釈迦、その実存の「生身」への憧憬

国宝 釈迦如来坐像 平安時代・9世紀 奈良・室生寺

「宝」というと財宝、経済的・現実的ないし社会的な価値だけを想起してしまうのは、近現代の資本主義的世界観に凝り固まっている、「国宝」で「国の宝」だから見るべきだというのは西洋起源の国家権威に基づく権威主義でしかなくあまりに俗っぽい、などと言われて仕舞えばそれはその通りではあるが、だからこそ「ただ『国宝』を並べただけの展覧会にはしない」というのが、奈良国立博物館の創立130年に当たっての根本的な決意だった。

ではそもそも、「宝」とはなにか? 前近代の日本においては、仏教の「三宝」と言う概念も広く受け入れられ、これは「仏法僧」つまり真理を悟った「仏」と世界の根本の道理である「法」、そしてその探究者の共同体としての「僧」が三つの宝、つまり「宝」とは精神的な、物質を超えた価値も意味していた。

その意味で究極の人類の「宝」たる存在だった実存した「仏」、生きた人が自ら悟りに到達して如来となった釈迦の「生身」に近づきたいと言う願望が、日本の宗教美術史を突き動かして来た面がある。

本展の第3章「釈迦を慕う」には三様の、釈迦のイメージとして特徴がまるで異なった姿が提示される。特にいわゆる「清涼寺式釈迦如来」は中世以降「生身のお釈迦さまの姿」として広く知られて来た。

重要文化財 釈迦如来立像(清涼寺式)鎌倉時代・正嘉2年(1258) 奈良・唐招提寺 展示期間:4月19日~5月18日
東大寺の留学僧・奝然が宋で見た釈迦の生き写しの像を複製させて日本に持ち帰った清涼寺の霊像の写しの中でも重要な一体。清涼寺の釈迦如来立像は中世に盛んに模刻され、東京にも目黒区の大圓寺に鎌倉時代・建久4年(1193)に造られた写しがある(重要文化財、正月と東京都文化財ウィークなどに公開)

伝承では、古代インドの王で生前の釈迦に帰依したウダヤナ王、漢字で優填王が、釈迦の入滅後にその不在を嘆き、自分の記憶にあった釈迦の姿に生き写しの「生身」像を造らせた。この「優填王思慕像」が宋時代の中国・蘭州の開元寺にあって、東大寺から留学していた奝然がこの「生身」の像に感動し、写しを造らせて持ち帰ったのが京都・清涼寺の釈迦如来立像(展示は5月20日以降、後期)だ。写しが完成して日本に持ち帰る前夜、開元寺のオリジナル像が自らの意志で模刻と入れ替わり、つまり本物の、生身のお釈迦様が日本にやって来た、と言う伝説もある。

前期に展示されているのは奈良・西大寺を再興し、釈迦の遺した戒律の重視と真言宗の密教思想を融合した真言律宗を開いた叡尊が、清涼寺の「生身」の釈迦像を崇敬して造らせた写しのひとつで唐招提寺のもの(重要文化財)、西大寺の本尊像も同じく叡尊が造らせた清涼寺釈迦如来の写しだ。こうした「釈迦の生き写し」の清涼寺の釈迦如来立像の写し・模刻の「清涼寺式釈迦如来」は鎌倉時代を中心に全国に少なくとも70体はあり、88体も造られたという説もある。それほど釈迦の実在を信じ、その「生身」に触れたい、あるいはそこに何らかの奇跡をみる「祈り」が、中世の我が国には強かったのだ。

無論、美術史的にいうと仏像が造られるようになったのは紀元1世紀のガンダーラ地方(現在のパキスタン)で、釈迦の入滅は紀元前4ないし5世紀と考えられているのでその4、500年も後のこと。「優填王思慕像」はまったくの伝説ではあ李、しかもその「優填王思慕像」つまり生前の釈迦の姿自体が、飛鳥時代にはまったく異なったものとして理解されていた。

画像: 国宝 刺繡釈迦如来説法図 中国・唐または飛鳥時代・7世紀 奈良国立博物館 展示期間:4月19日~5月18日

国宝 刺繡釈迦如来説法図 中国・唐または飛鳥時代・7世紀 奈良国立博物館 展示期間:4月19日~5月18日

奈良国立博物館が所蔵する釈迦説法図の図様が当時信じられていた「優填王思慕像」を踏まえていて、唐から持ち込まれたか飛鳥時代後期の日本で作られたか、いずれにせよこれが唐以前の中国、飛鳥時代の日本で信じられていた生身・生前の、実存の釈迦の姿だった。

画像: 国宝 刺繡釈迦如来説法図 中国・唐または飛鳥時代・7世紀 奈良国立博物館 (部分) 展示期間:4月19日~5月18日

国宝 刺繡釈迦如来説法図 中国・唐または飛鳥時代・7世紀 奈良国立博物館 (部分) 展示期間:4月19日~5月18日

なんと絵画ではなくすべて刺繍で、1300年以上も経っているとは思えない、今も鮮烈な色鮮と、欠落部分はあるものの、ひと針ひと針丁寧に縫い込まれた作業の緻密さには目を見張らされる。釈迦を取り囲む菩薩の輪郭描写の強い線は、法隆寺金堂壁画や中国・敦煌の莫高窟の壁画にも見られる決然とした均一の線の「鉄線描」が、刺繍で再現されている。

