ありのままの世界こそ神々が宿る山河であり、浄土にして「仏の世界」

国宝 桐蒔絵手箱(熊野速玉大社古神宝類のうち) 南北朝時代・明徳元年(1390)頃 和歌山・熊野速玉大社 展示期間 5月20日〜6月15日
女神を祀る本殿に納められた「神様の化粧道具」として、最高級の貴族女性の化粧道具が入念な工芸の粋で造られた。
鎌倉時代の絵巻物の最高峰、「一遍聖絵」が、この展覧会では『神々の至宝』の章に展示されている。浄土信仰・阿弥陀信仰の一派、「踊念仏」の時宗の宗祖・一遍の生涯と事績を描いた「仏教美術」のはずだが、過去の日本において神道も仏教もことさら区別することなく「神仏」を崇めるのが当たり前だったのだ。

国宝 一遍聖絵 巻第三 法眼円伊筆 鎌倉時代・正安元年(1299) 神奈川・清浄光寺(遊行寺) 展示期間 5月20日〜6月15日
一遍上人が熊野に詣で、本宮で熊野権現の顕現に啓示を受ける場面。あえて大自然の風景の中に主人公を突き放したように本宮の社殿を風景の中に俯瞰した構図の中で、主人公の一遍は極小に、しかし緻密に描かれていて一目でそれと判る。
この巻第三で一遍は熊野に参り、本宮で熊野権現の顕現に出会い。お告げを授かる。一遍の生涯を伝える上で必要なのは、よってこの本宮の場面だけだが、絵巻は主人公不在のまま空間を旅して新宮(速玉大社)、そして那智の滝を描く。
紙ではなく大判の絵絹に濃彩で描かれた「一遍聖絵」は、伝統の日本風のやまと絵の技法だけでなく、風景描写には宋時代の中国から禅宗の様式として入って来た漢画・宋画の描き方が使われ、こと那智の滝の山岳描写は実に神々しい。

国宝 一遍聖絵 巻第三 法眼円伊筆 鎌倉時代・正安元年(1299) 神奈川・清浄光寺(遊行寺) 展示期間 5月20日〜6月15日
聖地・熊野の那智の滝、熊野那智大社と青岸渡寺。やまと絵に宋の山岳描写の手法を取り入れた描き方は根津美術館の所蔵する国宝・那智瀧図(鎌倉時代・13~14世紀)にも通ずる
大自然などの風景をスケールも大きく描いて、人物の姿が極小なのは一遍聖絵を通しての特徴だが、この熊野の場面ではとりわけ極端だ。数ミリもない人物像でも一目でどこに主人公。一遍がいるのかが分かるのはさすがの画力だが、なにしろ説話上の登場人物がいるのは最初の本宮だけで、重要なのは一遍の事績以上に彼が旅した風土、その風景にこそ神仏が宿っている、と言わんばかりだ。そしてその風景の中には、主人公の一遍よりも大きいくらいのサイズで、熊野の山の中で川で物を運んだり山道をいく、そこで生活している名もなき人々の姿も描かれていて、ここが神々の大地であると同時に人が生きる場であることが分かる。
とりわけ宋画の技法で描いた険しく切り立った岩肌の崖に、真っ白な胡粉の勢いのある線でサッと描かれた那智の滝は、まさに人を超えた神の宿る風景だろう。那智大社に登る険しい石段と楼門と、その楼門に向かって歩く人物も極小ながら緻密に描かれている。
この宇宙の摂理でありその存在の根本原理が大日如来であるとしたら、自分もまたその世界の一部であり、つまりはイコール大日如来の一部であるという「悟り」によって、ありのままの世界を受け入れるとしたら、その「ありのままの世界」とは日本人の歴史的な感性として、山々であり滝であり大自然であるはずだ。
現に日本の仏教の聖地の霊山は、仏教伝来以前からの聖地で神宿る大自然だった場所、たとえば吉野の山々、金峯山寺もそうだ。
国宝 藤原道長経筒 平安時代・寛弘4年(1007) 和歌山・金峯神社 展示期間 5月20日〜6月15日
左大臣・藤原道長が国家の安泰とそのための娘・一条天皇の中宮となった彰子の懐妊を祈って吉野に自ら参詣し、山頂本堂の経塚に埋めた経筒。中には道長自筆の写経が納められていた。
平安時代には藤原道長や白河法皇のような権力者でさえ、権力闘争渦巻く宮廷を政治的リスクも顧みずに留守にし、輿や牛車で移動するような生活もやめて二、三ヶ月もかけて徒歩で吉野に詣で、身を清めた体で険しい霊山を懸命によじ登っていた。唯物史観だけでは、そんな人類の歴史をはかりきれはしない。
考えてみたらこの『超 国宝』展はとても「際どい」展覧会ではある。
仏教と神道の宗教美術が専門の博物館でも、「ただ国宝を並べるだけの国宝展」の方が、それらを単に「美しいもの」として一般的な説明に終始した方が、よほど楽だったかもしれない。
それを銘文の内容を現代語訳で紹介して込められた祈りの意味を考えさせたり、展示品が製作された背景にある宗教的意味や祈りの中身を踏まえて関連付けた展示構成に、法華経や弥勒大成仏経などの経典の抜粋と現代語訳までつけ、教義を深く踏まえて観客に伝えようとすればするほど、一歩間違えば仏教なりなんなりの、特定宗教の教義プロモーションにすらなりかねない。
ただ国宝指定の寺宝や神宝を「優れた美術品」として「鑑賞」するだけでは済まさず、「世界平和のため」あるいは「人類の霊性の向上」を見る者の心のうちに喚起しようとするなら、仏教なり神道を優れた教えとして教唆する、と受け取られてしまえば、国立博物館であるからには政教分離の原則に抵触して憲法論議にまで陥りかねないだろう。
だが一方で、宗教とその美術の歴史とは過去の、我々の歴史の中で培われて蓄積された、ぞれぞれの時代時代の良心の有り様のモノとしての表象の遺産でもあり、人が(不完全ではあっても)良心を持つ生き物であること自体は、人類の歴史において一貫した普遍であったはずだ。
最後の展示コーナー、中宮寺菩薩半跏像と弥勒下生の部屋に入る前に掲げられた「弥勒大成仏経」の抜粋。
言い換えるなら、いつの時代でも、人間はただ利害や欲望だけに突き動かされて来たのでは決してない。自分はなぜ生きているのか、自分の生きるこの世界とはなんなのかを理解したいのは人の本能であり、己の存在の限界の中でそれぞれに「霊性を向上させよう」、あるいは平たくいうなら「よりよく生きよう」とも、人はして来たはずではないのか?
過去の人々がこうした「宝」に込めた「祈りのかがやき」を実感して自らの人生や生き方にも参照できるよう、作品の選択と展示構成、説明に心を砕きながら、奈良国立博物館はそのぎりぎりの一線の寸前にまであえて踏み込みつつ、具体的な宗教の教義もしっかり踏まえながらも、人の手になるあらゆる真に美しいものが具体的な創作上の意図や目的を超えて到達しているはずの普遍性によってこそ、展覧会の全体をつないでいる。

