仏教の「戒律」と古代国家の「律令制」

現代では、鑑真とその肖像彫刻はしばしば「日中友好」の文脈やシルクロードへの憧れで注目されて来た。「鑑真和上坐像」が普段は安置されている唐招提寺の御影堂に、東山魁夷が1970年から10年以上かけて描いた障壁画(神戸市立美術館で公開中 https://kaii2021.exhn.jp/ )も、そういうテーマだ。

21世紀になって日本が中国に経済規模で追い抜かれ、両国関係がぎくしゃくしがちになった昨今でも、世界最大の帝国で文化文明も最先端の超大国・先進国だった唐の一、二を争う高僧が、それだけの熱意を持って日本に来ようとした、つまりはそんなに日本に愛を持ってくれていたとも解釈できる史実は、右翼的な思想で中国が好きでない人でさえ、悪い気はしないはずだ。

もっとも、当時の唐の人間が「日本すごい」などの憧れを持ったとは考えにくいわけで、鑑真の日本への渡航の熱意はまさに「菩薩心」の「利他行」だったのだろうが。

画像: 世界文化遺産・唐招提寺 鎌倉時代に再興された戒壇 石段は鎌倉時代で、上部のインド風の宝塔は1978年に新たに設置されたもの。場所は創建当時に鑑真が戒壇を置いた場所と考えられる

世界文化遺産・唐招提寺 鎌倉時代に再興された戒壇
石段は鎌倉時代で、上部のインド風の宝塔は1978年に新たに設置されたもの。場所は創建当時に鑑真が戒壇を置いた場所と考えられる

その一方で、鑑真があくまで宗教指導者であって、その伝えた教えと思想が当時の日本にとってどんな意味を持ち、そもそもなぜ聖武天皇たちが鑑真の来日を切望したのか、その政治的な意味や歴史的な役割は、苦難の旅とそれを克服した熱意に注目した、いささかセンチメンタリズムに傾いた感もある「歴史的な偉人」への賞賛の陰で、無視されがちだった。

鑑真の歴史的な業績、その役割とはもちろん、「戒律」に基づく本格的な修行の思想体系を、日本の仏教にもたらしたことだ。

画像: 根本説一切有部戒経 五月一日経のうち 奈良時代 天平12(1740)年 奈良・唐招提寺 重要文化財

根本説一切有部戒経 五月一日経のうち 奈良時代 天平12(1740)年 奈良・唐招提寺 重要文化財

この展覧会はまずはその基本に立ち帰り、「戒律」に関わるさまざまな経文や文書の展示から始まる。特に戒律の中心となる「梵網経」が継承される歴史が鑑真から始まったわけで、歴史的な時系列を追う展示構成の中でも随所随所に、さまざまな形の「梵網経」が展示されていく。展示の後半には、中世に輸入されたのだろう、朝鮮半島で製作された紺地の紙に金・銀で書かれた豪華な写経もある。

画像1: 梵網経 巻下 朝鮮半島・李王朝朝鮮時代 太宗12(1412)年 京都・御寺泉涌寺

梵網経 巻下 朝鮮半島・李王朝朝鮮時代 太宗12(1412)年 京都・御寺泉涌寺

現代にありがちな「日中友好」「シルクロード」的な受容は、「東征伝絵巻」が描かれた鎌倉時代では関心の置き所が大きく異なっていたはずだ。そこにまず気付かされることが、この特別展の最初の重要なポイントだ。

絵巻はあくまで宗教的な熱意で、鑑真と「律宗」の教義への信仰と「戒律」の思想の重要性の認識があってこそ、その教えを広めるために製作されたはずだ。それも経典の内容が理解できるだけの教育を受けた僧侶だけでなく、まだまだ識字率の低い時代に字が読めない人たちにも伝えたいという目的もあったからこそ、鑑真たちが厳しい自然どころか超常現象すら乗り越えるヒロイックな、時に超人的な存在として描かれているのだろう。

画像: 法顕伝 元版一切経のうち 中国・元時代 13世紀 奈良・西大寺

法顕伝 元版一切経のうち 中国・元時代 13世紀 奈良・西大寺

だがここで再び日本史の教科書で習う一般的な定説に立ち返ると、鑑真招聘の大きな理由はいわゆる「私度僧」、つまり正式な手続きなしに自分で出家する者が増えて社会不安の原因になったことだという。

鑑真の来日で国立の戒壇が首都・平城京の東大寺、太宰府(現在の福岡市)の観世音寺、関東・下野国(現在の栃木県)の薬師寺に設けられた。つまりは朝廷は鑑真のおかげで僧侶を国家の管理下に置くことができた、というのが教科書的な説明なのだ。

画像: 金銅舎利容器(金亀舎利塔) 平安〜鎌倉時代 12〜13世紀 奈良・唐招提寺 国宝 鑑真が来日時にもたらした「如来舎利三千粒」を納めるための絢爛豪華で精緻な工芸品。亀が舎利容器を背負う形は真言密教の世界観に基づき、唐招提寺にも密教の強い影響があったことが分かる

金銅舎利容器(金亀舎利塔) 平安〜鎌倉時代 12〜13世紀 奈良・唐招提寺 国宝
鑑真が来日時にもたらした「如来舎利三千粒」を納めるための絢爛豪華で精緻な工芸品。亀が舎利容器を背負う形は真言密教の世界観に基づき、唐招提寺にも密教の強い影響があったことが分かる

鑑真が伝えた「律宗」、仏教の「戒律」と並んで、奈良時代の日本にはもうひとつ重要な、こちらは世俗政治の「律」があった。法と制度に基づく国家統治の基本法令「律令」の制定だ。この文脈での「律」とは「法律」の「律」、今の言葉でいえば刑法にあたる。なお「令」の方は政府の組織構成とその運用などを定めた、今でいえば行政法のことだ。

聖武天皇は大仏建立などの仏教的な功績の一方で、この律令制の国家体制を完成させた天皇としても重要である…が、「律令」と鑑真の伝えた「戒律」の二つの「律」の、教科書で示唆される関係は、現代人からみてあまり気持ちのいい話ではない。

古代、飛鳥時代以降の日本は、中国の大帝国に倣って統一国家の君主を中心とする中央集権体制を目指していた。律令の成立であらゆる土地とそこに住む人民は、地方の領主の豪族たちにバラバラにではなく、すべて天皇に帰属するとされ(「公地公民」制度)、「租庸調」の3種類の納税の義務が課せられることになった。主要作物、主に米を年貢として納める「租」と、工事などの直接労働や軍務によって国家に奉仕する「庸」、麻布が一般的だったが地域によってさまざまな特産品を国に納める「調」の三つだ。民衆には時にかなり重い負担にもなり、天災や不作、疫病などが起れば、その生活はたちまち追い詰められた。しかも聖武天皇の治世の初期には人口の3分の1が犠牲になったとも言われる天然痘の大流行もあり、天災や疫病が常に社会を脅かしていた。

僧侶になれば、納税義務は免除される。そこで土地を棄てて勝手に出家するものが後を絶たず、田畑も荒廃して生産性も落ち社会不安が広まり、だから正式に僧侶を任命できる宗教的権限を持つ高僧によって出家を規制して勝手な「私度僧」を防ごうとした、というのが、鑑真招聘の理由の教科書的な説明なのだ。

これだけ聞くと、あまりに勝手な権力側の都合ではないか?

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