国宝 薬師如来立像 奈良時代・8世紀 奈良・唐招提寺

唐時代の中国の木彫技術が奈良時代から平安時代初期の日本に導入されると、衣の表現が極端に凝ったものになるというのは、今回の「超 国宝」展では鑑真が日本に同伴した仏師が関わった唐招提寺の一木造りの薬師如来立像と、数十年後の元興寺の薬師如来立像(前者はかつて奈良博に寄託、後者は今日でも「なら仏像館」を代表する展示品)の二体を並べた展示でも印象的だ。

国宝 薬師如来立像 平安時代・9世紀 奈良・元興寺

大きさもほぼ同じ、極端にたくましい太ももの表現や腹部のくびれや膨らみなど、共通しているところも多い。腹部から太ももにかけての衣のひだも位置など基本的に同じなのだが、しかしすっきりと浅めにまとまった唐招提寺の像に対して、元興寺の像のひだの深さと丸みのぬめるような表現はいったい、どういうことなのだろう?

「日本ならではの美意識」あるいは「表現の日本化」ということが我々が普通に考えているよりもはるかに多様で奥深く、時代ごとに異なり、謎めいてもいることを考えさせられる。

国宝 薬師如来立像 平安時代・9世紀 奈良・元興寺

檀像や檀像風の表現が日本で発展するなかでの衣の、布地の表現への極端なこだわりといえば、その最高峰はやはり宝菩提院願徳寺の国宝・菩薩半跏像(平安時代・8世紀)だろう。前期では最後の「弥勒下生」の光の部屋に展示されていたのが、後期では『第4章・美麗なる仏の世界』の二体の檀像の前に移り、冗談半分で言えば「檀像まつり」、硬い材木の質感に精緻な木彫技術が輝かしい檀像好きには、たまらない展示空間になっている。

画像1: 国宝 菩薩半跏像 平安時代・8世紀 京都・宝菩提院願徳寺

国宝 菩薩半跏像 平安時代・8世紀 京都・宝菩提院願徳寺

優雅に片足を下げて腰掛けるポーズの下半身にまとわりつくような、凝りに凝った複雑な曲線が幾重にも重なった衣の自在な躍動はなんたることか! 彫刻なのだからもちろん動かないはずが、うねる曲線はあたかも壮大な運動の一瞬を捉えて固着させたかのように脈打っている。

なおこの像、具体的になに菩薩なのかを特定できる要素がなく、前期では弥勒菩薩という見立てで最後の光の部屋にあったが、後期では法華寺の阿弥陀三尊および童子像の、阿弥陀如来の前に置かれているので観音菩薩、という見立てだろう。

画像: 国宝 阿弥陀三尊および童子像 平安時代〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良・法華寺 展示期間 5月20日〜6月15日 赤い衣で手は説法印を結ぶ阿弥陀如来は、西方極楽浄土に生まれ変わった者たちに教えを説く姿。左幅には死者の魂を運ぶ蓮台を持った観音菩薩と、その上に天蓋を差し掛ける勢至菩薩。右幅は赤い幡を奉ずる童子。奈良時代の図像構成が残った珍しい作例

国宝 阿弥陀三尊および童子像 平安時代〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良・法華寺 展示期間 5月20日〜6月15日
赤い衣で手は説法印を結ぶ阿弥陀如来は、西方極楽浄土に生まれ変わった者たちに教えを説く姿。左幅には死者の魂を運ぶ蓮台を持った観音菩薩と、その上に天蓋を差し掛ける勢至菩薩。右幅は赤い幡を奉ずる童子。奈良時代の図像構成が残った珍しい作例

観音菩薩の通例の表現の約束事である頭上の化仏は阿弥陀如来で、観音は阿弥陀の化身、あるいは菩薩つまりまだ悟りの前段階なので、将来阿弥陀如来に到達する修行中の姿ともみなされる。阿弥陀が死者の魂を浄土に誘うために来迎する時に付き従うのが観音と勢至の両菩薩で、よって阿弥陀三尊の構成も中尊の阿弥陀如来、左右の脇侍が観音・勢至だ。ただし法華寺に伝来したこの図像では、阿弥陀の左右ではなく右に観音・勢至が付き従う。

