奈良時代から平安初期、ほぼ百年の間に根本的に変わった日本の仏像造りを示す二体の国宝
本展のもうひとつの国宝仏像が、その神護寺と元興寺それぞれの国宝・薬師如来立像と並ぶ平安初期の「一木造り」の代表作で、木そのものが仏になったかのような日本の彫刻のある典型の中でも、とりわけ最高傑作のひとつ、現在は法隆寺の所蔵となる地蔵菩薩立像だ。
当初は全身に彩色が施されていたはずが、その顔料がほとんど剥落している今では、木の質感が露わになって、その一千年以上の歳月を経た木材の表面が磨き上げられたような、しっとりとした光沢を放つ。
顔は神護寺の薬師如来立像のような怒りでこそないものの、厳粛な無表情は、衣の深く鋭い彫りの力強さと、大きくはだけた胸の分厚さ、すべてが一本の巨木から彫り出された重量感と相まって、どっしりと不動な静謐さと、どこか近寄りがたい厳めしい迫力に満ちている。
「一木造り」、つまり手や腕などを除く全身が一本の太い材木から彫り出された木像だ。赤をさした唇と墨で描かれた眼、衣の凹凸の窪んだ部分と左手の宝珠、台座の一部には顔料が残っているものの、木材の質感が露出したことで深く精確に、鋭く執拗なまでに彫り込まれた衣のひだの立体感が純化され、その硬質な艶やかさが、この像をいっそう神々しいものとしている。
こちらは東京での展覧会でもガラスケースなし(通常法隆寺の大宝蔵院で展示されている時にはガラスケースの中)だったが、さらに奈良国立博物館では東新館の展示スペースの全体を広々と使っているので、真後の背面までくまなく見ることができる。通常は人目に触れない背後まで、まったく隙がない衣の表現は圧巻だ。
360度全角度から見られるので、安定性を保つため大きな直径になっている円形の台座の最下部と左手に持った宝珠を除けば、すべてが台座の上面の円形の、足の下の直径の内側に収まっていることからも、「一木造り」の基本構造がよく分かる。つまり足下の台座の直径が、元の材木のそれにほぼ一致するのだろう。太い指が力強い両手と大きな台座の下部は別の材木で作られたもので、手は後からはめ込まれている。
こと宝珠を持つ指が複雑に曲がった左手は、本体と同じ材木で一体で造形した場合には木目の関係で指が折れ易くなっていただろう。木では彫っている最中でも、力の加減を間違うと木目から割れて指先が折れてしまう。
よく見ると左手の袖口は、乾漆(漆におがくずなどを混ぜてペースト状態にしたもの、木屎漆)で補われている。彫り過ぎてしまって修正したのだろうか? だとしたら、このような細部からも「一木造り」の彫刻の難しさが想像できる。ひとつの大きな塊からいわば「引き算」で形を造り出していく、彫り出していく場合、力の加減ひとつや微妙な計算の狂いで彫り過ぎてしまうことを常に警戒しなければならない。基本、やり直しは効かない。
こうした「一木造り」が故の制約は、聖林寺の十一面観音菩薩立像で使われている奈良時代の「乾漆造り」や、やはり奈良時代には盛んに作られていた塑像、その前の飛鳥時代後期・白鳳期に最高の技術水準に達していた鋳造の銅像における造形のあり方とは、考え方やアプローチが大きく異なっていたはずだ。
国宝・十一面観音菩薩立像は「木心乾漆造り」、まず大まかな形を木で作り、その上から先述の乾漆(木屎漆)、つまり粉末を混ぜてペースト状に練った漆で盛り上げて表面を造形している。その素材を塑像の粘土のように扱って、自在に、リアルに、仏の形が作れられている。
いわば「足し算」の造形だ。
