「戒律」とどう向き合うのかを問い続けて来た日本仏教史
唐招提寺の西山長老の言葉を借りれば「戒律」はダム湖という心の平安を規定して知恵の光を産む原動力を産み出すダムのようなものだという。釈迦に寄れば「悟り」の真理は他人には伝えることは不可能で、自分で到達するしかないものだとしたら、「戒律」はその「悟り」に到達するための心の状態を作るためのマニュアルのようなものだ。
テクストとしてのお経はもちろん重要だが、その言葉に直接には書くことが原理的に不可能な、その奥にある真理にどう到達するのか? 杓子定規でうわべだけの「ルールを守る」では決して済むことではないし、かと言って「ルールが時代に合わなくなった」というだけで安易に変えられるものでもないはずだ。
「戒律」を守ることとはなんなのか、がテーマとなるこの特別展では「戒律のあゆみ」という題名通り、鑑真と鑑真が来日した奈良時代だけでなく、その「戒律」思想がその後の日本でどう受け止められ、その思想がどのように発展して来たのかが、同じくらい重要だ。
鑑真が亡くなって30年ほど後、桓武天皇が平安京に都を移し、平安時代には奈良の仏教寺院の勢力は大なり小なり衰える。代わってこの時代に新しい仏教として栄え、特に朝廷に重視されたのが最澄の天台宗と、空海の真言宗だ。
最澄は戒律のうち本当に重要で守るべきは「大乗戒」だけだと説いた。その一方で比叡山にも新たに戒壇が設けられ、やがて天台宗に限らず多くの学僧が比叡山で学び授戒し、平安仏教の巨大な最高権威となっていく。
真言宗では従来の戒律に加えて、密教修法で神仏と同一化する秘儀を行えるようになるための「三昧耶戒」を取り入れ、僧侶になる儀式も「授戒」ではなく、頭に聖なる水を注ぐことを意味する「灌頂」と呼ぶ。頭に水を注ぐのは、古代インドの王族の即位儀礼が起源だという。
こうして「戒律」と、「授戒」つまり僧侶になる手続きという切り口で日本の仏教史を見直すのも興味深いが、うっかりすると最澄の天台宗は戒律を軽んじていたのではないか、と思ってしまいそうだ。そういえばのちに織田信長が比叡山を焼き討ちしたときに言い訳としたのは、比叡山の僧侶が「女犯」つまり女性と性的関係を持ったり「肉食」をしていた、つまり戒律を守らないという言いがかりだった。
だが別に、最澄は戒律なんて軽んじていい、と言ったわけではない。
「大乗戒」とは「菩薩戒」のことで、自らの欲に走らずに他者・衆生に尽くす修行によって「悟り」に近づこう、というのが本来の考え方だ。最澄はつまり、僧侶の本分は自らの悟りの追及よりもまず他者に尽くすこと、「利他行」ないし「菩薩行」にあると言わんとしていたのかも知れない。 実際、天台宗は戒律を軽んじるような修行を怠けた宗派どころか、その修行は肉体的にもハードなものが多い。ただその厳しい修行の目的は僧侶個々人が自らを律してその人格を高め、やがて悟りに到達することよりも、国家の護持や五穀豊穣、戦勝祈願などの、国と朝廷とその民に尽くすための力を得るという色彩が、平安時代の仏教には強い。極端なまでに「無私」の「利他行」ではある。
現代でも天台宗や真言宗のお寺は直接的な「現世利益」が多いが、ここには奈良時代から平安時代に移る中で、仏教の社会的・政治的な役割が変化したことが関係しているのかも知れない。
たとえば比叡山は天皇のいる内裏から見て鬼門封じの方角にあり、平安京の霊的守護の役割を担っている。空海が朝廷から任せられた東寺(教王護国寺)は平安京の南端の朱雀門の東にあり、南からの霊的な守護の役割が考えられる。
空海の真言宗、密教で最も重んじられたのは「修法」、特別な秘儀で僧侶・行者が仏や神を呼び寄せ、その仏や神と同一化して、その特別な力を得て現世にその功徳・利益を与える秘密儀式だ。真言宗の「真言」とは仏の真の名前という意味で、サンスクリット語での古代インドの神仏の名前かそれに近い発音で、要するに本来の名前に近い音で仏や神を呼び出すために唱えるのが「真言」というわけだ。また文字による表記でも、これ以前の日本の仏教は中国や朝鮮半島から学んだものなので当然ながら漢字で書かれて来たのが、密教では「梵字」つまりサンスクリット語起源の文字も使われる。
そんな密教の「三昧耶戒」は、神仏と一体化できる肉体に自らを変える意味を持つ儀式で、つまり戒律を学んでそれを守って修行に専念することを誓う授戒に加えて、さらに多分に呪術的な意味づけがある。
その一方で、この展覧会で展示されている灌頂の儀式の用具の豪華さを見ても、儀礼の手順を華やかにすることに宗教的な意味を持たせる側面も大きかったのではないか? こうした華麗な法具は、天皇家の皇子・親王や大貴族の子弟が出家する儀式では、特に必要とされたのかも知れない。