この椅子に座った仏の姿、「倚像」は飛鳥時代までは日本でかなり作られていて、代表的な例が東京・調布市の深大寺の「白鳳仏」、近年国宝に指定された釈迦如来倚像だ。

国宝 釈迦如来倚像 飛鳥時代・7世紀 東京・深大寺
刺繡釈迦如来説法図の釈迦と同様に、椅子に腰掛けた倚像の姿

こうした倚像は日本に椅子の習慣があまり根付かなかったせいだろうか、以降の時代ほとんど作られなくなり、結跏趺坐(いわゆる「坐禅」のポーズ)の坐像にとって替わられ、奈良時代には別の姿が釈迦の「生身」つまり生き写しと信じられるようになった。先に写真を紹介した東大寺の具舎曼荼羅の中央の、左足を上にして結跏趺坐した釈迦如来がその姿だ。かつて巨大伽藍を誇る大寺院だった大安寺(多聞天立像を先に紹介した)の大きな本尊像も、左足を上にした結跏趺坐の坐像だったと記録にある。

室生寺に伝わる平安時代初期の傑作、釈迦如来坐像は、晩年に仏像写真で新境地を開いたジャーナリズム写真の巨匠・土門拳が、日本の仏像で随一の「美男」と呼んだことでも知られるが、左足を上に結跏趺坐を組んだこの像は、その大安寺本尊の写しと考えられると言う。平安時代初期の、「一木造り」が流行し、木造の仏像が日本では主流になっていく時代の中でも、屈指の傑作だ。

国宝 釈迦如来坐像 平安時代・9世紀 奈良・室生寺
左足が上になっているのは大安寺にかつてあった巨大本尊像の記録や、東大寺の具舎曼荼羅の画像に共通する。
右手が施無畏印で左手が与願印の両手とも指の間が開いていて、如来の特徴とされる指の間が水かき状になっていてあらゆる魂を取りこぼさずに救済する、という部分もシャープに表現されている。

緻密な衣の、丸みを帯びたひだとシャープなひだを打ち寄せる波のように交互に重ねる翻波式衣紋は、奈良時代のリアリズムとその後の平安中後期の洗練された様式化への流れの過渡期となった。土門拳が「美男」と言ったのは正直よく分からないが彫刻としては圧倒的に美しいその顔。安定感のある二等辺三角形に収まったシルエットの、迫力あるボリューム感の像でありながら、細部に至るまでシャープで、繊細・緻密でありながら勢いよく決然とした、確信に満ちたような一刀一刀の彫り。

美術的な価値でばかり「傑作」と思って来た像だが、そんな歴史的意味合いのあるものだったとは知らなかったのが驚きである一方で、決して大きな像ではないのにこの圧倒的な重量感は、巨大な像の写しだったと言われれば納得する。

と、同時に、時代を超えて人々が現世に生きていた時の釈迦がどんな姿だったのかのいわば本当の姿を熱心に求めながら、時代によってまったく違った姿を想像していたと言うのもまた驚きだ。

画像: 展示風景、左から金亀舎利塔(唐招提寺)、釈迦如来坐像(室生寺)、清涼寺式釈迦如来立像(唐招提寺)、金銅透彫舎利容器(西大寺)。この画面の右手に刺繡釈迦如来説法図(奈良国立博物館)、左手に釈迦如来倚像(深大寺)を展示。

展示風景、左から金亀舎利塔(唐招提寺)、釈迦如来坐像(室生寺)、清涼寺式釈迦如来立像(唐招提寺)、金銅透彫舎利容器(西大寺)。この画面の右手に刺繡釈迦如来説法図(奈良国立博物館)、左手に釈迦如来倚像(深大寺)を展示。

だがこのいわば「お釈迦様コーナ」で、本当の意味で過去の日本人にとって真に「宝」だったは、この三種三様の釈迦の姿ではなく、仏の似姿に囲まれて部屋の中央に置かれたものだ。

国宝 金銅能作生塔 鎌倉時代・13世紀 奈良・長福寺

超絶的な彫金技術が見られる長福寺の金銅能作生塔も、唐招提寺と西大寺それぞれの透かし彫りを駆使した華麗な金属工芸の粋の舎利容器も、それら自体は「国宝」ではあっても本来の「宝」ではない。

国宝 金銅透彫舎利容器 鎌倉時代・13〜14世紀 奈良・西大寺
中に見える金の球体が開き、そこに収まる蓮華型の半球の容器に舎利を納める。

あくまで真の「宝」であるものを飾ってその価値を讃える荘厳具、万物が流転し諸行無常の仏教的世界観ではしょせんは、かりそめの「モノ」でしかない。どんなに豪華で、精緻な技術で作られていても、これらはあくまで真の「宝」を納めて飾るものでしかない、その中に収められている「宝」が入滅後、荼毘に伏された釈迦の遺骨の断片とされる「舎利」だ。

国宝・金銅透彫舎利容器の内部に収納される蓮台形容器 鎌倉時代・13〜14世紀 奈良・西大寺
水晶板の中に粒状の舎利が見える。水晶やガラスを使って内部の舎利が見えるこうした容器は、鎌倉時代以降増える。

This article is a sponsored article by
''.