現代語訳された銘文から太古の人々の「祈り」を読み解く
「百済観音」は江戸時代以前の記録がなく、中宮寺の菩薩半跏像も造立当時の詳細が、そもそもどの菩薩を表した像だったのかも含めて分からない。その一方で同じ飛鳥時代でも、精確な年号や造立の目的までかなり分かるものもある。
重要文化財 釈迦如来および脇侍像 飛鳥時代・推古天皇36年(628) 奈良・法隆寺
光背の背面の銘文。下には現代語の意訳の展示パネル
法隆寺の金銅の釈迦三尊像は蓮の花びらを象った光背の裏側に干支で「戊子」の年、つまり628年に「嗽加大臣」のために釈迦仏の像を造った、とある。「嗽加」の読みは「そが」つまりこの二年前に亡くなった蘇我馬子の供養か、息子で後継者となった蘇我蝦夷の祈願のためだろう。
今回の展覧会ではこうした銘文にできるだけ現代語の意訳を添えて、内容が分かるように展示しているのも重要な工夫だ。「戊子」の年の5年前の「癸未」の干支が光背の銘文に記されているのが法隆寺の本尊・釈迦三尊で、聖徳太子が亡くなった経緯などの史実や「鞍作止利」という仏師の名前がわかり、この時代の仏像の主流が「止利仏師様式」と呼ばれるのも、この銘文に基づく。
重要文化財 釈迦如来および脇侍像 飛鳥時代・推古天皇36年(628) 奈良・法隆寺
この小型の釈迦三尊像は中尊が、手の結ぶ印や、 前に垂らした衣のパターンなど、その太子の等身大に造られた(つまり太子の分身でもある)法隆寺の本尊にかなり似ていて、5年前に亡くなった太子を馬子や蝦夷が意識し、崇敬していた表れなのかも知れない。
ただ光背の文様のデザインはまったく異なり、この像では非常に緻密な細かな線刻がとても美しい。

左)重要文化財 阿弥陀如来倚像および両脇侍立像 飛鳥時代・7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
右)重要文化財 光背 朝鮮半島・三国時代または飛鳥時代(594年) 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
右の光背の銘文には甲寅という干支が書かれていて製作年代が分かる。本来は釈迦如来の光背だが、明治8年の第一次奈良博覧会では左の阿弥陀如来像の光背に転用されて展示されていた。
銘文にはそこから製作された年や経緯が分かり歴史資料的価値があるだけではなく、現代語訳されると現代人でもハッとさせられるような、古代の人たちが祈りを通して達した叡智のようなものが書き込まれている。たとえば東大寺の大仏殿前に今も立つ八角の燈籠で、その透かし彫りの扉が展示されている。

国宝 金銅八角燈籠火袋羽目板 奈良時代・8世紀 奈良・東大寺 展示期間:5月16日〜6月15日
燈籠の構造を説明した図と、銘文の意訳抜粋を添えた展示
八角燈籠は今も大仏殿前に立っているが二度の戦乱(12世紀の源平合戦の平家の南都焼き討ち、16世紀戦国時代の松永久秀の多聞城の戦い)で大仏殿が焼失した際に被災したはずだ。灯火を納める火袋の8枚の扉部分はレプリカに交換されていて、この展覧会で展示されているのは火災の高熱で歪み破損した痕跡もある奈良時代のオリジナルだ。
併せて火袋を支える竿の部分に記された銘文の意訳が一部紹介されている。仏に灯明を捧げる功徳を説き、三つの智慧が得られるという。
「一つは臨終の時、それまでに作り上げた幸福がすべて現れ、善き教えを思って忘れることがない。この思いによって心に喜びを生じることである。
二つにはこれに従って仏を念じる心が起き、よく施しをする喜びの心を得ることで、死の苦しみがないことである。
三つにはこれに従って正しい教えを思う心を得ることである」
こうして現代語訳で読むと、太古の天皇たち(聖武天皇、皇后の藤原光明子、娘で大仏開眼当時には父から譲位され即位していた孝謙天皇)も現代の我々と同じように、正しさを求め、正しくあらんとすることを喜びと感じ、良心に曇りないことに苦しみからの解放をみるのは、そうは変わらないと気付かされる。いやむしろ、現代の我々はそうした素直な良心を失いつつあるかも知れない。
大仏殿前の八角燈籠は1300年近く経た今ではただ銅製に見えるが、この羽目板を見ると上に金が施された絢爛たるものだったと実感される。夜に火袋に灯りが入れば、網状の透かし彫りを通してかがやきが広がり、その光はやはり金で覆われていた大仏にまで届き、金の施された表面に反射し、全体を夜の闇に照らし出していたのだろう。