この菩薩半跏像は、奈良から平安初期の時代の代わり目だからこそ生まれた驚異の傑作だ。奈良時代には木彫だけでなく先述のような乾漆や、塑像、大仏のような銅造など、さまざまな手法で仏像が作られ、そこで追求されたことのひとつはリアリズム、活き活きと張りのある肉体表現だった。この菩薩半跏像は最高レベルの木彫技術で上体は菩薩の半裸の肉体をスッキリと流麗に理想化された美と、艶やかに磨け上げた木の素地で表現しきっている、その一方で下半身を覆う衣は、複雑なひだの曲線を幾重にも重ねたリアリズムを超えた超越的なリアリティが、上半身の官能的なまでの優美さ、肉体の実在感と破綻なく絶妙なバランスを構成している。

国宝 菩薩半跏像 平安時代・8世紀 京都・宝菩提院願徳寺

前期の展示場所に引き続き後期でも360度どの角度からも見られる。美しく張りのある肩の曲線や精緻な衣、腰の真後ろに見えるベルトの留め金など、一分の隙もない完璧な彫刻だ。素地の木材のかがやきも、またとてつもなく艶やかで美しい。

こうした奈良時代の肉体表現の迫真性を学んだのが、興福寺に属する僧侶でもあった鎌倉時代の新しい仏師たち、快慶や運慶の慶派だったことが、後期の展示では運慶の大日如来坐像(奈良・円成寺)が宝菩提院願徳寺の菩薩半跏像と同じ部屋、その前に展示されていることで、よりはっきりと理解もできる。

画像: 国宝 大日如来坐像 運慶作 平安時代・安元2年(1176) 奈良・円成寺 後期では光背がはずされ、「逆三角形のアスリート体型」と言えそうな背中がよく見える

国宝 大日如来坐像 運慶作 平安時代・安元2年(1176) 奈良・円成寺
後期では光背がはずされ、「逆三角形のアスリート体型」と言えそうな背中がよく見える

国宝・重源上人坐像と生身の実存、「生き写し」への深い憧れ

今回の展覧会で個人的に見た瞬間に思わず「あっ!」と声をあげてしまうほど感銘を受けたのは、(以前から知っていた作品ではあっても)東大寺の重源上人坐像だ。

画像: 国宝 重源上人坐像 鎌倉時代・13世紀 奈良・東大寺 平家の南都焼き討ちで大仏殿などを焼失した東大寺の復興に尽くした重源の最晩年の姿を克明に描写した肖像彫刻の傑作。作者には東大寺の復興でも活躍した運慶が推定される。

国宝 重源上人坐像 鎌倉時代・13世紀 奈良・東大寺
平家の南都焼き討ちで大仏殿などを焼失した東大寺の復興に尽くした重源の最晩年の姿を克明に描写した肖像彫刻の傑作。作者には東大寺の復興でも活躍した運慶が推定される。

あえて背中の写真から紹介したいのは、年に2度、7月5日と12月16日に開帳される東大寺の俊乗堂ではもちろんこんなアングルから見ることはできないのと、その背中の意外な大きさに、この像の秘密を見た気がするからだ。

前から見ると、最晩年であろう老僧の姿だ。背中は丸まり、そのままでは顔も下向き加減になってしまいそうなのが、決然と顔を正面に向けて前方を見つめようと顔をあげ、伸びきった首の筋や腱が、皮膚の下から浮き上がって見える。

国宝 重源上人坐像 鎌倉時代・13世紀 奈良・東大寺

張った頬骨と、対照的に落ち窪んだこめかみと頬。落ち窪んだ目は左右が微妙に非対称で左目が若干位置が低く、大きな手はしっかり数珠を握り締め、その手の甲にも筋が浮き上がっている。

重源は61歳の時、平家の南都焼き討ちで壊滅的な打撃を受けた東大寺の復興を指揮する別当となった。全国での勧進、つまり寄付集めを革切りに、資金だけでなく材木や石材の確保のために地方の行政官のような任までこなす一方で、宋に留学していた経験を活かしそこで学んだ最先端の建築技術を導入、82歳にして大仏殿と南大門の再建を果たした。

