尊が西大寺の中興となって真言密教に鑑真の律宗の教えを加えた真言律宗を興す(浄瑠璃寺もこの宗派の寺院になった) など、その仏教の原点回帰の思想的な礎になったのは釈迦の教えに遡る「戒律」だった。釈迦の説いた「戒律」は本来、それを踏襲することで身分出自に関わらず誰もが等しく悟りや解脱、救済に向かうことができるはずのものだ。
また南山城地方はもともと奈良時代に戒律の中でも「菩薩戒」を実践して治水事業や庶民救済、民衆の教化に力を尽くした行基が活躍した地域でもある。たとえば現在の木津川市の西の方の木津川にかかる泉大橋は、行基が指揮して造った橋だった。その行基を生きた菩薩、あるいは文殊菩薩の生まれ変わりとみなす信仰も、この地方で鎌倉時代に盛んになっている。
こうした戒律や行基の遺業を復古するような南山城の仏教の「奈良時代回帰」とも言えそうな運動を、ある意味で象徴しているのが、木津川市の海住山寺の南東にある現光寺の、十一面観音菩薩坐像だろう。
鎌倉時代後期の、慶派の仏師が関わったと考えられる像だ。
十一面観音は海住山寺の2体や禅定寺の像がそうであるように、立像で表されることがほとんどなので、この像が坐像なのは極めて珍しい。慶派というと運慶に始まり、身体的なリアリズムの力強い肉体表現が特徴のひとつだが、この観音像は細身で繊細な造形で、衣のひだのシャープな彫りも深く凝った表現が慶派らしい一方で、そこも含めて奈良時代の木心乾漆像の観音像を明らかに意識しているように思われる(ちなみに南山城では、京田辺市の大御堂観音寺に奈良時代の木心乾漆十一面観音菩薩立像が伝来している・国宝)。
残念ながらこの像がふだん安置されている現光寺は、17世紀以前の記録がまったく残っていない。この像がどんな経緯で造られたのか、元からこの寺にあったのかなども不明だ。現在は無住の寺で海住山寺が管理を引き受けていて、限られた時期にしか公開できないため、この展示が貴重な機会なだけではない。
写真で手前に写っている白い長方形は照明を反射させて下からの反射光で満遍なく照らし出すための鏡だ。仏像の魅力を最大限に引き出そうとする細かい工夫もあって、漆を塗って金箔を貼った漆箔の表面がひときわ光り輝く。漆箔は仏の身体が金色の光を放つと経典にあることに従った表現であり、過去の人々がいかにこうした金色に輝く仏像にこの世を超えた神聖さを見たのかが、追体験できそうだ。
慶派を興した運慶と快慶も、解脱上人貞慶と同じ興福寺の出身だ。慶派は運慶が中心となって鎌倉・東国の武家の政治との繋がりも深めたが、源頼朝が出資した東大寺復興の、南大門の巨大な金剛力士像を運慶とともに完成させた快慶は、やがて運慶とは別の道を模索し始める。
宇治田原町の極楽寺に伝わる阿弥陀如来立像は、その快慶の弟子にあたる行快の作だ。衣のひだがリアルで彫りが深いこと、平安時代中後期のようにパターン化されていないこと、顔や身体の表現に張りがあるところなどは慶派の特徴だが、快慶とその系譜は運慶のような筋肉の緊張感と迫力ある存在感とはやや異なり、より均整の取れ細部まで緻密・丁寧に造形した、穏やかさや端正さを探求し、そうした仏の姿の美しさで信仰心を呼び起こすような作風だ。
この行快の像で衣の裾が足首より長く、足の甲に自然にかぶさって地面に向かって流れる曲線の美しさなどは、師・快慶譲りの優れた技巧だ。ここが難しいので裾がくるぶし丈の仏像も多い。顔は快慶とはまた異なって行快らしく目が少し吊り上がり、キリっと凛々しい印象がある。
藤原道長が法成寺に造らせたような、あるいは浄瑠璃寺の中尊も含む平安時代後期の丈六の大きな像とは対照的な、小ぶりというかちょうど手頃の大きさの阿弥陀如来の姿だ。このような大きさの阿弥陀如来は快慶が膨大な数を造っていて、今でも全国で真作が新発見されたりしている。
こうした阿弥陀像は快慶の法号「安阿弥陀仏」から「安阿弥様」と呼ばれる。その師・快慶の「安阿弥様」の高さ三尺の阿弥陀像と同様に、弟子・行快のこの阿弥陀如来立像からも、胎内には造られた経緯が分かる文書が納められていた。
左の文書はこの像を造るために私財を寄進した人々やその寄進で供養された人たち名簿だろう。展示部分には行快の師・快慶の名も見える。快慶の場合こうした胎内納入文書の名簿には、遊女と思われる名や、人身売買の被害者か差別されていた賎民と思われる記載もあったりして、仏教への帰依が身分制社会の厳格な身分差すら超越した結びつきを産み出していたとも推察される。右の紙の無数の仏の姿の印判は、そうして仏を精神的な中心として結縁した一人一人が、祈りを込めて押したものだろうか?
解脱上人・貞慶が南山城で布教に励んだ対象も一般の民衆であり、笠置寺や海住山寺の復興を支えたのも、あるいは行快の阿弥陀像の造立を支えた担い手も、もはや朝廷や貴族の権力者たちではなく、民衆の中で寄進ができる程度の力や余裕は持ち始めた人々、あるいは貧しい暮らしの中からそれでも寄進した人々だ。こうして仏像や寺院は一定の自律性を持つようになったコミュニティの精神的な中心となって、仏教は日本人全体の心の支えの信仰、真の意味での宗教となって行く。
行快の阿弥陀如来は、片足を前に踏み出している。
海住山寺の檀像の十一面観音菩薩立像が足を踏み出し始める動きのように膝を軽く曲げることで、仏像に生身の人の息吹を再現しているのだとしたら、この阿弥陀如来立像が踏み出したこの一歩は、仏を信じその教えを生きる上での道徳の規範とし、仏の救いを求めることを日々生きる上での支えとした人々へと向かって、歩き出す一歩なのだろう。
浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念 特別展「京都 南山城の仏像」
2023年9月16日(土)〜11月12日(日)
開館時間 : 午前9時30分~午後5時(入館は閉館の30分前まで)
休 館 日 : 月曜日(ただし10月9日は開館)、10月10日(火)
会 場 : 東京国立博物館(東京・上野公園) 本館特別5室
観覧料(税込)
当日 | |
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一般 | 1,500 |
大学生 | 800 |
高校生 | 500 |
中学生以下無料。
障がい者手帳をご提示の方とその付添者1名は無料。
学生の方は入場の際、学生証をご提示ください。
※チケット購入サイトはこちら
主 催 : 東京国立博物館、日本経済新聞社、テレビ東京、BSテレビ東京
協 賛 : JR東海、竹中工務店、NISSHA
特別協力 : 京都南山城古寺の会
公式サイト https://www.minamiyamashiro-koji.jp/jp/
お問い合わせ : ハローダイヤル 050-5541-8600
展覧会公式サイト : https://yamashiro-tokyo.exhn.jp/
招待券読者プレゼント
下記の必要事項、をご記入の上、「京都 南山城」@東京国立博物館 シネフィルチケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上3組6名様に、招待券をお送り致します。この招待券は、非売品です。
転売業者などに転売されませんようによろしくお願い致します。
☆応募先メールアドレス miramiru.next@gmail.com
★応募締め切りは2023年10月2日 月曜日 24:00
記載内容
1、氏名
2、年齢
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