唐時代の中国から奈良時代の日本へ、失明してまでもの苦難の旅
奈良時代の天平5年(西暦733年)、仏教を国家統治の基礎に置こうとしていた聖武天皇は、僧になるための「戒律」を正式に授けられる高僧を日本に招聘するよう、遣唐使に随行する学僧に命じた。10年の滞在の末に栄叡と普照の2人が選び、その彼らの願いに応じたのが鑑真だった。天平15年(西暦743年)のことで、ちなみに大仏造立の勅命はこの2年後、天平17(745)年だ。
しかし唐帝国が国民の無許可の出国を禁じていて、自国にとっても重要な高僧だった鑑真の出国を許さなかったこと、師を失うことを恐れた一部の弟子たちの妨害、そして季節によっては激しく荒れる東シナ海の航海の困難が、鑑真の前途に立ち塞がる。5度も渡航に失敗し、一度はヴェトナム近くの中国南部・海南島まで漂流している。そこから本拠地の揚州に戻る大陸横断の旅のさなか、栄叡は病死し、鑑真も眼病を患い視力を失ってしまう。
それでもやっと来日を果たしたのは6度目の渡航で10年後の天平勝宝5(753)年、20年に一度の日本の遣唐使の帰国船に乗ってだった。聖武天皇はすでに娘の孝謙天皇に譲位しており、大仏の開眼もこの前年だ。
来日してから亡くなるまでの10年間、鑑真は精力的に活躍し、仏教を重要な理念的基礎とする平和国家像を目指す聖武太上天皇と、その娘で譲位されて父の理念を引き継いだ孝謙天皇の治世に、最大級の貢献を果たした。聖武と孝謙の2代の天皇と、皇太后となっていた聖武の妻・藤原光明子(光明皇后)は、鑑真の来日後すぐに東大寺の戒壇院で授戒、つまり正式に仏僧として出家する儀礼を授かっている。この時に3人が受けたのが、悟りを得るための修行として、あらゆる人とあらゆる生命の平安に尽くす心得を説く「菩薩戒」だ。
東大寺戒壇院で5年に渡り膨大な数の日本の僧侶に戒を授け、仏教の修行の基礎である「戒律」の思想を丁寧に教え続けた鑑真は、その功績により朝廷から平城京の西に土地を賜って唐招提寺を建立、東大寺からここに移って晩年の5年間を暮らした。
ここまでが、小学校の日本史でも習うことだ。
自らの視力を犠牲にしても来日を諦めなかった鑑真の不屈の意思は現代人にも感銘を呼ぶわけで、こと日中関係が急速に深まった1980年代以降、鑑真その人とその肖像彫刻は日中友好のシンボルにもなった。東大寺戒壇院の千手堂にある本像を模した木像の鑑真和上坐像(重要文化財)が故郷の揚州で公開され、さらに揚州に恒久的に安置されるためのレプリカも作られた。唐招提寺でも脱活乾漆の技法を再現した精緻な「平成の御影像」が作られ、年に一回しか開帳されない実物の身代わりとして、開山堂で常時拝観できるようになっているが、揚州の像をここに招いて2体が対面する、という法要が行われたこともある。
試練と苦難を乗り越えて来日した鑑真の人柄に魅了されるのが、現代人に限ったことでもないのは、今回の展覧会に出品されている唐招提寺のもうひとつの鑑真ゆかりの宝物、「東征伝絵巻」(重要文化財)を見ても分かる。鎌倉時代の作で、五巻の長編に渡って鑑真の生涯を描く。
最大の見どころはもちろん、10年がかりの日本に渡る旅だ。
写真は鑑真の最初の旅を描いた巻二だ。冒頭で栄叡と普照が鑑真に面会し、鑑真は2人の願いを引き受ける。港から船出するシーンと航海、そして嵐に遭って難破する光景が、生き生きとして親しみを覚える筆致で、ドラマチックに描かれる。
船を修繕して一行は再び日本を目指すが、またもや嵐に遭って漂流、漁師たちに救われ、懇願されてしばらくその地に留まることになる。
なお史実では、鑑真一行は五度目の航海で南に流され、ヴェトナムに近い海南島に漂着、救出してくれた地元の漁民たちに請われて一年間この地に留まった。そこで鑑真は仏教を教えて授戒も行い、特に医学・薬学を教えることに力を尽くしたという。今日でもその滞在した寺は残っていて、鑑真は今も深い崇敬を集めている。
鑑真の旅はなぜ、鎌倉時代に奇想天外な冒険譚も交えた絵巻になったのか?