精緻で柔らかな、指先にまで神経の行き届いた、まるで生きているかのような表現は、針金を芯材として自在に曲げて、その上から乾漆を盛り上げて作り上げられている(詳しくは展示会場の解説パネルのX線画像で確認できる)。塑像の場合も基本はまったく同じやり方になり、分かり易い例として後代にその粘土が剥落して芯の針金が露出している塑像も、近隣の「東大寺ミュージアム」に展示されている。東大寺にはこうした奈良時代の塑像や乾漆像が数多く伝わっていて、当時はこうした自由が効く作り方で躍動感やリアルさ、迫真性と生々しさを追求する仏像が主流だった。またその前の飛鳥時代に多い銅像も、鋳型の原型は粘土で一から作り上げていくものだ。
それがなぜか、粘土や乾漆を使った自由で表現の幅が広がる「足し算」的な手法は、聖林寺十一面観音の奈良時代中後期から法隆寺の地蔵菩薩立像が造られるまでの100年ほどの間にほとんど用いられなくなり、平安時代以降の日本の彫刻は圧倒的に、木の仏像が主流になっていく。
一本の材木から主要部分を彫り出すことは、いわば「引き算」的な造形だ。
「一木造り」でいったん全体が完成した後に背中を切って内部を空洞にし、一度切り離した背面部分で蓋をする「内刳り」も、この像には見られない。一般に、乾燥で木が割れることを防ぐための処置と言われているが、この像は背面に確かに一本ひびが見られるものの、造られて1200年ほどのあいだ、彩色が褪色・剥落している以外には、ほとんど損傷も狂いもなさそうだ。
それにしてもなぜ、表現が素材に制約されることが多い「一木造り」が平安時代初期には主流になったのだろうか? 神木とされていた木を仏像にした、あるいは奈良と鎌倉の長谷寺の長谷観音の伝説のように、祟りや災厄をもたらす巨木が流れ着いてそれを仏像とすることで呪いを鎮めた、といった伝承も少なくない。
国宝・地蔵菩薩立像の場合は、元来は彩色されていたので当初は木の質感は直接には見えていなかっただろうし、表面に漆を塗って金箔で覆う「漆箔」は、経典に基づき仏の体が光り輝いている様を表すスタンダードなやり方だ。だが一方で、硬い一本の木から仏像を彫り出し、木の素地を活かしてせいぜいが細く切った金箔(截金)で装飾を施しただけの「檀像」風の作例も、奈良時代後期から中世にかけての日本には多い。「檀像」はもともとは唐時代の中国で白檀などの硬い香木から仏像を彫り出すことが流行していたのが、日本に輸入され模倣されるようになると、白檀や黒檀は東南アジア産で日本では入手が困難なため、カヤやサクラなどの硬い国内産の木材で代用されるようになった。なおこの地蔵菩薩の場合は、カヤかヒノキと考えられて来たが、科学調査でヒノキと判明している。
それにしてもこの、深く精確な彫りの美しさは、ただごとではない。
先述の元興寺の薬師如来立像より少し時代が下って承和年間(西暦834〜848年)頃の作と推定されるそうだが、衣の彫りの線は、平行線や同心円上になった曲線の連なりを基調に幾何学的に整理され、すっきりと洗練されている。衣つまり布のひだをリアルに再現しようという、聖林寺十一面観音に見られる造形意図や、そうしたリアリズムをマニエリスム的に突き詰めた極致のような元興寺の薬師如来立像のうねるようなひだの衣とはまた別の方向性に、この木彫の表現は突き進んでいるようにも思える。
布の軽いはずの質感を擬すのとは異なった、適度にパターン化された造形は、木の存在そのもの、その重々しさを際立たせ、ほとんど抽象表現にも見えて来て、具象性を超越した神々しさ、言語化され得ない形而上学的ななにか、当時の日本人が感じた「神聖さ」の概念そのものの物質化に、あたかも到達しようとしているようだ。
彩色がほとんど失われても、後代に塗り直すようなことはなされていない。あるいは檀像や檀像風の仏像の流行、あるいは神木を仏像にしたというような伝承も含めて、日本人の本能的な素材へのこだわり、建築も木造だけが極度に発達し洗練されたことにも見られる「木」への愛着の文化、木の質感への執着と、木の存在に象徴される自然への畏怖の感覚が、顕れているようにも思える。