国家鎮護の法要としての「十一面悔過」と聖林寺十一面観音、そして東大寺二月堂の「お水取り」

画像: 【特別陳列 「お水取り」】 二月堂本尊光背 頭光 奈良時代・8世紀 奈良・東大寺 二体ある本尊十一面観音菩薩のうち「大観音」の光背の、頭部の後ろにあった円形の部分。江戸時代の火災で二月堂が全焼した際に破損し、断片が回収されたもの。この頭光の後ろの、像全体の背後の光背は拓本を展示。実物は同博物館の旧館・「なら仏像館」に展示されている。

【特別陳列 「お水取り」】 二月堂本尊光背 頭光 奈良時代・8世紀 奈良・東大寺
二体ある本尊十一面観音菩薩のうち「大観音」の光背の、頭部の後ろにあった円形の部分。江戸時代の火災で二月堂が全焼した際に破損し、断片が回収されたもの。この頭光の後ろの、像全体の背後の光背は拓本を展示。実物は同博物館の旧館・「なら仏像館」に展示されている。

観音菩薩は、その頭の上に修行者としての「菩薩」が将来に悟りを開いて到達するであろう如来の姿(阿弥陀如来)を化仏として頂く姿で表されることが多い。さらに十一面観音菩薩の像では、その化仏の如来の頭部に加え、360度全方位を見渡す10の化身の顔が、頭上に表現される。

こうした約束事は飛鳥時代から奈良時代にかけて日本に伝わった「観音経」に基づく。中国・唐時代に玄奘三蔵がインドから持ち帰って漢訳した「十一面神呪経」という、十一面観音菩薩の神秘的な呪文の力を説く経文も日本に伝わり、奈良時代には盛んに書写されたという。

画像: 十一面神呪経 奈良時代・8世紀 大阪・四天王寺 十一面観音菩薩の神秘的な呪文の威力を説く仏典で、奈良時代に広く書写された。書体から奈良時代のものと考えられるこの写経は、巻末の書き込みで16世紀初頭には大御輪寺にあったことが分かる。

十一面神呪経 奈良時代・8世紀 大阪・四天王寺
十一面観音菩薩の神秘的な呪文の威力を説く仏典で、奈良時代に広く書写された。書体から奈良時代のものと考えられるこの写経は、巻末の書き込みで16世紀初頭には大御輪寺にあったことが分かる。

どうも奈良時代における観音菩薩のイメージは、平安時代以降のやさしい慈悲と救済の仏としての観音菩薩(たとえば阿弥陀如来が死者の「お迎え」に来る時に付き従い、死者の魂を蓮台に乗せて浄土に導くのは観音菩薩)とは、いささか異なっていたような気がして来る。

十一面観音菩薩の頭の上の、全方位を見渡す顔には、牙を剥いた憤怒の形相もある。人間の犯した罪やその心のうちの煩悩や悪を厳しく咎めているようだ。そんな全てお見通しの十一面の観音菩薩に、自らの過ちや罪を懺悔することで福を祈願する「十一面悔過」という法要があって、奈良時代には盛んに行われ広まったという。

聖林寺の国宝・十一面観音菩薩立像も、この「十一面悔過」の本尊として作られたと考えられている。

【特別陳列 「お水取り」】二月堂曼荼羅 室町時代・16世紀 奈良・東大寺
斜面に建てられた二月堂を正面から描き、周囲には桜が咲き誇っている。そこに瑞雲に乗った十一面観音菩薩が降臨する光景。二月堂の本尊は「大観音」と「小観音」の二体の銅造の十一面観音菩薩像で絶対秘仏。

「十一面悔過」の法要で、奈良時代から今日まで途絶えることなく毎年続けられているのが、東大寺二月堂の有名な「お水取り」、春の到来を告げる「修二会」だ。奈良国立博物館では毎年、太陽暦で3月1日から15日の昼まで(太陰暦・旧暦では2月)の「修二会」にあわせて特別陳列「お水取り」が行われるのが恒例で、偶然と言えば偶然なのだろうが、今年は「聖林寺十一面観音」展と同時開催になる。

本来は個人の罪の悔い改めの儀式だが、奈良時代には懺悔する者が国家を代表してその安寧を祈る国家祭祀になって行った。「修二会」もまた国家鎮護の法要として、奈良時代以来毎年欠かさずに行われて来た。

