鎌倉時代になぜ「戒律」が見直され、鑑真の「律宗」が復興し、「真言律宗」が生まれたのか?
この展覧会で学べるなかでも特に意外で、かつ重要で示唆に富んでいるのは、日本の仏教史「戒律」に基づく信仰がもっとも発展したのが、実は鑑真が来日した奈良時代ではないという歴史だ。
平安時代の天台宗・真言宗の隆盛で、僧侶・修行者が戒律を守って修行集団を維持し、それぞれが悟りに近づこうとする鑑真の伝えた仏教の流れがいささか主流から外れることにもなったのが、その「戒律」が見直されるようになって鑑真の「律宗」も復興したのは、同時並行で元は比叡山で学んだ法然や親鸞が浄土信仰を広め、日蓮が法華経を信仰の中心に置いた日蓮宗(法華宗)を開くなどの新しい日本独自の仏教宗派が生まれ、宋代の中国から新たに導入された禅宗も鎌倉幕府の武家を中心に支持されて普及した、鎌倉時代だった。
すでに見て来たように鑑真の生涯を描いた「東征伝絵巻」も鎌倉時代の作だし、唐招提寺の現在の鼓楼や東室の南側の礼堂、それに戒壇は鎌倉時代のものだ。奈良時代の金堂も大修理が行われているし、平城宮の建物を移築した講堂も、本尊は鎌倉時代の弥勒如来坐像で、この光背を収めるために天井の中央部が高く改造されている。
東大寺、興福寺などの奈良の寺院の多くが鎌倉時代に復興・再建されたのは、源平騒乱で平家の南都焼き討ちがあったから、という大きな理由がまずある。もっとも、唐招提寺がある平城京の西側・右京に当たる地域は、その唐招提寺や薬師寺に奈良時代の建物が残っていることからも分かるように、大きな被害には遭っていない。
とはいえ鎌倉時代に東大寺や興福寺などが相次いで再建され、奈良の仏教が再び栄え始めたことの影響はあった。
唐招提寺の中興で「鑑真の再来」とも呼ばれた覚盛は、その再建が進みつつあった興福寺でまず学び、東大寺の戒壇院を復興、天皇に授戒するなどして活躍した。そして唐招提寺に迎えられ、その復興に尽力し、死後に朝廷から「大悲菩薩」という諡号を与えられている。今回展示されている慶派仏師・成慶による坐像は、普段は唐招提寺の中興堂に安置されているものだ。
唐招提寺の北にある西大寺も、鎌倉時代に大規模に復興されている。また奈良市の東の方でも興福寺の南の奈良まちにある元興寺は、平安時代には廃れていたのが、子院の極楽坊に遺されていた奈良時代の僧坊の建物を改造して現在の本堂と禅堂とすることで復興している。
どちらもこの復興時に、真言宗から派生した戒律を重んじる宗派の、「真言律宗」の寺院になった。
西大寺を復興させた真言宗出身の叡尊が、新たに真言密教に鑑真の律宗の要素を取り入れた「真言律宗」を興した。叡尊も没後には興正菩薩という諡号を朝廷から与えられている。
西大寺の愛染堂に通常は安置されている叡尊の肖像彫刻(善派の仏師・善春の作)は、その晩年の姿を極めて忠実に写したものと思われるが、長い眉が特徴的で、柔和で慈愛に満ちた温厚な風貌の、鎌倉時代の彫刻の傑作のひとつで、国宝に指定されている。今回の展覧会では4月20日以降の後期に、「鑑真和上坐像」と同じ部屋の、鑑真の右側に展示される。
京都の壬生寺は、今では幕末の新撰組との関連で人気の観光地だが、元は天台宗寺門派(本山は園城寺・三井寺)の寺院として平安時代に創建された。それが鎌倉時代の1257年に一度全焼、その2年後に導御(円覚上人)によって復興されて以来、律宗の寺院になっている。
日本史で習う鎌倉時代の新しい仏教の一方で、平安時代にいったんは勢いを失っていた、鑑真の系譜の戒律を重んじる信仰がこの時代に復興し、重要な位置を占めていたことには、この特別展で初めて気付かされた。
それどころか、むしろこの時代を扱った第4章のタイトルは「戒律運動の最盛期」、それだけ重要だったことは、まったく考えてもみなかった。
