出雲から出土した、弥生時代の銅剣358本!
「国譲り」が「古事記」に示唆される暴力的な侵略か、「日本書紀」の平和な統治権移譲だったのかはともかく、「日本書紀」の方が「正史」であり、その記述に沿った出雲への篤い信仰がずっと継続して来たことは確かだ。だか肝心の、元になったのであろう古代史上の一大事件はと言えば、この二つの書物が日本で書かれた最古の歴史書で、それ以前には日本列島の古代王朝(当時は「倭」)が朝貢した先の中国王朝の記録くらいしか文献がなく、そして中国側には「国譲り」を意味していそうな記述が見当たらない。
つまり「国譲り」に当たることがあったとしても、客観的にいつ頃のことで、実際にはなにが起こったのか、手がかりは考古学にしかない。大和の王権が成立する古墳時代の前の時代といえば「中津国」は弥生時代なのだろうが、出雲では1980年代半ばから、この時代について筆者の世代が学校で習ったような「常識」を覆す発見が相次いでいる。
1984年に荒神谷遺跡、1996年には賀茂岩倉遺跡で膨大な量の弥生時代の青銅器(銅鐸、銅剣、銅矛)が発見され、既存の「弥生時代」の観念が大きく見直されることになったのだ。この二つに代表される出雲の弥生時代の多くの遺跡から分かって来たのは、そこにあったクニが少なくともかなり広範な範囲の交易網を持っていたか、もしかしたら広範な統治・支配権に近いものすら持っていた可能性だ。
こうした青銅製品は、銅剣や銅矛も実用の武器ではなく祭祀の道具だった。かつての定説では地方ごとにそれぞれに、銅矛は九州で生産され、銅剣を信仰していたのは九州・四国・中国が中心、銅鐸なら近畿地方が中心でそこから東というように、製造され祀られた地域の住み分けがあったと考えられ、「銅鐸文化圏」「銅剣銅矛文化圏」と言った説が教科書にも載っていた。
それが荒神谷遺跡では358本という尋常ではない大量の銅剣に加えて、大振りの銅矛が16本、さらに銅鐸6個が、同じ場所から発見されたのである。
今回の展覧会ではその銅剣・全358本のうち168本が東京に運ばれ、整然と並べられて展示されている。この物量の迫力がまず、とにかく圧巻としか言いようがない。
「数が多い」「大量である」それ自体が、生産できるだけの技術力や財力も含めて、古代の人々にとって大きな意味を持っていたことを体感できるだけではない。当時の出雲の勢力範囲の、およそ一地方に止まらない広範さも見えて来る。
358本の銅剣は、こうして並べられると一目瞭然なように、すべて同じ大きさと形式で、同じ鋳型から作られたものも43組113本あるという。もしかしたら銅剣の大量生産工場が出雲にあったのだろうか? あるいは出雲の勢力圏内にあった工場で大量生産されたものが、ここに運ばれて集積されたのだろうか?
銅剣にせよ銅鐸にせよ、こうした祭祀用の青銅器がひとつの集落でこれだけ大量に必要されたとは考えにくい。同じ鋳型で大量生産されたとしても、製造された場所から祭器として使用される各地に流通したと考えるのが自然だろうし、その流通範囲に共通した価値観を共有する文化圏が成立していたというのも自然な連想ではある。ならばそういう同じ文化・共通する信仰価値観を持った広範な共同体の勢力範囲が重なる場所か、あるいは複数の元は異なった文化を持ったクニグニの中心に、出雲が君臨していたのではないか?
だとしたら、だから現在の出雲大社からもそうは離れていない荒神谷に、いったんは各地に流通していた銅剣と、さらに様々な地域からの銅矛や銅鐸が集められ、出雲のクニの権力者(王?)の意向でまとめて埋められたのではないか?
