パンデミックの記憶と十一面観音菩薩、そして日本人にとっての「神聖さ」とは?
二月堂がある東大寺のもっとも東の部分は、奈良時代創建のお堂が残る法華堂(三月堂・国宝)なども含めて「上院」と呼ばれ、平城京・奈良の東の端の春日山の麓にある。この連峰には春日大社の神・武甕槌神が降臨したとされる禁足地の御蓋山もあり、カミガミの世界としての山々でもある。
現実世界と超自然、仏教と土着の神々、そして人間と神々と自然が併立して存在し、それが丸ごと認識されて人間社会に受け入れられ、崇拝され、時には畏れられる。そうした日本独特の文明観が凝縮している三輪山信仰と大神神社とかつての大御輪寺の領域、あるいは三輪山と纏向遺跡にあったおそらく日本最古の都と、その死者たちを祀る箸墓を筆頭とする古墳群にも共通する空間が、二月堂とその周囲にも成立している。
二月堂の本尊は大観音と小観音の、二体の銅造の十一面観音菩薩立像で、絶対秘仏で見た人はいない。だがその二月堂が江戸時代に一度火災で焼失している。
東大寺に伝わる「二月堂縁起」の絵巻には、僧侶が小観音を厨子ごと持ち出してしまう場面があるが、この火災の時にも小観音の厨子はこうして持ち出せる大きさだったので、無事だった。だが大観音の方は厨子が焼失している。
その火災で回収された大観音の光背の断片や天衣の一部は、奈良国立博物館に寄託され、光背のうち頭部の後ろの円形の部分がこの特別陳列で展示されている他(前ページのいちばん上の写真)、全体の背面の光背は拓本が展示され、「なら仏像館」でその実物を見ることができる。
この火災の後、大観音は焼け跡の煙の中で、生きているかのように屹立していて、この世のものとも思えぬ異様にして神々しく荘厳な光景に、人々は思わず目を伏せたという。現在の二月堂は火災の後すぐに再建され、大観音はその奥深い暗闇の中央の厨子に再び納められた。
二月堂の隣の法華堂(三月堂)の本尊は秘仏ではないが、この像高3.2mの大きな不空羂索観音菩薩立像(奈良時代の脱活乾漆造り、国宝)もいかめしく荘厳で、畏れすら感じさせる像だ。やはり奈良時代の観音菩薩は後代のやさしい、慈悲と救済の菩薩とは、どこかしら雰囲気が違う。なおこの観音像は別に作られた豪華で繊細な宝冠を頭上に頂いているが、この宝冠には一部、古墳時代の勾玉や玉が使われているのだそうだ。
聖林寺の十一面観音菩薩や東大寺法華堂の不空羂索観音の畏怖を覚えさせるおごそかさと厳めしさ、その力強さ、そして火災の後の屹立する姿に思わず目を伏せてしまうようだったという二月堂本尊・大観音。そこには古代の人々のどのような祈りが込められていたのだろう? そもそもなぜ、本来は個人の罪の悔い改めの儀式だった「十一面悔過」が、国家鎮護の祭礼になったのか?
聖林寺の、というか大神寺・大御輪寺の十一面観音は、全人口の半数が亡くなるほどの疫病をもたらしたとされた三輪山の大物主大神を鎮める一族の寺の本尊として作られた。8世紀の半ば、760年ごろの作とみられ、つまり東大寺で「修二会」が始まったのより少し後だ。
聖武天皇の治世の初期に、日本では天然痘の大流行が起こっている。天皇の側近で皇后の兄弟でもあった藤原四兄弟が相次いでこのパンデミックに倒れただけではない。記録からの推計では、どうもこの時に全人口の三分の一が亡くなった可能性があるという。崇神天皇が大物主大神を三輪山に祀るに至った経緯にも通ずる危機が、この直前にも起こっていたのだ。
そんな悪夢のような災厄の記憶がまだ生々しい時期に、東大寺の春日山の麓では「修二会」が始まり、国宝・十一面観音菩薩立像が造られ、荒ぶるカミで祟り神でもある大物主大神の三輪山の麓に安置された。
なるほど、練行衆全員がクラスターになってしまう危険があっても、昨年に「修二会」を中止するわけには絶対に行かなかったのも頷ける。1270年前には想像も及ばないような最先端医療技術でパンデミックで立ち向かえる現代ではあっても(PCR検査でウィルス感染自体の有無を検査できるようになったのも今世紀に入ってから。伝染病の概念は分かっていても病原体自体の把握は難しかった)、その武器はまだまだ不完全だし、人類はまだその武器を使いこなしきれないまま、深い不安に苛まれてそろそろ2年になる。
現代人の中には「迷信だ」と切り捨てる人もいるかも知れないとはいえ、1270年間この国と国民を守ると信じられて来た祈りを、止めていいわけがない。現代科学にさえこのパンデミックと戦う知恵が本当にあるのかすら分からない上に、我々の心の不安は科学の理解だけで解消されるわけではない。
その科学をどこまで突き詰めても、卑近に言えば感染するかしないかは結局は偶然、運任せでしかなく、それは「神意」としか言いようがない領域に属する。
だからと言って、練行衆が集団感染してしまったりすれば、みもふたもない。だからこそ、ただでさえ厳しい「修二会」に、厳しい隔離がさらに加わって期間が倍になっても、「修二会」は実行されなければならなかったのである。
そしてその同じ文脈で、我々のような俗世の人間にとっては、ぜひ今だけのガラスケースなしの状態で、この十一面観音菩薩の荘厳な美に向き合うことの意味も、大きい。
特別展「国宝 聖林寺十一面観音 ―三輪山信仰のみほとけ」
会 期
令和4年(2022)2月5日(土)~3月27日(日)
会 場
奈良国立博物館 東新館
休館日
2月7日(月)・21日(月)・28日(月)・3月22日(火)
開館時間
午前9時30分~午後5時(土曜日は午後7時まで)
※入館は各30分前まで
観覧料金
当日券 | 前売券 | |
一般 | 1,400円 | 1,200円 |
高大生 | 1,000円 | 800円 |
小中生 | 500円 | 300円 |
- 当館観覧券売場、近鉄主要駅、ローソンチケット(Lコード:58100)、イープラス ほかで販売いたします。
- チケット購入時に手数料がかかる場合もあります。
- ご購入後の払い戻しはできません。
- 本展は日時指定制ではありません。
- 障害者手帳またはミライロID(スマートフォン向け障害者手帳アプリ)をお持ちの方(介護者1名を含む)、奈良博プレミアムカード会員の方(1回目及び2回目の観覧)は無料(要証明)。
- 奈良国立博物館キャンパスメンバーズ会員(学生)の方は400円、同(教職員)の方は1,300円で当日券をお求めいただけます(要証明)。参加校など詳細はこちらをご確認ください。
- 観覧当日に証明書・会員証などの提示が必要です(一般と小学生以下を除く)。
- 団体料金の設定はありません。
- 館内が混雑した場合は、入場を制限する場合があります。
- 本展の観覧券で、同日に限り、特別陳列「お水取り」、特集展示「新たに修理された文化財」(3月1日(火)から)、名品展(なら仏像館・青銅器館)もご覧になれます。
主 催
奈良国立博物館、読売新聞社、文化庁、日本芸術文化振興会
特別協賛
キヤノン、JR東日本、日本たばこ産業、三井不動産、三菱地所、明治ホールディングス
協 賛
清水建設、髙島屋、竹中工務店、三井住友銀行、三菱商事
協力
日本香堂、仏教美術協会