忘れてはならないのは、現代の我々が科学的知識があるため密教の呪術的な側面を「迷信」と切って捨ててしまいがちでも、古代の人たちにとっては「リアル」そのものだったことだ。空海が持ち込んだ修法は当時、むしろ「最新科学」として受け取られたのだろう。
それは律宗でも、鑑真の偉大さを説くための「東征伝絵巻」で鑑真たちが超自然的な困難を善行で乗り越えていく姿がヒロイックに描かれていることにも通じる価値観だ。現代人から見れば奇想天外でおもしろいが、鎌倉時代の僧侶や絵師がただそういうおもしろさを狙ってああいう展開にしたわけではもちろんない。怪魚が泳ぎまわって怪鳥が飛び交う海だって、当時の人にとってはリアルな想像の範囲内だったし、鑑真だからそれを乗り越えられたという物語にすることが、その偉大さを分かりやすく表現することにもなったのだろう。
現代でだってたとえば地震を予知できる科学的な知見はまだないし、地震の科学的なメカニズムだって一般の人間が本当に知っているわけではない。地球温暖化の気候変動は科学者の予想を超えて急速に進んでいるし、なによりも新型コロナ・ウィルスも目に見えず、私たちは科学者の研究の結果の部分だけを教えられて信頼するしかない。
ならばそうした天災や疫病、さまざまな困難や悪運が怨霊や悪霊、悪鬼の仕業だったり、八百万の神々の気まぐれだったり、と考えることは平安時代の人々にとっても当然であり、それをなんとかコントロールしたり疫病を退散させられる、当時の人にとっては「最新テクノロジー」に当たるのが、唐から空海が持ち帰った密教だった。
朝廷が空海の真言宗に注目して重用したのは、わかりやすく言ってしまうなら真言密教が紹介した明王などの新しい仏(釈迦の教えには必ずしも言及がなかった古代インドの神々が起源)に憤怒相、つまり怖い顔をした姿が多く、見るからに悪霊や怨霊を防いでくれそうだから、そして密教の修法でそれぞれの仏の力・ご利益を現世に実現できると説いたこと、つまり当時として「実用性」が高かったからでもある。
最澄もその空海に学んで、密教を天台宗に導入したし、密教の理論を用いて日本の神々も仏が日本のために現れた化身の姿として仏教に体系化されて信仰されるようになり(本地垂迹説)、利益・功徳を求める祈りが体系化された。
そもそも密教は、世界の在り方をかなり具体的にイメージできる、その意味では論理的に構成された体型的な世界観を持ち込んだところに新しさがあった。
その世界観は「曼荼羅」で視覚化されたものを見ると分かり易く、この特別展では大阪・久米山寺の「両界曼荼羅」が展示されている。その曼荼羅の中心にいる大日如来と、その大日如来を取り囲む四如来から成る「五智如来」の、京都・安往寺に伝わる大きな五体の仏像もある。
両界曼荼羅のうち「胎蔵界曼荼羅」が表すのは、空間的な世界の広がりの説明で、世界の全ての仏や神々が、中心にいる大日如来から派生・変化した姿であり、大日如来は世界そのもので、世界はその大日如来の慈愛に満たされている、と説く。つまり世界の全てとあらゆる神仏は、宇宙の真理である大日如来を中心につながっていて、その中心となる「五智如来」は阿閦如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来が大日如来の直接の化身であることを表し、四如来のそれぞれがさまざまな化身としての姿をもち、というように世界全体が体系化される。
空海や最澄はただそういう観念的で抽象的な新しい宗教理論・世界観だけを伝えたわけではもちろんない。医学や土木技術、建築などの最先端も同時に持ち込んでいるのは鑑真の来日と同様だし、そうした現実的な最新技術で現実の世の中にも大きく貢献したはずだし、そうして具体的に目に見える成果が天台宗、真言宗が広く信仰された大きな動機にもなったことだろう。
こと空海は今でも、もともとの出身地である四国はもちろん、史実としては行ったことがないはずの東北地方でも、空海が指導して作られた溜池や用水路とされるものと、空海が創建したという寺や聖地(代表的なのが湯殿山)、空海が彫ったとされる仏像(たとえば湯殿山大権現の本地仏だった胎蔵界大日如来 http://www.dainichibou.or.jp/ 秘仏だが今年は開帳の年)が、あちこちに残っている。
というより、そうした土木事業や医学・薬学などによる生活改善と、修法などによる宗教的な功徳・利益には、当時の人間の感覚では線引きなどしていなかっただろう。薬の効能で病気から回復することと護摩法要をやってもらったら危篤状態から脱したことを区別するような発想自体が、当時にはなかったはずだ。