86歳で亡くなったのは当時としては異例の長寿、そのおそらくは最晩年の姿を彫刻に刻んだのは、この復興事業で大仏殿の四天王(現存せず)や南大門の金剛力士像などを担当、重源のこともよく見知っていたであろう運慶が推定される。

老いた肉体の衰えを、隠そうともせず美化もしない。「老い」を克明なリアリズムで彫刻しているその姿は、運慶というと思い浮かぶ誇張された筋骨隆々の肉体の躍動とはかけ離れ、正反対とさえ言える見た目ながら、この像が発散する力は、そんな著名な代表作よりも底知れず強い。

ただ「老僧が到達した深い精神性」などと安易に片付けてしまえるものではないこの迫力。本展でこの大きな背中を見た時に、その力強さがどこから来ているのかが分かった気がする。またこの背中の大きさは、重源という人物の人間的な大きさをそのまま物理的・身体的な存在として表現もしている。

重源上人坐像はその生前、最晩年に造られたと思われるが、これは日本の肖像画や肖像彫刻では異例だ。本人が亡くなったあと、その弔いの一貫や弟子、あるいは子孫の崇拝の対象のために像が製作されるのが普通で、つまり肖像も一種の「仏像」だったわけだ。日本の肖像彫刻や肖像画が必ずしも本人に似ていない場合が多く、同じ人物のはずが顔が異なった画像や彫刻が多数あるのには、そんな理由もある。

国宝 維摩居士坐像 奈良時代・8世紀 奈良・法華寺

在家の弟子、つまり出家した僧侶ではないので、結い上げた頭髪の上から頭巾をかぶっているのだが、X線で調査したところ、乾漆で造形された頭巾の下にはちゃんと髪を結った髻が見つかったという。そんな凝りに凝ったリアリズムの凄みが一目で分かるのが、結跏趺坐(坐禅の足の組み方)は組まず右足を前に出した両足の表現だ。

向こう脛からくるぶしにかけてすぼまる骨格やくるぶしの膨らみも克明に描写され、足の指が一本一本分かれて独立しているのは仏像では極めて珍しい。

国宝 維摩居士坐像 奈良時代・8世紀 奈良・法華寺

指の関節や足の裏の土踏まずもちゃんとある(仏像は如来像は特に「仏足石」、釈迦の足跡を神聖視した表現が扁平足状態であるせいか、土踏まずがほとんどない表現が多い)。また写真には写らないので展覧会ではぜひ注目していただきたいのが、右膝の下に敷いた左足の表現だ。如意を手にした両手の筋ばった表現も、仏や菩薩の理想化された身体とは対照的だ。

画像: 奈良時代の人体のリアリズムを追求した乾漆像が並ぶ展示風景。義淵僧正坐像(岡寺、国宝)と、維摩居士坐像(法華寺、国宝)

奈良時代の人体のリアリズムを追求した乾漆像が並ぶ展示風景。義淵僧正坐像(岡寺、国宝)と、維摩居士坐像(法華寺、国宝)

仏像の「和様化」とは何か? 「日本風」の、日本人の祈りが求めた神仏の表象とは?

快慶や運慶は奈良の興福寺に属する仏師だったので、こうした奈良時代の仏像を奈良で見て学んでいて、それで平安時代後期の上品に様式化されると同時に、定式化・類型化も進んでいた仏像造りに革新を鎌倉時代にもたらすことが出来たと考えられている。

そこでふと、この展覧会の作品の選び方について気付かされることがある。平安時代後期11世紀・12世紀は、截金を駆使した華麗な仏画や、金銀をふんだんに散りばめた料紙に写された装飾写経の名作、金銀の蒔絵を駆使した工芸品は含まれ、成熟した貴族社会の到達した壮麗な「祈りのかたち」は見ることができる。

画像: 国宝 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃 平安時代・11〜12世紀 和歌山・金剛峯寺 展示期間 5月20日〜6月15日 繊細な金と銀の蒔絵で湿地帯の、カキツバタやアシが生い茂る植生を匂い立つような湿気まで含めて表現し、そこに螺鈿の千鳥が飛び交う、絵画と工芸が融合した美しい櫃。