画像: 国宝 東大寺二月堂 江戸時代・寛文7(1667)年に「修二会」の最中に失火で焼失、2年後に再建された。

国宝 東大寺二月堂
江戸時代・寛文7(1667)年に「修二会」の最中に失火で焼失、2年後に再建された。

ところが昨年には新型コロナの蔓延で、1270年にして初めて中止すら検討されざるを得なくなったものの、参加者が全員厳格な2週間の自己隔離を経ることで無事執り行われた。ただし通常は二月堂の正面西側の外陣に当たる「西の局」に一般信徒が入ってこの秘儀を見守れたのが、「三密」を避けるために取りやめになり、代わりに史上初めてNHKのカメラが入り、生中継された。

奈良時代に国家と国民の安寧を懸命に願った祈りの姿が今も継承されているその儀式はとても興味深いものの、夜間に、闇の中で行われる(もっとも、二月堂の内部は日中でさえ光はほとんど入らないはずだ)。観光名所の二月堂だが「西の局」以外は堂内に入ることはおろか伺い知ることすらできない上に、闇の中で行われる法要は、映像だけではよく分からないことが多かったのが実際だ。なにしろ建物の内部構造がどうなっているのかさえ、把握が難しい。

画像: 【特別陳列 「お水取り」】 実忠和尚一千年遠忌法事執行記 江戸時代・寛政9(1797)年 奈良・東大寺 この図面の手前が西側の正面で上が山側。内陣の中央に「大観世音」が安置され、その前に「小観音」があると記されている。この内陣を取り囲む回廊部分を「修二会」では練行衆に指名された11名の僧侶が走って周りながら祈りを唱える。

【特別陳列 「お水取り」】 実忠和尚一千年遠忌法事執行記 江戸時代・寛政9(1797)年 奈良・東大寺
この図面の手前が西側の正面で上が山側。内陣の中央に「大観世音」が安置され、その前に「小観音」があると記されている。この内陣を取り囲む回廊部分を「修二会」では練行衆に指名された11名の僧侶が走って周りながら祈りを唱える。

そこで例えばこのような平面図が書かれた記録文書を見られるだけでも、具体的なイメージが思い浮かんで来る。内陣の中心に「大観世音」つまり本尊の大観音、その前にもう一体の本尊の小観音が安置されていて、大観音の後ろには「修二会」を創始した実忠の像があると書かれている。その内陣を取り囲む広い回廊は、「修二会」の生中継で僧侶たちが一心に観音菩薩を讃えながら走ってぐるぐる回っていた所だろう。

東大寺の伝承では、開山の良弁の弟子だった実忠が、山城国(京都府)の笠置山で修行中、竜の棲む穴を見つけてその中に入ると、天上界の兜率天に至ったという。

【特別陳列 「お水取り」】 二月堂縁起 室町時代・天文14(1545)年 奈良・東大寺
東大寺の僧・実忠は兜率天に昇って「十一面観音悔過」の法要を見て、これを地上でも行うために二月堂の建立を決意する。

実忠は兜率天の常念観音院で天人たちが「十一面観音悔過」を行っているのを見て、これを下界でも、と願った。天人には「兜率天の一日は人間界の四百年にあたるので到底追いつかないだろう」と言われてしまうが、実忠は「ならば少しでも兜率天のペースに合わせようと走って行を行う」と答えた。二月堂の暗い堂内で、本尊の周りを走るのは、この伝承に由来する。

そして二体の十一面観音の像(大観音と小観音)が東大寺の東の山麓に降臨して「修二会」が始まったとされるのが天平勝宝3(751)年のこと、大仏開眼の前年に当たる。

【特別陳列 「お水取り」】東大寺縁起 室町時代・16世紀 奈良国立博物館
中央に大仏殿、最下部に南大門。上部に二月堂・三月堂がある上院が描かれ、観音菩薩が降臨している。

「修二会」では11人の僧が「練行衆」に選ばれ、その11人はいわば国家と天皇、その民のすべてを代表して身を清め、のべ15日間毎夜二月堂に籠り、十一面観音に儀式を捧げて罪を悔い、赦しと観音菩薩による国家の加護を祈る。