銅剣の近くで発見された銅矛は九州北部や四国南部から出雲に持ち込まれたと考えられ、その銅矛と同じ穴から6個がまとまって発見された銅鐸は1個が出雲製、5個は近畿からもたらされたらしい。徳島県で見つかった銅鐸、兵庫県の銅鐸とそれぞれ同じ鋳型のものが、1個ずつ含まれているという。
雲南市の賀茂板倉遺跡から出土した39個(うち30展を展示)の銅鐸も、流水文と袈裟襷文が混在している。袈裟襷文は出雲で作られたとみられ、流水文は近畿地方・河内平野から出雲に持ち込まれたものだという。
つまり紀元前2〜1世紀の出雲は、少なくとも九州・四国から河内平野(今の大阪府)に渡る広い地域と交易があったか、それらにまたがって支配権も含む広範な勢力域を持っていたかも知れないことまで、この膨大な量の青銅器から見えて来る。
河内平野産と考えられる銅鐸の「流水文」は細かい模様なので、残念ながら写真ではよく写らないのだが、とても洗練されてモダンにも見える柄なので、ぜひ展覧会で確認して頂きたい。むろん2000年を経た出土品で表面に緑青が出て見にくくなっているだけで、祭具として使われていた時には鮮明だったはずだ。
もうひとつ注目すべきこととして、これらの銅鐸や銅剣・銅矛は、たまたま偶発的に歳月の流れの中で土に埋まったものではない。明らかに意図的に集められ、埋納されたものだ。たとえば荒神谷遺跡の358本の銅剣は、一方の刃を下にして立てた状態で、整然と並べられていた。
これだけの大量のものを一括して処分したということは、宗教文化が大きく変わって、使われなくなった祭器を処分した、と考えるのがもっとも妥当だろう。
兵庫県や奈良県、高知県などでは、もっと後の時代の、銅鐸が明らかに破壊されて埋められていた遺跡があるが(つまり壊した上で捨てたか、青銅を武器などに再利用した可能性もある)、賀茂板倉遺跡の銅鐸は横の尖った部分を下にして(つまり意図・人為的的に)、小型銅鐸は大きな銅鐸の中に入れられて、やはり整然と並べられて見つかっている(この埋蔵状態を復元した実物大模型も展示)。
近代的な科学などはなかった古代において、信仰と祭祀・宗教は世界観そのものだったと同時に、共同体の共有する価値観が信仰によって権威を担保されることで統治・支配が正当化されていた以上は、政治でもあった。だいたい日本語の「政治」は訓読みをすれば(つまり元の「やまとことば」では)、文字通り「まつりごと」である。
そんないわば社会の精神的インフラが激変したのだとしたら、その理由としては統治権力の交代で新しい信仰体系が強要されたか、ある信仰に基づく共同体が別の共同体に滅ぼされた可能性を真っ先に思いつく。現に他の地方で発見された、より後の時代の破壊された大量の銅鐸の発見となると、新しい支配者が過去の権威を徹底否定した痕跡か、暴力による侵略の可能性すら考えられる。だが出雲で発見された大量の青銅器の埋蔵状況からは、そうした暴力的な体制転換とは異なった、もっと文化的な態度に根ざした文明のあり方が見えて来はしないだろうか?
あるいは、仮に青銅器祭祀の信仰体系に基づいた統治体制が武力・暴力で殺戮を伴って滅ぼされたのだとしても、滅した側が滅された側に敬意か、祟りの恐怖のような畏れ抱いていたので、その霊魂や神霊を鎮める意図を込めてこういう丁寧な処分をしたのだろうか?
紀元前1世紀から紀元1世紀頃、大和の王権の全国支配が成立したと考えられている前方後円墳の時代の始まり(後述)よりも2〜300年くらい前になる。つまり以下はただの素人考えでしかないが、「国譲り」の神話について「古事記」と「日本書紀」でニュアンスが異なっている(前者では武力による侵略とも読めるが、公式歴史書の後者では、大和が出雲のカミガミを丁寧に祀るという約束と引き換えに統治権を得る)ことも、思い浮かべてしまう。もしかしたら、大和の朝廷が出雲大社の巨大建築を造って出雲を丁寧に祀り続けたのも、そう言ったところに原点があるのだろうか?