没後まもなくか、もしかしたら生前から「生き仏」として信仰されていた類い稀なる皇子
しかもその太子が、没後すぐに仏として扱われるも同然の信仰対象になっていたのも、ほぼ間違いない。
法隆寺の本尊・釈迦三尊像はさすがに寺外に運び出して博物館で数ヶ月展示、などはまず不可能だろうし、安置されている法隆寺金堂のような古代の仏堂はそもそも基本的に人間が入っていい場所ではない。釈迦三尊像を間近に観察したり、特に背面の、光背の裏側を確認するような機会は、研究者が特別な事情で許される場合くらいしかないわけだが、その光背裏の銘文によればこの像は、太子の病没の翌年に、中尊の釈迦如来を太子の等身大として造立されたもの、とある。
釈迦如来の像でありながら太子の等身大とは、つまり釈迦三尊が作られた時点で、「厩戸豊聡耳」と呼ばれた王子は釈迦の再来ともみなされるほどの神聖な存在になっていて、斑鳩寺・のちの法隆寺の金堂は、釈迦如来を祀ると同時に「厩戸豊聡耳皇子」と呼ばれた天皇家の御子にお参りする場所にもなっていたことになる。「豊聡耳」とは有名な逸話の、幼くして10人の話を同時に聞き分けたという、太子の特殊な才能にちなんだ名前だろう。多くの人に耳を傾けその話をよく聞いて深く理解した、という太子の共感能力の並外れた高さもまた、太子への敬愛と信仰の重要な要素だ。
今回法隆寺金堂から運ばれて展示されているのは中央の本尊・釈迦三尊に対して向かって右、東の間に安置されている薬師如来坐像で、光背の銘文によれば太子が父・用明天皇の遺志を継いで造立した斑鳩寺の元の本尊と書かれていて、法隆寺の「根本本尊」として信仰されている。
ただしこの銘文は、文面からして明らかに後代に、恐らく7世紀の末頃か8世紀初頭に書き加えられたものだろう。用明天皇のことを「池邊大宮天下治天皇」と記述しているのは、「天皇(スメラミコト)」と言う呼称が使われるのは天武天皇からだ。光背自体が本体とは別鋳なので、もしかしたら後代に補われたものなのかも知れないし、あるいは銘文だけ後から彫られたのかも知れない。
あるいは、この像が実際には斑鳩寺創建時・推古天皇15年(西暦607年)に作られたものではなく、白鳳時代にあえて太子の同時代の「止利仏師様式」を正確に模して作られたものなのか、そこは議論の別れるところだという。
とても精緻な光背のデザインは、文様そのものは百済から仏教が伝来した時代に遡るであろう朝鮮半島由来のモチーフを踏襲しているが、一見太子の生前から亡くなった直後の「止利仏師様式」の典型に見える衣のひだの処理などの細部の表現の検証から、太子の生前ではなく釈迦三尊より2〜30年時代の降った、7世紀半ばの作ではないかという指摘もある。
それに対し、太子の病没の翌年(推古天皇31年・西暦623年)に完成している釈迦三尊の光背銘文は、文面や、光背裏側の平な部分にピッタリ収まっていることから、造立当時に刻まれたものだと考えた方が自然だという(東野治之 奈良大学・大阪大学名誉教授による本展覧会図録収録の巻頭の論考「聖徳太子ー史実と信仰ー」を参照)。
法隆寺の金堂に安置されている時には、内陣の正面扉から(というか構造上の補強で追加された裳階部分が外陣になっているので屋内になっているが、本来の設計では建物の外になる)距離を置いてでしか見られないが、太子の等身大と伝わる釈迦三尊は実のところとても大きい。立った状態を仮定すると身長190cm近い計算になると言う。この薬師如来坐像も法隆寺では釈迦三尊との比較と、やはりかなり離れた場所からしか見られないので小ぶりに見えるが、この展覧会で見ると実は写真のようにかなり大きいものだとわかる。
法隆寺の金堂は先述の通りおそらく天武・持統天皇の頃の再建だが、元の斑鳩寺の本堂も発掘された遺構から同様に大きな建物だったことは分かっていて、釈迦三尊より二回りほど小ぶりな薬師如来坐像は、その本尊としてはいささか小さ過ぎるかも知れない。金堂の広い内陣の空間にあわせて、また釈迦三尊像の大きさとバランスを取ることも考えてなのか、薬師如来像の木製の台座はかなり大きなものだ。
全面に華やかな絵が描かれていた痕跡を今も見ることができる。薬師如来坐像の大きくスカート状に広がった衣の裾にすっぽり隠れる上部の前面にまで、山の絵が描かれている。
あるいは、薬師如来坐像は斑鳩寺の時点では別の場所に祀られていたものが、再建された後の法隆寺では金堂に、新しい本尊の釈迦三尊の横に安置されるよう変更されたというのも、あり得ない話ではないのかも知れない。
また釈迦三尊と比較すると、その表現を踏襲しているとも見られる共通点も多い。つまり実際には後代に釈迦三尊を踏まえつつ、その横に安置するものとして新たに作られたものなのかも知れない。
