鑑真はなぜ日本に来たのか? そして本当はなにを伝えたのか?
そもそも、ならば鑑真はなぜ栄叡と普照に説得されて、あそこまでして日本に来ようと思ったのか? 正式な授戒が受けられないので日本の僧には迷いがあり、だからぜひ日本に来て我々を正しく導いてください、とでも言ったのなら分かる。
しかし貧しさに耐えかねて土地を棄てて税を逃れるために私度僧になる不届き者が、などと言ってしまえば…鑑真であれば逆にそんな日本の朝廷の考えこそ「菩薩心」に欠けているから、改めさせ心を入れ替えさせるために戒律を授けなければ、とそれこそ「菩薩心」の「利他行」としての来日を、決意したかも知れないが…。
奈良時代の日本仏教で鑑真と並ぶ最重要の僧侶に、民衆の生活向上に尽くして堤防や用水路、貯水池の整備など社会事業を指導した行基がいる。聖武天皇は大仏建立に当たってこの行基の協力も頼んだが、菩薩、生き仏とも称された行基の周囲に集まって土木事業に汗を流し、大仏造立を支える労働力にもなった信徒の中心は、生活の困窮で土地を離れざるを得ず流民になった人々が仏教と行基に帰依した、「私度僧」たちではなかったのか? 「勝手に」出家といっても、身分が低いなどの事情で公的な仏教教育にアクセスがなかったのであれば、その信仰や宗教的熱意をただ「ルール違反」で切り捨てたり、世の苦しみを知ったからこそ仏にすがったその心を、疑っていいものなのだろうか?
仮に鑑真が日本で果たした役割が本当にそのようなもので、その教えがただの「ルール遵守」であれば、5〜600年経った鎌倉時代に「東征伝絵巻」が描かれたり、今の唐招提寺の堂宇や仏像の一部が鎌倉時代のもの、つまりこの時代に大きな復興事業があったこと、現在の金堂が江戸時代にも大修理が行われてその姿が保たれていることなどなど…つまりは1000年以上も鑑真が崇敬され、日本の仏教、つまりは日本人の心に深い影響を与え続けて来たことの、説明がつくのだろうか?
現代の我々であれば唐招提寺を「歴史的景観」、その建造物や鑑真和上坐像を「文化財」として尊重するだろう。寺社の巡礼が観光・娯楽にもなっていた江戸時代なら、戒壇の復興と金堂大修理の時にはそういう意識も芽生えていたかも知れないが、鎌倉時代に唐招提寺の中興があり、「東征伝絵巻」も描かれたのには、なによりも信仰心と鑑真への尊敬の念があって、その教えをそれぞれの時代に活かすためだったはずだ。
修行者として菩薩のように行動することと言えば、鑑真自身が5度目の渡航に失敗して流れ着いた海南島では、自分たちを救ってくれた庶民に請われるままに留まり、ただ病気を治療することだけの「菩薩行」ではなく、自分がいずれ海南島を去ることを念頭に、人々が自分たち自身を救えるように、病気の治し方を教えていたことも忘れられない。
民衆信仰の行基と戒律の鑑真という相反する存在だったのではなく、むしろ多くの共通性も持っていたようにも思える。だいたい、その双方に帰依していたのが、聖武天皇だ。
8世紀の、日本が国家としての体裁をようやく獲得しつつあった時代に、「律令」という法と制度によって支えられた統一的な統治の確立は必要だった。宗教道徳にも禁欲、身勝手な欲望を抑えるよう自らを律する必然があるし、その禁欲の理論化・体系化と実践なしには、宗教思想の発展は望めないだろう。その意味で現代の、異なった時代の自由主義的な価値観を安易に当てはめて歴史を評価するのが誤りなのは言うまでもない。とはいえ現代の価値観ではこれまで、鑑真の「戒律」の思想を考えることに関心が向かず、「日中友好のシンボル」的な受容に傾いてしまって来たことは否めないのも、それはそれでやむをえない面もあったのだろう。
この展覧会の企画の始まりは、ひさしぶりに「鑑真和上坐像」を展示できないだろうか、という博物館から唐招提寺へのオファーだったそうだ。唐招提寺の外での公開は12年ぶり、京都国立博物館では45年ぶりになる。
律宗管長の西山明彦・唐招提寺第88代長老の条件は、鑑真の思想と戒律の教えを中心にした展覧会にすることだったという。
西山長老は唐招提寺を訪れた修学旅行生などに話をする時、戒律を水力発電のダムに、そこで作られた電気で電灯がつくことを智慧の光に、喩えるという。
電気を作るにはタービンを廻す力が必要で、その力を得るためにはダムは必要なひとつの枠組みで、肝心なのはそのダムの中に水が平穏に保たれて一定量の水を提供し続けることだ。またダムがそうした状態になることによって、下流の水害も防ぐことができる。ダム湖は心であり、そこに溜められた水が平穏で一定量の水を供給できることから、タービンが安定して廻り続けて電気が生まれ、智慧の光つまり「悟り」への道筋が照らされる。
戒律を尊重することとは、障壁としてのダムではなく、水を平穏に貯めるための枠組みとしてのダムを作ることであり、だから西山長老は鑑真が本格的に日本に伝えた「梵網経」を「ダムの作り方のテキストのようなもの」と語る。
「梵網経」には、禁酒の戒めにしても、あくまで「節度」と書かれているという。実を言えばイスラム教のコーランにおける飲酒の禁止も、正確には、飲み過ぎて酔っ払って行いが乱れることが禁じられている。どちらもコロナ禍だというのに「自粛」を求め「時短要請」をしているはずの政治家や官僚の飲酒会食が世間に呆れられているのをみるに、なんとも意味深な戒律だ。
いや今回の開催のタイミングは結果そうなっただけの偶然に過ぎないはずだが、感染症のパンデミック下では自分が感染することを防ぐだけでなく自分から感染が広がらないようにするために、仏教的にいえば「衆生」の平安を守る「利他行」に当たる様々なルール、つまり現代の「戒律」を考えなければならない。それも仏教の戒律が「悟り」という真理の探求に関わっているのとある意味同じような意味で、この「現代の利他行のための戒律」は、人間の恣意的な都合にウィルスが従ってくれるわけもなく、そんな都合で恣意的に左右してはまったくの無意味になる。
そんな「ルール」にどう向き合うべきなのか、不思議な巡り合わせで、この特別展は思ってもみなかったような深い意味を持つことになった。