奈良国立博物館の同窓会オールスターズ?
「試みの大仏」、東大寺の弥勒如来坐像は、今日では東大寺ミュージアムでしばしば展示される国宝だが、かつては奈良国立博物館に寄託されて代表的な展示品のひとつだった。

奈良時代から鎌倉時代まで多様な時代の仏像が並ぶ展示風景。いずれもかつて奈良博に預けられ展示されたか、今も奈良博に寄託されている仏像の名品が揃う。
左から、伝多聞天立像(重要文化財、奈良時代、大安寺)、伝獅子吼菩薩立像(国宝、奈良時代、唐招提寺)、弥勒菩薩立像(鎌倉時代、奈良市林小路町自治会)、薬師如来坐像(国宝、平安時代、奈良国立博物館)、地蔵菩薩立像(重要文化財、鎌倉時代、東大寺)

展示風景。かつて、あるいは今も奈良博に寄託されて保護された三体の仏像。左から弥勒菩薩立像(奈良市林小路町自治会)、快慶作・地蔵菩薩立像(東大寺、重要文化財)、十一面観音立像(霊山寺、重要文化財)
遠目にもただごとでない全体のシルエットの優美な軽やかさだ。 近づいて見るほどに「なんと端正な…」と目を見張り、息を呑むほど、細部に至るまで均整のとれた美意識が行き渡っている。
仏や菩薩、神々は現世・現実、生身の人間を超越した存在であると同時に、あまりに現実離れした美しい表現になってしまっても、人々はなかなかそこに悟りや救済への希望を実感できない。
重要文化財 地蔵菩薩立像 快慶作 鎌倉時代・13世紀 奈良・東大寺 展示期間 5月20日〜6月15日
仏教の教えが庶民にも積極的に布教され、仏教を支えるのが貴族階級を超えて一般庶民にまで裾野が広がった鎌倉時代に、現実的な存在感と神々しさの絶妙な一線を見事に具現したのが、快慶の端正で美しくあることでこそ超越的、それでいてやさしく親しみも覚える仏像だった。東大寺の地蔵菩薩立像はそんな祈りの視覚的表現として屈指の傑作であり、現代の仏師にも強い影響を与え続ける、いわばひとつの規範となった作品だ。
衣の表現は、程よい規則性と変化が入り混じったひだの表現だけでなく、全面に繊細な金の線で多様な紋様が描き込まれている。袈裟の緋色の部分は金箔を極細に切って貼り付けた截金でミリ単位の菱形の格子模様でびっしり覆われ、縦横の黒い太い線も截金の亀甲紋で埋め尽くされている。
重要文化財 地蔵菩薩立像 快慶作 鎌倉時代・13世紀 奈良・東大寺 展示期間 5月20日〜6月15日
たなびく雲に乗った蓮の台座は江戸時代の後補だが、もともと同じような台座だったようだ。こうした姿は春日大社の第三殿の神、天児屋根命の本地仏としての地蔵菩薩として中世に定着していた。
快慶ならではの高い彫刻技術の巧みさでやんわりと足首にかかった衣の裾も、隙間なく截金の文様で飾られている。袖には経年の酸化で黒ずんでいるのは金ではなく銀だろうか、截金らしき花と植物の華やかな紋様も見える。
ふっくらとした下ぶくれの顔は、いかめしさはあるが穏やかだ。全身が緩やかに前傾し、右足をわずかに前に踏み出しているのは、救済のため前に進み衆生に近づく瞬間を表現し、救済のために前屈みになる、鎌倉時代によく見られるポーズだ。右足を前に踏み出す動きから、衣の全体もかすかに後ろにたなびいていて、特に衣の裾の足首の上に柔らかく垂れたそのすぐ上の衣の裾は、踏み出した足の外側の方が左側より大きく広がっている。その踏み出す動きの生み出す斜めのラインから像の全体へと、軽やかな躍動感が広がっていく。
重要文化財指定のこの地蔵菩薩立像を「国宝展」であえて大きく取り上げて「すでに国宝を超えた」と説明パネルに書いているのも「超」国宝展、この場合は「国宝であっておかしくない」「未来の国宝になるべき」という意識もあるだろう。現にこの快慶の中でも屈指の傑作のあまりの美しさに「なぜ国宝じゃないの?」という声が、しきりに観客から聞こえていた
向かって左に展示された弥勒菩薩立像もやはり鎌倉時代の、快慶の流れを汲む仏像だ。
弥勒菩薩立像 鎌倉時代・13世紀 奈良・林小路町自治会
全身が金泥つまり膠で金粉を溶いた金の絵の具で仕上げられているが、衣、とくに膝周りや腰回りに注目して欲しい。金泥の上にさらに細く切った金箔の截金で、精緻な紋様が描き込まれている。同じ金でも金泥と金箔の反射率の違いを活かした華麗な表現だ。なんと奈良市内の自治会に伝来して来た。経済力を身につけた商人たちが資金を出し合って作ったものなのだろう。
地蔵菩薩の向かって右に展示された十一面観音は、これまたまったく異なった「祈りのかたち」の有り様を示す。
重要文化財 十一面観音立像 平安時代・9世紀 奈良・霊山寺
アンバランスに大きな頭部の鷲鼻が際立つ強烈に個性的な顔と極端に短い手足。現代人には異形に見えるか、あるいは悪くいえば「下手」よくいえば「素朴」…という先入観を打ち砕くのは、たとえば腰回りの衣に見られる驚異的にシャープな彫刻技術の高さだ。
恐ろしげでさえある厳しい顔やある種異様な体つきの仏像は平安時代初期、日本における仏像の主流が木の彫刻に決定づけられる時代によく見られ、このデフォルメされた体型もその異様な迫力こそが、当時の人々の求めた高い霊性の表現だったのだろう。身体表現としてはアンバランスな体つきも、力強くリズミカルに抑揚に富んでもいる。
重要文化財 十一面観音立像 平安時代・9世紀 奈良・霊山寺
肩にかかる髪などは木屎漆の乾漆仕上げで、彩色されていた痕跡も見えるがほとんどの部分を木の素地のままで仕上げた像なのは、日本人が木の仏像を好むようになったこと、そこに木つまり大自然の命の表れがそのまま聖なるものとなるアニミズム的な感覚(大樹を神木と崇め、霊木を神仏の像とする、的な)もあったのだろう。
また唐時代の中国から入った白檀などの硬い香木を用いた仏像の影響でもある。
素材の香木は東南アジア原産、中国・唐から奈良・平安の時代の変わり目の日本へと続く、「檀像」大集合
重要文化財 十一面観音立像 中国・唐時代・7世紀 東京国立博物館
東南アジアで産出する香木の白檀で作られ、当時の東アジアの唐を中心とした国際的な文化交流を象徴するかのような像。明治の神仏分離令以前までは、以降「談山神社」になった藤原鎌足を祀る多武峰妙楽寺に伝来した。
霊山寺の不思議な十一面観音も影響を受けているに違いない(観客から「さっき見なかった?」との声も)、白檀製の十一面観音立像(東京国立博物館)も、「なぜ国宝になっていないのだろう?」と思ってしまう。明治の神仏分離で寺院が神社になった多武峰(談山神社)から流出した時点では危機的な状況にあっても、国立博物館に所蔵されれば安全なので、指定の必要がないのだろうか。現に国立博物館所蔵の仏像で国宝指定されているのは本展でも展示されている奈良国立博物館の薬師如来坐像だけだ。国宝・重要文化財というのは所有者に万全な保護を義務付け、国も責任を負って修理費用の助成などを行うことを義務化した文化財保護制度でもある。

