大陸渡来のさまざまな先端的な技法から、日本人がこだわる木の仏像へ
言い換えれば、仏教の受容が今日とはかなり異なっていたわけでもあろう。むしろ仏教こそが、当時の日本人にとっての「最先端科学」にみえたのかも知れない。現代人のようにお寺や仏像に過去に結びつく懐かしさや、落ち着いた雰囲気や心の安らぎを求め、日々の個人的な健康や安全を祈願したり道徳的な指針を仏教に求めたりする以前の、仏教の「まつりごと」における役割は、なによりも「国家鎮護」だった。
後に平安時代になって密教が導入されると、さらに不動明王や愛染明王などの憤怒相の仏が信仰を集め、その像が盛んに作られることになる。そういえば後々の鎌倉時代に運慶や快慶が活躍した時でも、特に運慶がこうした表現に共通するリアルな迫力のある四天王などの像を盛んに作っていたのも、平安末期から戦乱や激動が続き、社会の荒廃がその背景にあった。
当然ながら日本の仏像は、最初は朝鮮半島から輸入されてその模倣から始まり、当初は朝鮮半島からの渡来人が中心になって製作されていた。そして飛鳥時代から奈良時代にかけて、遣隋使・遣唐使によって中国から新しい様式が技術が入る度に、日本の仏像製作の技術や様式も更新されて行った。
ところが奈良時代までは金銅像、粘土を固めた塑像、漆におがくずを混ぜたペーストで整形する乾漆像など、様々な技法が駆使されて来たのが、平安時代に入っても遣唐使を通して中国の最先端の文化文明を学ぶ姿勢は基本変らないのに、仏像は圧倒的に木像が中心になる。
奈良時代によく用いられた仏像製作の技法に、漆におがくずを混ぜた「木屎漆」で麻布を固めた脱活乾漆がある。元を辿れば古代エジプトのミイラのマスクに源流があると言う説まで唱えるエジプト研究者もいるが、日本には当然中国大陸から入って来たこの技術をさらに応用して、木から彫り出すのよりも自由な造形が可能なことから、奈良時代には木を彫った像の一部の表面を「木屎漆」で整形して、精緻でリアルな表現を追求した木芯乾漆像も多く作られた。
木という素材へのこだわりが、日本にはあったのだろうか?
木芯乾漆像は平安時代の初期まで作られているが、並行して大きな一本の木材から主要部分を彫り出した「一木造り」の、迫力のある木像が、奈良時代から平安時代の変わり目に多く作られるようになる。
日本では今日でも、カミガミを数える時の単位は「はしら・柱」だ。これは元は大木を指す言葉だったと言われ、古代のカミ信仰や初期の神社では神像はもちろん祠や社のような建物もなく、大木にカミが宿ると信じられ、その下に大きな岩を置いた磐座を、神が降りて来る場としていた。
展覧会の終盤に、出雲にかつてあった大寺薬師の、一木造りの四天王に囲まれた展示室の中央に立つと、仏像に囲まれていると同時に、大木に囲まれているような感覚がある。巨木の森の中にいるような神聖さの感覚といえば、出雲大社の巨大本殿は究極のそういう表現だったような気もして来る。
飛鳥時代、奈良時代以降、仏教寺院が全国で盛んに作られることになるが、大きな建造物となれば大木を使った頑丈な柱や梁が当然必要だった。古代の日本列島の人々はそうした巨大で華麗な伽藍の大きさや見た目の美しさに分かりやすい神聖さを見ると同時に、そこに使われた巨木そのものにも神聖さを感じたのではないだろうか?
巨木から彫り出した一木造りの仏像にはそうした意味もあったのではないだろうか? 現に奈良県と鎌倉の長谷寺の縁起のように巨木の霊木が仏像になったというような伝承もあるし、「立木観音」と呼ばれる、生えていた巨木をそのまま彫って仏像としたと言われる例もある。
ここまで見て来て得られたインスピレーション(あるいは空想?妄想?)をさらに深めた9なったら、ここが東京国立博物館であることが実にありがたい。ちょうど東洋館で2月9日まで開催している『人、神、自然』を見ると、古代の日本列島の人々が歩んで来た精神の歴史の普遍的な側面が見えて来て、世界中に共通する文化が息づいていたところと、日本固有の差異だったところの、理解が深まって来るかも知れない。
また東洋館の1階には、古代の仏教美術に大きな影響を与えた中国の石造や金属製の仏像が多数展示されているし、5階の朝鮮半島の展示コーナーには、古代の日本と密接に繋がりがあった三国時代の金銅仏もある。
「法隆寺献納宝物」からこの展覧会に飛鳥時代ないし朝鮮三国時代の金銅仏が2体出品されているが、このコレクションを展示する「法隆寺宝物館」に行けば、膨大な数の金銅の観音菩薩などの菩薩像が展示されている。例えばこの展覧会に出品されている出雲・鰐淵寺の2体の金銅の観音菩薩立像とも比較しつつ、さらに「数」「量」と「素材」に目を向けると、見えて来ることがここにもあるはずだ。