国宝 信貴山縁起絵巻 尼公巻(部分)平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺 展示期間:4月19日~5月18日【展示終了】
平安時代後期の絵巻物に描かれた奈良の大仏、つまり平家の南都焼き討ちで焼失する前の聖武天皇の大仏の姿。大仏殿正面の石段の下に金銅八角燈籠が描かれている。
楽器を奏でる菩薩の姿と花の透かし彫りの、鋳造技術の高さは驚嘆すべきで、緻密で繊細、かつ絢爛としている。ただモノとしてこの羽目板だけを見るなら、聖武天皇の王朝の豊かさと権力を誇示していたように思えるし、また仏教がそういう政治的な権威として利用された面があったのも現実だろう。
国宝 金銅八角燈籠火袋羽目板 奈良時代・8世紀 奈良・東大寺 展示期間:5月16日〜6月15日
大仏殿が二度戦乱で焼失した時の被災だろうか、高熱で曲がり欠落した部分もあるが、極めて高度な鋳造技術で造形された絢爛たる華麗さ、優雅さは失われていない
だがそれでも、富と力の誇示だけでは人心をつなぎ止めることができず、国家というものは成立・存続し得なかったろうとも、この銘文の内容を通して思いが至る。たとえば二つ目の功徳の「仏を念じる心が起き、よく施しをする喜びの心を得る」は、皇后の藤原光明子は貧民救済の慈善事業に尽くした菩薩行が今でもよく知られている。この銘文からは他者に尽くす善行が悟りや救済につながるという、後に大乗仏教の根本の意識が定着していたとも読み取れるだろう。

国宝 金光明最勝王経(国分寺経) 奈良時代・8世紀 奈良国立博物館
聖武天皇の朝廷が特に重んじたのが金光明最勝王経で、金字で写経されて全国の国分寺のそれぞれの塔に納められた。奈良国立博物館に所蔵される国分寺経は備後国(今の広島県東部)のものと伝わるが、十巻ワンセットのこのような豪華な写経が、六十以上ある全国の国々に届けられていたわけだ。
六巻目の「四天王護国品」は、この経を朗誦すると四天王が喜び国を護るだろうと説く。四天王といえば聖徳太子と蘇我馬子が太子の父・欽明天皇の没後の皇位継承と仏教を受け入れるかどうかをめぐって物部氏と争った戦いで、太子が願をかけたのが四天王(戦勝を感謝して建立したのが大阪の四天王寺)だったのだが、聖武天皇の全国の国分寺も「金光明四天王護国之寺」が正式名称だ。
国宝 金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅 第六幅ー四天王護国品 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院 展示期間 4月19日〜5月18日【展示終了】
平安時代の末に奥州(東北地方)を平定した藤原清衡が作らせた金字宝塔曼荼羅は、金光明最勝王経の経文を一字一字を金で書いて十重の仏塔の形に配列し、その周囲の下半分は美しいやまと絵風の山水で取り囲むことで、この経によって国の平安が守られることを示す。「四天王護国品」では、上半分にはやはり金で説法を行う阿弥陀如来や四天王、毘沙門天などが描かれている(ちなみに聖徳太子は毘沙門天の化身だったという信仰もある)。
もちろん武力や富、権力ではなく仏の功徳によってこそ国を統治し民を護る、という聖武天皇の思想を最も体現する存在が東大寺の、奈良の大仏だった。東大寺に伝来する平安時代初期の弥勒仏坐像は、「試みの大仏」つまり大仏のひな型の試作品だったとの伝承がある。
国宝 弥勒仏坐像(試みの大仏) 平安時代・9世紀 奈良・東大寺 展示期間 5月20日〜6月15日
大仏は盧舎那仏(のちの密教でいう大日如来、宇宙の中心でその根本論理にして、宇宙そのもの)なので弥勒仏とは尊格が違うし、様式からして大仏建立より1世紀のちの平安初期の作だからそんなわけがないはずだが、小さな像にも関わらず大変に重厚な造形から、そう思われるようになったのかも知れない。
あるいは、もしかしたら源平合戦で焼失する前、オリジナルの聖武天皇の大仏はこの像に似ていたのだろうか?
手の形は大仏とは異なり左手が大地に触れる降魔印(触地印)で、日本では珍しいが中国ではよく釈迦如来で見られる。結跏趺坐の足の組み方が左足が上なのも、古代に釈迦の姿とされた姿に共通し(詳しくは本展についての前記事を参照)、もしかして元は釈迦如来だったのかも知れない。
国宝 釈迦如来坐像 平安時代・9世紀 奈良・室生寺
左足を上に足を組んだ結跏趺坐の坐像は、奈良時代には生前の釈迦の生き写しの姿と信じられていたという。室生寺の弥勒堂に長らく客仏として安置され、弥勒堂の大修理に伴い奈良国立博物館に一時寄託。その後は文化財保護の観点から、室生寺の麓に新たに新築された寶物殿に安置された。