国宝 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃 平安時代・11〜12世紀 和歌山・金剛峯寺 展示期間 5月20日〜6月15日
繊細な金と銀の蒔絵で湿地帯の、カキツバタやアシが生い茂る植生を匂い立つような湿気まで含めて表現し、そこに螺鈿の千鳥が飛び交う、絵画と工芸が融合した美しい櫃。

だが同時代の、日本の仏像彫刻の最初の完成期ともいわれ、現代の我々でも普通に「仏像」というとイメージするような、「和様化が進んだ」到達点ともされる、いわゆる「定朝様」の仏像が一体もない。

「国宝」展だから、となると定朝の唯一真作と確定している宇治平等院の阿弥陀如来坐像や、京都大原の三千院の往生極楽院本尊・阿弥陀三尊像、法金剛院や法界寺の阿弥陀如来坐像など、国宝指定されているものが丈六(経典に書かれた仏の身長一丈六尺、立てば4.85mで坐像ならその約半分)の大きなものだと、なかなか運び出せないし展示スペースも占有する。しかもそれぞれの寺院の重要な本尊像などなので借りられない、といった事情だけでもなさそうな、もっと確信犯的な意図も感じられる。

国宝 八幡三神坐像 僧形八幡神 平安時代・9世紀 奈良・薬師寺
小さな像とは思わせないほど重厚な存在感の、平安時代初期の造形

それに、そこまで大きくない定朝様の国宝もないわけではなく、一昨年に奈良国立博物館での修理が完了した浄瑠璃寺の九体阿弥陀仏のうち八体は半分の大きさの半丈六だし、大倉集古館の普賢菩薩騎象像もとても貴族的で上品な、煌びやかで美しい像だ

だがそこでふと気づく。

本展のように飛鳥時代、奈良時代、平安初期、そして鎌倉時代それぞれの、非常に個性が強いなかに定朝様を並べた時、綺麗は綺麗だし上品で穏やかで落ち着いた美しさも確かながら、逆に言えば「あっさりした」表現でもある。

定朝様に向かっていく「和様化」の特徴のひとつは、仏像の体の厚みと奥行きが少なくなる、つまり身体が薄くなることで、平安初期の一木造りの重量級の存在感と木そのものの質感から感じられる大自然、ひいては大宇宙に直結した感覚、あるいは奈良時代とそこを引き継いだ運慶のようなリアリズムの迫力は、希薄になって行ったと言ってしまえば、それはそういうことには当然なる。

いや定朝様を日本の仏像様式のひとつの完成形・到達点とみなすことに、もちろん異論はない。

しかしそこに向かって仏像の身体が薄くなり、一木造りから寄木造りへの技術の変遷で木の存在感が目立たなくなり、衣のひだの彫り込みが浅くなることを、「和様化」つまり和風の、日本的なるものへの移行だったと、本当に言い切ってしまっていいのだろうか?

画像: 展示風景、二体の国宝の薬師如来立像。左が奈良時代、唐招提寺の像、右は平安時代初期、元興寺の像。 「和様」つまり日本風になるというのならば、この左から右へのスタイルの変化こそ「日本風になった」のではないのか?

展示風景、二体の国宝の薬師如来立像。左が奈良時代、唐招提寺の像、右は平安時代初期、元興寺の像。
「和様」つまり日本風になるというのならば、この左から右へのスタイルの変化こそ「日本風になった」のではないのか?

たとえば唐招提寺と元興寺の薬師如来立像の比較で言えば、唐の直接影響から日本独自の表現に移行する中で、衣のひだの彫りはむしろ深くなっている。これは表現が「和風」になった、「日本独自の発展」とは言えないだろうか?

