仏教の本質への「原点回帰」としての「戒律」研究と、その現世での応用還元
「悟り」の中身そのものは他人には伝えられず、「悟り」は自分の修行で自ら到達するしかないと説いた釈迦が、悟りに近づけるいわば「修行マニュアル」として遺した「戒律」を守ったり復興させるためには、その戒律に従った生活や行動を実践することと並行して、いわば車輪の両輪のように「戒律」そのものを解釈するための研究と思索が欠かせない。
そうした学究的なアプローチによる「釈迦への原点回帰」もまた、「戒律」の思想運動の重要な一部になった。代表的な例のひとつが、宋に留学して13年間も滞在して学んだ俊芿が、宗派を超えた修行道場として整備した京都・東山の泉涌寺だ。
泉涌寺は伝承では元は空海が開いたとされるが、天台、東密、禅、浄土の四宗兼学の道場として俊芿が後鳥羽上皇の援助を受けて復興した寺院だ。のちには天皇家の菩提寺ともなり、よって「御寺」とも呼ばれる。
宗派を超えて仏教を学ぶということは、その全てに共通する上部概念であり、すべての基本となって重要になるのが、釈迦の説いた「戒律」だ。俊芿が自ら賛を書き込んで泉涌寺で大切にされて来たその肖像画(重要文化財)が「律師」像であることからも、「戒律」がどれだけ重要な思想的な核だったことが伺われる。
ここで気付かされるのは、現行の思考や思想、規律やルールの体系が「時代に合わなくなった」と言うのなら、そこで安易に変えたりねじ曲げたりするのではなく、常に真摯に原点に帰ってきちっと基本から研究し、考え直すことの大切さだ。
このように「戒律」を改めて見直そうという運動の歴史的な変遷は、日本史の節目節目で価値観の変動があった時に、「だからこそもう一度原点に帰って」という心掛けがあって、時には「戒律」が軽んじられたり、「破戒」が標榜されることもあったりした中でも、だからこそ「原点回帰」が度々日本の精神史の中で重要な意味を持って、何度も何度も考え直されて来たもののように思えて来る。
江戸時代になって社会が安定して豊かになると、釈迦への原点回帰としてサンスクリット語を学んだ、真言宗の慈雲のような人まで現れる。
なんと慈運は、サンスクリット語を習得して膨大なサンスクリット語の文章すら書いていただけでなく、釈迦に倣って自ら古代インド風の服装までしていたらしい。
そう言われると「浮世離れ」した人だったのかと思えばそんなことはなく、真言宗の僧侶で大坂を拠点とした慈雲は、その大坂で商人たちの崇敬を集め、著書の「十善法話」は商道徳の基本として広く読まれていたというのだから、なんだかすごいことである。