そもそも壬生寺が律宗の寺院だったとは気づいていないか忘れていたし、奈良の西大寺や元興寺も「真言律宗」と案内パンフレットで読んでいても、戒律を重んじた寺だったというイメージがなかった。だが壬生寺の本尊は地蔵菩薩で、元興寺は阿弥陀浄土を描いた曼荼羅が本尊になっている。阿弥陀如来も地蔵菩薩も罪を重ねた者でも救済するやさしい仏で、厳しい「戒律」という雰囲気とはちょっと結びつかないし、現に壬生寺で導御(円覚)が実践したのはまず庶民に融通念仏を広めたことだ。元興寺にも宝物館には、庶民信仰の死後の救済の祈りに関わる遺物が膨大に展示されている。
いやこれこそが、「戒律」や「律宗」に関する、筆者も含めた大きな誤解というか勘違いなのかも知れない。
叡尊をはじめ鎌倉時代の真言律宗や律宗は庶民階級への布教に熱心で、貧民救済や教育など、社会事業に取り組んだ。鑑真がまず聖武天皇とその家族の仏教の師だったのとはある意味対照的に(しかし根本では繋がっていることとして)「戒律」の思想が大衆化して行ったのが、鎌倉時代だったようだ。
どうも我々が学校で習う日本史は、政治権力の変遷の歴史に傾きがちだ。しかし権力者だけで歴史が動いているのではない。平安時代末期から鎌倉時代にかけては、政治権力が朝廷や院、貴族から武家へと目まぐるしく移っていく過程で内乱も絶えなかったのだが、そんな政変の社会的な背景として、鉄製の農具の普及で農民が独立性を強め、日本で農村共同体が成立した時代でもあった。公家・朝廷から武家への権力の移行というのも、その大きな社会構造の変革の中での起こった富の主体の移動に伴う、権力構造の変遷でもあった。
そんな大きな社会構造の変化の中では、仏教もまた求められるものが変わって行くのが当然だろう。
平安時代までの仏教がまず国家護持と、朝廷と貴族階級の人々が自分たちの救済を求めた宗教であったのに対し、鎌倉時代には受容の裾野が庶民階級に広がり、民衆が仏教の教義を理解し、何度となく天災や疫病、戦乱など社会不安の波が襲った時代にもっとも直接に苦しめられる民衆こそが仏教による救済を求め、信仰の担い手になって行った。
覚盛とその弟子たちや叡尊は、在家・俗人の庶民の信徒にも戒律を教え、積極的に授戒も進めたという。そうして他者に尽くす「利他行」が「菩薩行」、つまり自らを高め悟りに近づく修行であるというところもまた、「戒律」の思想の重要な一部となったように思える。
法然や親鸞、一遍などの浄土信仰・阿弥陀信仰がそうした庶民階級の救済を約束することで広まって行ったのと、ほぼ同時代のことでもある。浄土系の宗派の阿弥陀信仰の広まりと対比もできるかも知れない、いわば釈迦への原点回帰的な運動とも言えそうだ。
浄土信仰が「他力本願」、なにがあっても衆生を救うという阿弥陀如来の慈悲にすがってその名前を唱える「念仏」による救済を説き、親鸞のようにラディカルな発想にまで至った一方で、「戒律」の思想の方でもそうした時代に必要とされた信仰の在り方を模索しつつ、かつ鑑真の、そして釈迦の教えの原点に回帰して、自らを律し高めることで悟りや救済を得られることを庶民にも熱心に説き、それを社会事業の「利他行」としても実践していたのではないか。
またこれは、5度目の日本渡航に失敗して遭難、海南島に漂着した鑑真が、そこでやった活動とも、非常に似通ってはいないだろうか? 鑑真は、単に自分の持っている医学・薬学の知識で人々を救っただけでない。その知識を教育して共有することで、自分が去った後も人々が自分たちでお互い助け合い、救いあえる基盤を残そうとしていた。
そんな「釈迦への原点回帰」の運動の中で、宇治の浮島の十三重塔のように、釈迦を象徴する「仏舎利」を示す施設が、庶民にも目に見える重要な信仰対象として整備された。
そうした中世の「戒律」復興運動の本質を象徴する展示品がある。西大寺の国宝の、叡尊の坐像の中に納められていた品々だ。特に印象的なのは、小冊子の形で綴じられた小ぶりな「梵網経」だ。
もしかしたら叡尊はそうした小冊子の「梵網経」を肌身離さず持ち歩き、常に自分の原点として参照し、自らの信仰と社会事業の精神的な核としていたのではないか? だからその没後に像の中に納められたように思われる。