国宝・叡尊坐像〜重源上人坐像と並ぶ「生身」リアリズムのクライマックス

画像1: 国宝 叡尊坐像 善春作 鎌倉時代・弘安3年(1280) 奈良・西大寺 展示期間 5月20日〜6月15日

国宝 叡尊坐像 善春作 鎌倉時代・弘安3年(1280) 奈良・西大寺 展示期間 5月20日〜6月15日

重源上人坐像と並ぶリアルな、生き写しのような肖像彫刻の傑作、奈良・西大寺の中興・叡尊の坐像と、釈迦の生き写し像として広く信仰されてきて、叡尊も深く崇敬した清涼寺の釈迦如来立像が展示替えで登場するのも、後期(5月20日〜6月15日)のもうひとつの重要な目玉だ。

またこの二作品が加わることで、本展の第三章「釈迦を慕う」の展示の文脈が変化し、より深化している。

長い眉毛と、小鼻から深く刻まれたほうれい線が特徴的な、写実を徹底した顔や、よりリアルに不規則な曲線のひだが入り組んだ鎌倉時代らしい衣の表現以上に、この肖像彫刻に「あっ!」と思わず声を上げるほど驚かされる、まさに生身の像主本人と向き合ったような感覚を呼び起こすのが、膝にやわらかく置かれた手のリアリズムだ。

東大寺の重源上人坐像の、高齢の身体の衰えを克明に映し取ったような猫背の姿勢に比べ、この像が造られた当時の叡尊は、まだまだ骨格がしっかりしていたのだろうか? それとも真っ直ぐの背筋が通った姿勢の良さは、理想化された表現なのか? しっかり下腹部に力が入った安定した座り方で、だからこそ肩から腕へのラインは自然に力が抜けていて、それが生身の手を石膏かなにかで型をとったのではないかと思わせるほど写実的な手につながっている。

画像2: 国宝 叡尊坐像 善春作 鎌倉時代・弘安3年(1280) 奈良・西大寺 展示期間 5月20日〜6月15日

国宝 叡尊坐像 善春作 鎌倉時代・弘安3年(1280) 奈良・西大寺 展示期間 5月20日〜6月15日

いや型取り成形では、右手の指の微妙な力の抜き加減までは表現できまい。払子(棒の先にふさふさとした毛がついた、元来は虫を払う道具)を持つ左手は、実際にはこんな力の抜けた柔らかい持ち方はなかなかしないだろうが、そこがかえって生身の高僧の手のやさしい体温まで感じさせる、成熟して考え抜かれた身体のリアリズム表現だ。

5本の指が自然に、自在に動いた一瞬を捉えたかのような右手は、まるで音楽でも奏でているかのように軽やかだ。

叡尊は鎌倉時代に仏教の担い手が貴族や朝廷から一般庶民へと裾野を広げていく歴史で最重要の仏教指導者のひとりだ。空海の真言宗の密教思想を受け継ぎつつ、奈良時代の鑑真への回帰、戒律の重視を融合させた「真言律宗」を興し、奈良時代に東大寺と並ぶ東西の大寺だった西大寺を、復興したことでも知られる。

鑑真を深く崇敬してその律宗の、戒律の教えを引き継いだ叡尊は、鑑真が最晩年に死期を悟り、弟子たちのために自分が去った時のための生き写しの像を作らせたことに倣ったのか、自分の存命中に弟子たちとも協力しながらこの自らの像を作らせた。

繰り返すが生前に肖像画や肖像彫刻を作ることは、日本ではかなり稀だ。映像は体内には膨大な経典や願文などの文書、小さいながら極めて精巧な八角の五輪塔などを納入していて、今回は像から出して展示されている。

画像: 国宝 叡尊坐像の像内納入品 鎌倉時代・13世紀 奈良・西大寺 展示期間 5月20日〜6月15日

国宝 叡尊坐像の像内納入品 鎌倉時代・13世紀 奈良・西大寺 展示期間 5月20日〜6月15日

先述のように唐招提寺の鑑真和上坐像(奈良時代、国宝)は死期を悟った鑑真が生き写しのリアルな肖像を、死後も弟子たちを見守るために造らせたと伝わる。一見静かに坐禅を組む姿のようでいて、瞑想の定印を組む手が体の中心線から大きくずれ、親指に十分に力が入らず開き気味になって、前に出てしまっている。よく見ると実は、懸命に、体が崩れて倒れてしまわないように、自分を支えながら坐禅を組んでいる姿だっだ

鑑真の故郷の唐時代の中国では、高僧の亡骸をそのまま漆で固めるなどして仏像として祀ることもあった。鑑真和上坐像は脱活乾漆像だが、極めて写実的なだけでなく、まつ毛や髭に鑑真本人の毛が埋め込まれている。唐に留学して帰国した天台宗の第五代座主・円珍(本展では唐に渡った際の関連文書が展示されている)の遺骨は、園城寺(三井寺)唐院大師堂に祀られた円珍坐像の中に収められているとされる(お骨大師)

国宝 叡尊坐像の像内納入品のうち 八角五輪塔 鎌倉時代・13世紀 奈良・西大寺 展示期間 5月20日〜6月15日

叡尊の場合、自らの分身とも言える像の体内に納めたのは自分の肉体の一部たるなにかではなく、その信仰と哲学、自らの精神的存在のすべてを、自らの分身像の中に込めたのだ。

叡尊の生き写し・分身が見る世界の中の「釈迦を慕う」、釈迦の生き写し像と舎利

展覧会の展示構成として意外なのは、この叡尊の生き写し・分身が「釈迦を慕う」と題した第三章の部屋の端、博物館西新館の北側のギャラリー全体を見渡せる中央に置かれていることだ。前期の展示ではここには飛鳥時代に生前の釈迦の姿とされた図像を表した、奈良国立博物館所蔵の刺繍釈迦如来説法図(飛鳥時代・国宝)が掛けられ、いわば「すべてお釈迦さまのコーナー」だった。

なぜその中心となる位置に、釈迦の姿ではなく今度は叡尊の分身像があるのか?

