154年前まで同じ場所にあった仏像たちの再会

日光菩薩立像 平安時代・10〜11世紀 奈良・正暦寺

さらに奈良市菩提山町の正暦寺から、平安時代中後期の二体の菩薩像が出品されている。

今では本尊・秘仏薬師如来倚像(重要文化財・春と秋に特別公開あり)の脇侍の月光・日光の両菩薩として祀られるが、この二体も「一木造り」で手は別の材木で作られていて、今の手は近年の修理で補われたものだ。仏像がどの仏を表しているのかは指がどんな印を結んでいるのかが区別する重要なポイントになるが、その元の手の形が不明でもあり、本来はどの菩薩だったのかは判らない。

月光菩薩立像 平安時代・10〜11世紀 (部分・上半身) 奈良・正暦寺

二体とも国宝・地蔵菩薩立像と同様の「一木造り」だが、100年〜200年ほどの時代差の間に、深く彫り込まれた迫力ある衣の表現や、分厚い筋肉の圧倒的な量感の力強い曲線、威圧的でさえある重量感とは異なった、より穏やかで静かなスタイルに変化している。

今では一対の脇侍像として扱われている二体の菩薩像はよく見ると、ポーズこそ似通っているものの大きさは右の日光菩薩の方が少し大きく、顔立ちや腰の前の衣の処理などはまったく異なっている。

画像: 月光菩薩立像(左)・日光菩薩立像(右) 平安時代・10〜11世紀 奈良・正暦寺

月光菩薩立像(左)・日光菩薩立像(右) 平安時代・10〜11世紀 奈良・正暦寺

素材も日光菩薩はケヤキ、月光菩薩はヒノキなのだそうで、つまり本来はワンセットの、対になった仏像ではなかったはずだ。

どちらも天衣の、両腕から下に垂れ下がっていたはずの先が欠損している。ここは木像では折れてしまい易いか、そもそも別の木材で作られる場合が多く、だから欠損してしまいがちなのもやむを得まいが、あえて比較するなら、逆に国宝・十一面観音菩薩立像の奇跡的な保存状態に改めて驚嘆させられる。

国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺
ガラスケースなしでこのように真後ろからも見ることが可能な、特別な展示

天衣も表面の金箔が剥落した以外はほぼ完璧に残っていて、僅かに正面・膝上の部分が欠損しているだけだ。「木心乾漆造り」では、この優美な曲線も針金を芯材にして乾漆(漆におがくずなどを混ぜた木屎漆)を盛って作られている。芯材こそ金属とはいってもかなり脆いはずで、強い衝撃などがあれば乾漆が剥落しておかしくないし、現に同時代で大きく破損した同じ技法の仏像もある中で、それだけこの十一面観音の保存状態は奇跡的というか、いかに大切に守られて来た像であるのかを示してもいる。

光背だけは大きく破損しているが、それでも当初のものの断片が丁寧に保管されている。保存状態の良さは長らく秘仏だったこともあるのだろうが、壊れた光背までこうして残されているとなると、それだけ大切にされて来た、特別な、神聖な仏像だった、ということを意味しないだろうか?

国宝 十一面観音菩薩立像 光背残欠 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺
下部の複雑な造形も乾漆を駆使して作り上げられている

なお正暦寺の二体の菩薩像は、背面から見ても衣の肩の部分、腰回り、裾の表現は明らかに異なっていて、やはり元はワンセットとして作られたものではないのだろう。またどちらも法隆寺の国宝・地蔵菩薩立像にはない「背刳り」、いったん背中を切り取って内部を空洞にし、背面で蓋をする工程が施されている。

こうして奈良時代から平安時代にかけての日本の仏像の様式の変化を追えるのも、この展覧会の興味深い点のひとつだが、奈良時代の十一面観音と平安時代初期の地蔵菩薩、そしてこの平安時代中後期の二体の菩薩像が同じ会場で展示されているのは、別にこうした比較が目的ではない。

画像: 154年前まで同じお堂にあった仏像4体が一堂に会する展覧会場

154年前まで同じお堂にあった仏像4体が一堂に会する展覧会場

もともとこの4体が、明治元年(1868年)までは同じ寺にあった仏像だからだ。

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