運慶、というと力強い肉体の運動が強調・誇張された東大寺南大門の金剛力士像や高野山の八大童子立像、静岡・願成院の毘沙門天立像、あるいは東大寺の重源上人坐像、興福寺の無着・世親立像のような迫真のリアリズムの人物像(いずれも国宝)が、真っ先に思い浮かぶ。

その点、如来や菩薩の像となると、経典に基づく約束事がより厳格で、自由な造形や独創的なポーズのダイナミックな表現は制約されがちだ。だがそのような、一見「個性」を目立たせにくい如来像、菩薩像の方でこそ、事実上のデビュー作と言われる奈良市郊外・円成寺の国宝・大日如来坐像のように、かえってそのディテールの独創性と、純化されたコンセプトの明確さに、運慶の才能の本質が現れているようにも、筆者には思える。

そうした意味で、京都・六波羅蜜寺に伝わるこの地蔵菩薩坐像(重要文化財)もまた、運慶作と確定している30余の仏像の中でも、その創造の本質が凝縮された屈指の傑作ではないだろうか。

画像: 重要文化財 運慶 作 地蔵菩薩坐像 鎌倉時代・12世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

重要文化財 運慶 作 地蔵菩薩坐像 鎌倉時代・12世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

まず目を引くのが、頬に張りがある童顔の凛々しさだ。だがこの若々しい印象を作り出しているのは、実は顔の表現だけではない。座っている姿でも上体を真っ直ぐ伸ばして若干後ろ向きに角度をつけ、前方に曲げた腕も従来の仏像よりも少し高い位置で、全身に自然に力がこもった姿勢が造形されているからこそ、顔のみずみずしさもまた際立って見えるのだ。

そこにあるのは、生身の人体のリアリズムを伴った仏の姿だ。

「夢見地蔵」という愛称でも親しまれ、運慶が父の菩提を弔うために彫ったとも言われる。伝承では、運慶と息子の湛慶が同時に地蔵菩薩の夢を見て、その姿を右半分を運慶が、左半分を湛慶が別々に、相談もなく彫って合わせてみたら見事に一致した、とも言われる。もっとも「寄木造」、つまり複数の部材を組み合わせた像であっても、左右真っ二つに分割できる構造ではないようだが。

画像: 左)伝運慶坐像 右)伝湛慶坐像 鎌倉時代・13世紀 いずれも京都・六波羅蜜寺蔵 かつて運慶作・地蔵菩薩坐像の脇侍として十輪院に安置されていた

左)伝運慶坐像 右)伝湛慶坐像 鎌倉時代・13世紀 いずれも京都・六波羅蜜寺蔵
かつて運慶作・地蔵菩薩坐像の脇侍として十輪院に安置されていた

江戸時代の記録によれば、六波羅蜜寺の境内にあった十輪院という運慶一族の菩提所の本尊で、脇侍として運慶と息子・湛慶の坐像が共に祀られていた。元々は運慶自らが建立した地蔵十輪院という寺があってそこが焼失し、六波羅蜜寺に移されたようだ。

東大寺南大門の金剛力士像のような力強さと迫力が誇張された作品はもちろん圧巻なのだが、このように一見静かで約束事を忠実に踏襲しているように見えながら、その実全身に適度なやわらかな力というか生命感のこもった像を丁寧に見ていくと、運慶の表現が人間の体を知り尽くしてこそのものだったことが浮かび上がって来る。ただ座っているだけのように見えて、その力の配分がとてもリアルなのだ。

画像: 奥)重要文化財 運慶作 地蔵菩薩坐像 鎌倉時代・12世紀 手前)重要文化財 伝運慶坐像 鎌倉時代・13世紀 いずれも京都・六波羅蜜寺蔵

奥)重要文化財 運慶作 地蔵菩薩坐像 鎌倉時代・12世紀
手前)重要文化財 伝運慶坐像 鎌倉時代・13世紀 いずれも京都・六波羅蜜寺蔵

俗に「日本のミケランジェロ」とも評される運慶だが、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチは、解剖学を習得することで科学的に人体の動きを計算し、リアルで動きのある彫刻を産み出した。運慶ら「慶派」の日本の仏像ルネサンスは、そうしたイタリア・ルネサンスに2〜3世紀先行しているのだが、死を「穢れ」とみなす日本の精神文化からして、解剖学に基づく人体研究が創作のバックグラウンドにあるとはさすがに考えにくい。

解剖学の知見に基づく科学的で理性的な造形の計算というよりも、むしろ仏像を彫ることそれ自体が激しい肉体労働でもあった。十輪院の本尊脇侍だったという運慶の肖像彫刻も、指が太く発達した大きな手と、ゴツゴツした胸の筋肉と骨がとても印象的だ。

画像: 重要文化財 伝運慶坐像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

重要文化財 伝運慶坐像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

また運慶は興福寺の僧侶でもあり、仏僧としての心身の修行を通して、自分の身体そのものへの意識を研ぎ澄ましていたのかも知れない。そうした身体感覚が深い信仰の精神性と結びついて、人体を知り尽くしその命の煌めきと美しさを仏に投影したかのような表現が、生まれたのではないだろうか?

そんな運慶の登場が日本の仏像表現においていかに革新的だったのかは、その前の時代の仏像と比較するとより鮮明になる。

下の写真は六波羅蜜寺に伝わる地蔵菩薩の立像だ。平安時代、11世紀の作で、平安時代中期に日本の仏像の定型を確立した巨匠・定朝の作との伝承がある。またそうであってもまったくおかしくないほどに優美な造形で、気品があり、細部に至るまでとても美しい。

画像1: 重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・11世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・11世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

運慶の地蔵菩薩坐像とは対照的に、衣のひだは浅い彫りで省略・様式化され、スッキリとして見える。そんな全体から醸し出されるなんとも言えない優雅さは、穏やかな、静かな祈りに自然と誘う。

定朝は百人規模の仏師を従えて分業が進んだ工房を営んでいたという。本人の真作と確定しているのは藤原頼通が父・道長の宇治の別邸を寺院に改めた平等院の本尊・阿弥陀如来坐像(国宝)だけで、このとても端正な地蔵菩薩立像も、夭逝して地獄に落ちた貴族が地蔵菩薩によって救い出され、感謝のために定朝の作の地蔵菩薩を六波羅蜜寺に収めたという伝承(「今昔物語」)がこの像に当たると推定されているものの、確定はしていない。

左右対称を基本にしたバランスの取れた端正な立ち姿はシンプルで、パターン化・簡素化された造形とさえ言えるが、だからこそ深い味がある。1000年前後の時を経て褪色・剥落しているものの、よく見ると全身に彩色があり、衣には金を用いた華やかな紋様が施されている。完成度の高さは、おそらく定朝の工房で製作されたものなのだろうと思うが、ここにも典型的に現れた優美な仏のあり様が、藤原氏を中心とする平安貴族たちに受け入れられたのもよく分かる。

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