画像: 第三章・「釈迦を慕う」の後期展示風景。叡尊の分身像の前に釈迦の遺骨の断片を納めた舎利容器と、左端の白い台の上・画面すぐ外に国宝・清涼寺釈迦如来立像が。つまりこの空間の全体が、叡尊が様々な釈迦の姿を見ているように構成されている。

第三章・「釈迦を慕う」の後期展示風景。叡尊の分身像の前に釈迦の遺骨の断片を納めた舎利容器と、左端の白い台の上・画面すぐ外に国宝・清涼寺釈迦如来立像が。つまりこの空間の全体が、叡尊が様々な釈迦の姿を見ているように構成されている。

この最初の部屋の中央には金銅の舎利容器二点、北側には奈良時代から平安初期にかけて生前の釈迦の姿と信じられた左足を上にした結跏趺坐の室生寺の釈迦如来坐像と、前期には叡尊が造らせた二体の清涼寺式釈迦如来坐像の写しのうち一体が展示されていたのが、後期展示でそこに置かれているのが元になった清涼寺の釈迦如来立像(国宝、中国・北宋時代 雍熙2年8[985]、張延皎・張延襲 作)だ。

つまり釈迦の「生き写し」表象と、舎利つまり釈迦の遺骨の断片を収めた容器が、いずれも叡尊の分身像の前、その視界の中、叡尊が見ているものとして、並べられている。

とりわけ清涼寺の釈迦如来立像は叡尊にとって、写しを造らせて西大寺の本尊とするほど特別な像だった。宋時代の中国に渡った東大寺の留学僧・奝然が開封から持ち帰ったもので、生前の釈迦の姿とされる像がその都市にあり、感銘を受けた奝然が写しを造らせたと伝わる(出発の前夜に写し像がオリジナルと入れ替わった、という伝承もある)。

叡尊がこの清涼寺釈迦をいかに崇敬していたのかは、叡尊坐像の納入文書の一つ、自誓受戒記等に自ら記している。

国宝 叡尊坐像の像内納入品のうち 自誓受戒記等 鎌倉時代・13世紀 奈良・西大寺 展示期間 5月20日〜6月15日

展示で見える部分の、上の写真の四行目の下に、夢に浮かんだ「第一之霊像」と書かれているのが、清涼寺釈迦如来立像のことだ。

極めて写実的な製像や車源上人像が造られた鎌倉時代は、絵画でも平安時代のいわゆる引き日
身の抽家化を刷新した「似絵」、顔の特徴を捉えたリアルな描き方が流行した時代だし、現代人の我々には、極めて様式化された表現の清涼寺釈迦如米が「釈迦の生きらし」と信じられたことには正直、違和感はあるのは、詳しくは前期展示についての紹介記事に書いたように通りだ。だが今回、その大元になった清涼寺の本尊を見ると、数多くあるその写しが、このいわばオリジナルとかなり異なっていることにも気付かされる。

あるいは、実在の釈迦は北インドのシャカ国の王子シッダールタだったわけで、つまり「天竺」の外国人だから、というのであれば同心円状にバターン化されたとぐろを巻いた毛髪と、やはり同心円のパターンを基調とした衣のひだの様式性はともかく、清涼寺の像は顔立ちの彫りが確かに深くインド風とも思える。日本の通常の仏像では髭は彫刻ではなく墨などで描かれ、清涼寺式釈迦如来の多くも同様で、髭は目立たないか見えなくなっているのが、しっかり彫られていて際立って見えるのが清涼寺のオリジナルだ。

通例の如来像は衣が大きく開いて胸を見せるのが、首元まである衣を着ているのが清涼寺式の特徴だ。頭の螺髪が縄のように連なった同心円状のパターン、衣にもその同心円のパターンが見られるのが、清涼寺のオリジナルのひだは均一ではなく太さを微妙に交互に変えていたり、またいわゆる清涼寺式の多くに比べて胸や腹部、両足の起伏も明確で抑揚に富んでいる。

逆に言えば今回はじっくり見られる清涼寺式釈迦如来の大元の清涼寺の本尊像と、全国に77、もしかしたら80以上は造られたという説もある写しの違いもまた、仏像の「和様化」、表現が日本的になった、とは言えないだろうか?

清涼寺の本尊は秘仏で、毎年一定期間の公開はあるが、高い須弥地の上の厨子の中で、近くで見られることは滅多にない。この展示で間近でじっくり見られると、ユニークな造形ながらとても美しい、傑出した彫刻であることがよく分かった。その表現の強度は、確かにリアリズムの像ではないのだがそれでも「生き写し」と信仰されるだけのことはある、とも実感させられた。

鎌倉時代の日本では仏像の眼に水晶やガラスを嵌め込んだ「玉眼」がよりリアルな実在感のある仏の姿として流行したが、清涼寺釈迦の眼は瞳がしっかり彫刻で表現されているのも、日本にはあまりない。玉眼つまり目にガラスではなく、耳に水晶が埋め込まれているので、ここはぜひ注目して頂きたい。

今回の展示ではその耳の水晶がよく見えるよう、さりげなくスポット照明も当てられている。

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