「檀像まつり」と言いたくなるような展示風景。中国・唐時代(十一面観音立像、東京国立博物館、重要文化財)から奈良・平安の時代の変わり目(菩薩半跏像、宝菩提院願徳寺、国宝)、平安時代初期(虚空蔵菩薩立像、醍醐寺、国宝)の一木造り、木の素地を活かした彫刻の神々しいまでの精緻さが眩しい三体を一堂に展示。
白檀は東南アジアでしか産出しなかった高価な香木で、唐時代の中国で観音像に加工され、それも彫りの深い顔立ちとはっきりした眼などインドの影響を感じさせる造形で、それが奈良時代の日本に渡来した、というのは当時の唐を中心とした活発な国際交流の象徴みたいな作品でもある。それ自体が彫刻として優れているだけでなく、日本でこうした硬質な材木を用いてシャープな彫刻技術を見せる「檀像」が流行することの契機となったと考えられ、飛鳥時代以降の日本美術史において歴史的にも重要な像だ。
白檀のような香木は高価で、 そもそも日本では唐経由の輸入でしか入手できなかったので、カヤあるいはサクラのような硬い国産材が代用されるようになった。代表的な例が醍醐寺に「聖観音」として伝来し、最近になって文書記録から来歴と、虚空蔵菩薩であったことが判って国宝に指定された作品だ。頭頂部から蓮台の中心部分までが一本のカヤから彫出されている。
国宝 虚空蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・醍醐寺
一本の木と知ってますます驚かされるのが、恐ろしく緻密で複雑な衣だ。それにしても唐で作られた十一面観音と比較して、この衣のひだの凝りに凝った彫り方は、一体なにごとなのか?
背中に至るまでまったく隙がない。リアルといえばリアルだが、実際にはこんなに豊かなドレープが現れるのはよほど柔らかくて重みのある布地だけだろうし、ならばこのような軽やかでリズミカルな躍動感にはならない。実物大・等身大ではなく小さな像なので、ますますひだの密度が際立つが、人体のサイズでも特に左右の肘から垂れる天衣が大きく後方にたなびいているところなど、完全にリアルを超えていて、現実にはあり得ない。
国宝 虚空蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・醍醐寺
衣のマニエリズム的な極端な凝り方や、足の甲が極端に高く、指先まで緊張感が溢れる力強い、磨き上げられたような体躯との対比で際立つのが、顔と髻(もとどり)を結った毛髪が、荒っぽいまでに極端に簡略化されてスパッ、スパッと呆気なく彫られていることだ。そういえばこの同時代か少し前の神護寺の本尊・薬師如来立像(カヤ製だが、「白檀」の像とする文書記録がある)も昨年に東京国立博物館で展示された時によく見えたのだが、ぬめるような衣のひだの表現の一方で、顔の仕上げはわざと鑿の痕を残していた。