「東征伝絵巻」の方はこの先、奇想天外な冒険譚にもなって行く。巻三の冒頭の、三度目の航海では、一行の船がなぜか怪魚・怪鳥だらけの海を渡っている。伝奇ファンタジー的なストーリー展開ならそれを絵画にする表現もなかなか奇抜で、赤い巨大な怪魚が船を取り囲み、夜の闇の中でも光って泳ぐ姿は、なんと金を使って描かれている。
続いて今度は水が尽きてしまい、一同は渇きに苦しむ。そこで栄叡が見た夢の中で出会った人に請われて戒を授けると、お礼に水を差し上げよう、と言われる。果たして夜が明けて栄叡が目覚めると、雨が降って一行は渇きから救われるのだが、この夢のシーンがマンガの吹き出しのように挿入されて海の上に描かれているのもおもしろい。
鎌倉時代にはこうした高僧の生涯や寺社の縁起を描いた絵巻物が盛んに作られた。通常の絵巻物よりも幅が広い紙を使った大判で絵も豪華なものが少なくなく、しばしば奇跡めいた伝説が描かれることもあって絵画的にも独創的で内容が充実した優品が多い。「東征伝絵巻」もそうした絵巻物文化の最盛期の好例で、絵師・蓮行の腕も確かな、大変な力作だ。
夜の怪魚のシーンの金に限らず、使われている顔料もかなり良質なのだろう、700年以上経っていても褪色や剥落も少なく、見応えはたっぷりだ。まだまだ多くの庶民は字が読めなかった鎌倉時代に、鑑真が伝えた経典の言葉・文言だけでは伝わらないことも多かったからこそ、絵で分かりやすくその偉大さを伝えよう、という熱意が、この絵巻に結晶しているのだろう。
ちなみにこの展覧会では、こうした高僧の伝記物の大判で華麗な絵巻として、他にも京都・知恩院の国宝「法然上人絵伝」全四十八巻のうち、巻十が出品されている。
こうした大判で紙も顔料も上質な絵巻物の製作となると、当然かなり高価だったはずだ。鎌倉時代では、奈良時代の「鑑真和上坐像」に高価な脱活乾漆の技法が使われたのとは文脈がいささか異なっていて、こうした絵巻を寄進した施主が、よほどの熱意と篤い信仰心を持っていたのか、そしてこうした事業の社会的意義を信じていたのかを、示すものだろう。
当時の新しい仏教のひとつで急成長していた浄土宗の開祖・法然なら当然だろうが、奈良時代の、つまり500〜600年前の鑑真について、こうも豪華な絵巻が作られたということ、しかも奇想天外なファンタジー描写まで使ってその偉業を伝えようとしていることからも、鑑真の教えが鎌倉時代にも重要視されていて、500年以上を経てもリアルタイムに重要な宗教指導者だったことがうかがわれる。
一方で気になるところもある。
現代人であれば鑑真が自らの視力を犠牲にしてまで来日してくれたことにさらに感動するのだが、「東征伝絵巻」には鑑真が失明していた言及がない。これは中世の日本で、身体の障害や一部の病気が前世で犯した罪の「因果応報」とみなされたり、怨霊の仕業など不吉な兆候とみなされがちだったことと関係があるのかも知れない。