いずれにせよ、元の斑鳩寺が落雷で焼失した際に失われた文物も少なくなかったはずで、結果として釈迦三尊と薬師如来坐像の関係や、薬師如来坐像の来歴についても謎が残るのは致し方のないことだ。なお東の間の薬師如来と中央の釈迦三尊を挟んで左右対称の位置になる西の間には銅造の阿弥陀如来坐像が安置されるが、飛鳥時代のオリジナルは平安末期から鎌倉初期の混乱の中で盗難で失われてしまい、現在あるのは鎌倉時代の慶派の仏師・康勝による再興像だ。二つの脇侍の菩薩像のうち勢至菩薩は海外に流出していて、今はフランス・パリのギメ東洋史美術館の所蔵になっている。
斑鳩寺が焼失していなかったら、その創建や太子に関わる史料はもっといろいろなものが残っていたのかも知れないが、そこは言い出しても始まるまい。再建された法隆寺の伽藍が1350年前後も維持されているだけでも奇跡的なことだし、もちろんその「奇跡」とはただの偶然ではなく、太子の没後1400年間この寺を聖徳太子の記憶と共に維持し伝えていこうとして来たたゆまない努力の結果だろう。
『日本書紀』と釈迦三尊像の光背銘文によれば、推古天皇30年(西暦622年)に太子の母・穴穂部間人皇女、妃の膳大郎女が相次いで病に倒れ、太子もその後を追うように亡くなってしまっている。父・用明天皇の死因も天然痘で、その病床で疫病退散を祈って発願した薬師如来の像が、その遺志を継いだ太子と推古天皇によって実現したのが国宝の薬師如来坐像とされるが、太子の死の時にも妻と母がほぼ同時に亡くなっているということは、やはりなんらかの感染症の流行だったのだろう。
太子は大阪府の叡福寺北古墳に葬られたが、そこから持ち出されたと見られる棺の断片があって、今回展示されている。
幅からしてかなり大きな棺の頭側か足側なのだろう。
実は木製の板ではない。なんと布を何十枚も重ねて、砂や石の粉を混ぜた漆で固めているのだ。斉明天皇(皇極天皇)の陵墓と推定される牽牛子塚古墳や、藤原鎌足の墓とみられる阿武山古墳からも同様の、やはり漆で固めた布製の「夾紵棺」が発見されている。
非常に手の込んだ、高度な技術も必要とされる技法で、漆も高価なものだったに違いないことから、非常に身分の高い人物を葬るのに用いられたであろうことはもちろんだが、「夾紵」の「紵」という字は麻布の材料になる「苧麻」を意味し、斉明天皇や藤原鎌足の棺の断片も素材は麻だった。
ところが恐らくは太子の棺であったろう叡福寺北古墳の夾紵棺は、麻製ではない。45層も丁寧に重ねられて漆で固められているのは、なんと麻よりはるかに高価だった絹なのだ。
中大兄王の母で2度も天皇になった皇極(斉明)天皇の棺ですら麻製だったのに、太子の棺は絹製とは、いったいいかなることなのか? 亡くなって直後のもののはずであり、つまり太子が生前から、晩年にはすでに、もしかしたら天皇以上に尊いとみなされるような存在だったのでなければ、説明がつかない。
同じようなことは、釈迦三尊像についても言える。
元は太子と母、妃の病気平癒を祈って発願された釈迦如来の像が、わざわざ亡くなったばかりの太子と等身大に作られ、それが太子自身の建立した寺の本尊になっているとは、一体どういうことか?
太子の住居・斑鳩宮の跡地に作られた夢殿の本尊・救世観音菩薩立像も、これは後代に後付けでそう言われるようになっただけなのかどうか定かではないものの、やはり太子の身長に合わせた大きさだと伝わっている。
この像は飛鳥時代の木像で、奈良時代に夢殿が造られて以降そこに太子の仏としての姿として祀られて来ているのだが、江戸時代の時点でそれ以前から厳重な秘仏になっていたことが分かっていて、つまり何百年も誰の目にも触れることもなかった。明治時代の文化財調査で封印が解かれたときには、なんと400mを超える長さの布でぐるぐる巻きになっていたというのも、有名な逸話だ。
国宝の「天寿国繡帳」は太子の没後まもなく、妃の橘大郎女が、「天寿国」に生まれ変わった太子の姿を見たいと願って、刺繍で描いたものと伝わる。刺繍つまり布製品が1400年近く残存すると言うだけでも大変なことで、むろん完全な形ではないが、法隆寺などに断片が、そして多くの断片をつなぎ合わせた最も大きなものが、法隆寺東院の東に隣接する中宮寺に伝来する。
その刺繍の精緻さ、表現の精細さが醸し出す詩情、そして1400年近い歳月を経てもなお残る色鮮やかさに美的な感動を覚えるのはもちろん、描かれた内容や、かつて織り込まれていたという文章の記録からも、太子が亡くなってまもないうちから活仏、仏が天皇家の御子の姿となって地上に現れた存在として信仰され、しかもその信仰がとても強いものだったことが見て取れる。