画像: 展示風景、左は鑑真に伴われて来日した唐の仏師の作と思われる唐招提寺の伝獅子吼菩薩立像(国宝)と、右は平城京で屈指の大寺だった大安寺に伝来する9体の奈良時代の木彫仏の一体、伝多聞天立像(重要文化財)で、鑑真のもたらした唐の技術を学んだ日本の仏師の作と思われる。

展示風景、左は鑑真に伴われて来日した唐の仏師の作と思われる唐招提寺の伝獅子吼菩薩立像(国宝)と、右は平城京で屈指の大寺だった大安寺に伝来する9体の奈良時代の木彫仏の一体、伝多聞天立像(重要文化財)で、鑑真のもたらした唐の技術を学んだ日本の仏師の作と思われる。

室生寺の釈迦如来坐像や法隆寺が所蔵する旧・大神神社神宮寺・大御輪寺の地蔵菩薩に見られる、丸みを帯びたひだと尖ったひだを交互に重ねて衣をまるで打ち寄せる波のように見せる翻波式衣紋も、唐の影響を超えて仏像の表現が「日本化」したのではないのか? 9世紀・10世紀の明らかに「日本的」「日本独自」だったであろう表現の深化を、なぜ「和様化」と言わないのか?

国宝 薬師如来坐像 平安時代・9世紀 奈良国立博物館

平安時代後期の仏像を「和様化」の頂点とみなすのは、かつて平安朝の文化を「国風文化」と呼んだような国家主義的な色眼鏡ではないのか? 実際には、昨年のNHK大河ドラマ『光る君へ』でも繰り返し強調されていたように、紫式部や清少納言の「国風文化」の時代に貴族は漢籍をそらんじ、宋への憧れと影響が強く、高価な唐物が珍重されていた。

画像: 吉野・金峯山の山頂から出土した平安貴族の祈りの形。左は大河ドラマ『光る君へ』でも藤原道長の御岳詣でが描かれていた、その際に道長が写経を納めて埋めた藤原道長の経筒(平安時代・寛弘4年[1007]、金峯山神社)、右の金峯山経塚出土品の二つの経箱は道長の経筒よりはるかに豪華で、道長の曽孫の藤原師通か、白河上皇の奉納ではないかと推定される(平安時代・11世紀、金峯山寺)。 展示期間:5月20日〜6月15日

吉野・金峯山の山頂から出土した平安貴族の祈りの形。左は大河ドラマ『光る君へ』でも藤原道長の御岳詣でが描かれていた、その際に道長が写経を納めて埋めた藤原道長の経筒(平安時代・寛弘4年[1007]、金峯山神社)、右の金峯山経塚出土品の二つの経箱は道長の経筒よりはるかに豪華で、道長の曽孫の藤原師通か、白河上皇の奉納ではないかと推定される(平安時代・11世紀、金峯山寺)。 展示期間:5月20日〜6月15日

奈良国立博物館がそこまで考えさせることを意図しているかどうかは分からないが、定朝様のいわゆる「普通の仏像」があえてないところからそんなことまで考えてしまうほど、この「超 国宝」展は知的刺激にも富んでいる。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 奈良・法隆寺
旧・大神神社神宮寺・大御輪寺伝来

そんな平安時代が源平合戦などの戦乱で終焉した以降では、信仰の対象を抽象ではなく何らかの実態、実存として感じることは、中世にとりわけ重要になった。快慶や運慶の仏像の定朝様にはない存在感は、新しい時代の信仰のニーズに呼応していたのだ。快慶は三尺阿弥陀と言われる比較的手頃な大きさの阿弥陀如来立像を多く残してもいて、中には庶民や遊女まで含むあらゆる階層の人が造仏に関わった名簿が納入されている作例が少なくない。

また源平合戦の平家の南都焼き討ちで壊滅的な打撃を受けた東大寺の復興のための勧進つまり寄付集めで重源が重用した仏師の一人が快慶だった。重源が播磨国(今の兵庫県)に建立した勧進所の浄土寺のために、快慶は巨大な阿弥陀三尊を造っている(一体化して設計された建物の浄土堂も含めて国宝)だけでなく、阿弥陀如来の来迎を再現する祭礼で本物の衣を着せるために上半身裸の阿弥陀像(重要文化財)と菩薩に扮装するための仮面も造っている(重要文化財)。奈良国立博物館に寄託されて「なら仏像館」で展示されているので、本展のあとにぜひ寄って頂きたい。

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