歴代天皇の祖霊が呼び出されてその冥福ではなく文字通りの「成仏」、つまり修行の末に悟りを開いて仏に達することが祈られたり、聖武天皇以来の歴代天皇や歴史上の人物、現代の政治家に至るまで名前が読み上げられてその人々への神仏の加護を祈る場面もあったが、そうした祈りの元となるのだろう文書も展示されている。

画像: 【特別陳列 「お水取り」】 二月堂修中過去帳 室町〜江戸時代・16〜17世紀 奈良・東大寺

【特別陳列 「お水取り」】 二月堂修中過去帳 室町〜江戸時代・16〜17世紀 奈良・東大寺

この「過去帳」の掲載写真の部分では、平安時代後期の天皇の名と、東大寺に関わった人々などの同時代の名僧が、神社の神々の名前と同列に、区別せずに書かれているのがとても興味深い。展示部分のもう少し先には、ちょうど今年のNHK大河ドラマの登場人物になる鎌倉幕府の将軍、源頼朝や源実朝の名も見られる。

画像: 【特別陳列 「お水取り」】 重要文化財 香水杓 鎌倉時代 建長5(1253)年、建長7(1257)年 奈良・東大寺

【特別陳列 「お水取り」】 重要文化財 香水杓 鎌倉時代 建長5(1253)年、建長7(1257)年 奈良・東大寺

また「お水取り」という通称の語源になった、本尊に神聖な水を捧げる儀式のための灼や桶、練行衆が身に着ける紙製の衣服や独特の履き物の実物、食事の道具、さらには声明(お経を節をつけて歌うように読み上げること)の楽譜に当たる文書などの「修二会」の儀式の作法や決まりごとの文書も、多数展示されている。

画像: 【特別陳列 「お水取り」】 二月堂声明 室町時代・15〜16世紀 個人蔵 経文の横に書かれた印に従って節をつけて、歌うようにお経を唱える。

【特別陳列 「お水取り」】 二月堂声明 室町時代・15〜16世紀 個人蔵
経文の横に書かれた印に従って節をつけて、歌うようにお経を唱える。

「お水取り」というと夜間に、斜面に建てられた二月堂の前面外の回廊に巨大な松明の火が舞う光景が思い浮かぶが、あれはこれから堂に籠る11人の練行衆の一人一人を、北側の登り廊から二月堂に上がって西側正面の懸造りの舞台を通って南側の入り口まで先導する松明で、2週間に渡って毎晩行われる秘儀の前段、これからお堂に入るところが、一般信徒向けにパフォーマンス化されたものだ。肝心の儀式はその後、何時間もかけて行われる。それが14夜に渡って繰り返される。

画像: 【特別陳列 「お水取り」】朱漆塗担台 室町時代・15世紀 奈良・東大寺

【特別陳列 「お水取り」】朱漆塗担台 室町時代・15世紀 奈良・東大寺

「お水取り」という一般に知られている通称も、神聖な井戸である閼伽井から汲んだ水を十一面観音に捧げるという、それ自体は一連の複雑な儀式のごく一部でしかない部分に由来する。この水についても神秘的な伝承があり、二月堂に降臨した十一面観音のために全国から神々が集まるが、若狭国(今の福井県西部)の神が遅れて到着し、そのお詫びもあって二月堂が建つ斜面の麓に神聖な井戸を掘り当てた、という。

考えてみたらすでに奈良時代の聖武天皇の代に起こったはずのことだ。大神神社の創建や三輪山の神話の、記紀の神代とは時代が違う。唐から最先端の文化や科学知識、政治制度、それに仏教を導入し、日本が先端文明国になろうとしていた時代だ。それでもまだ、古来の土着のカミガミは人間社会の極めて近いところに存在していたのだ。ちょうど「二月堂神名帳」で神名と歴代天皇や僧侶、さらには鎌倉将軍までが同列に記され、「修二会」で悟りを目指す「衆生」として回向されるように。

画像: 【特別陳列 「お水取り」】 二月堂縁起 室町時代・天文14(1545)年 奈良・東大寺

【特別陳列 「お水取り」】 二月堂縁起 室町時代・天文14(1545)年 奈良・東大寺

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