国宝 華厳五十五所絵巻 平安時代・12世紀 奈良・東大寺 展示期間 5月20日〜6月15日
少年・善哉童子が文殊菩薩に命じられて各地を旅し、さまざまな人に出会ってそれぞれから正しい教えを学ぼうとする姿を描く大長編の経典絵巻。
文化とは、美とは、本来はそういうものとして人類がつないで来たはずだ。宗教はひとつの手段であり、つまり「祈りのかがやき」とは私たちが「よりよく生きたい、正しくありたい」と望む生き物でずっとあり続けて来たことの、証でもある。
脳科学の知見では、人間の脳内で正誤の道徳的判断と、美醜の価値判断は、極めて近く機能が重なり合う領域で行われているらしい。そこが結びつけば、それこそが「霊性の向上」だろう。
奈良国立博物館開館130年記念 特別展「超 国宝―祈りのかがやき―」
Oh! KOKUHŌ Resplendent Treasures of Devotion and Heritage

国宝 金剛般若経開題残巻 空海筆 平安時代・9世紀 奈良国立博物館 展示期間 5月20日〜6月15日
会期 2025年6月15日(日)まで ※会期中一部の作品は展示替え
休館日 毎週月曜日
開館時間 午前9時30分~午後5時 ※入館は閉館の30分前まで
会場 奈良国立博物館 東・西新館 〒630-8213 奈良市登大路町50番地(奈良公園内)
主催 奈良国立博物館、朝日新聞社、NHK奈良放送局、NHKエンタープライズ近畿
協賛 クラブツーリズム、ダイキン工業、大和ハウス工業、竹中工務店、NISSHA、ひらくと
特別支援 DMG森精機
協力 日本香堂、仏教美術協会
後援 奈良県、奈良市
お問い合わせ 050-5542-8600(ハローダイヤル)
公式サイト https://oh-kokuho2025.jp
国宝 地獄草子 「屎糞所」 平安時代・12世紀 奈良国立博物館 展示期間 5月20日〜6月15日
清濁の区別がつかない者が落ちる地獄で、糞の穴の中で体を虫に喰われる
観覧料
| 一般 | 高大生 | |
| 当日 | 2,200円 | 1,500円 |
| 団体 | 2,000円 | 1,300円 |
- 中学生以下無料。
- 団体は20名以上。
- 障害者手帳またはミライロID(スマートフォン向け障害者手帳アプリ)をお持ちの方(介護者1名を含む)、奈良博メンバーシップカード会員(1回目及び2回目の観覧)、賛助会会員(奈良博、東博〔シルバー会員を除く〕、九博)清風会会員(京博)、特別支援者は無料
- 本展の観覧券で、名品展(なら仏像館・青銅器館)も観覧可
- 奈良国立博物館キャンパスメンバーズ会員(学生)400円 (教職員)2,100円 観覧券売場にて学生証または職員証を要提示

国宝 東大寺金堂鎮壇具 奈良時代・8世紀 奈良・東大寺
写真はすべて撮影: 藤原敏史、主催者の特別な許可により展覧会紹介のため撮影 ※禁転載
Canon EOS RP, RF50mm F1.2L, RF85mm F1.2L, RF35mm F1.8 ©2025, Toshi Fujiwara



